プロローグ
痩せ細った枯れ木のような肢体を引き摺って、少女は歩いた。
何処へ向かうでもなく逃げ出すように。
渇いた喉が唾液だけを下していく。筋肉が落ちて痩せ細った喉はぼんやりとしか機能せず、もはや物を飲み込む感覚さえも薄れていた。それに乾いているのは喉だけではない。瞳も、唇も、肌も、心までも、乾ききっていた。
アイシャが村を出て、正確に言えば追い出されてからもう二日も経った。
口にできた物は木の根っこと気まぐれに降る雨だけだ。
それでも、獣の匂いに塗れた食事を口にするよりかは何倍もましだと思う辺り、忌まわしき血を恨まずにはいられない。
飢え死にしかければお前の偏食も治るかもな、なんて村人の皮肉が頭をよぎるが、残念ながら死に掛けた程度では治ってくれそうもなかった。
限界が近いことはぼんやりと理解できる。
足元がおぼつかないのだ。体もふらふらと、望んでもいないのに揺れる。
皮のような体には活力が欠片も残っていない。
水仕事で割れた手と、畑仕事で肉刺のできた手のひらを見て、汚い手が、まだ汚くなるのだなとアイシャは乾いた笑みだけを口元に浮かべた。
(死ぬ……のかな…………)
既に声を出す力もない。
確定された未来を口にできない事は幸運なのかとさえ思ってしまって、自嘲の笑みが少しだけ深くなった。
(パパと……同じ場所で死にたかったな……)
このまま力尽きて死ぬのが先か、獣に襲われて食われるのが先か、どっちにしろ時間の問題だった。
アイシャにとって、死は珍しいものではない。
自由交易都市の開拓村は貧しいものがほとんどだった。
天候に恵まれず作物が育たなければ餓死者が出るし、狩猟の途中で魔物に食われることだってある。盗賊に襲われて壊滅する場合もあるし、金のない貧民が地位向上を目指して身売りをすることもあれば、ただ生き残るためだけに家族を売ることさえ珍しくはないのだ。
餓死者が出ると奏上した所で領主は税を軽減してくれることさえない。彼らは搾取する対象がどうなろうと数の上での絶対数さえ確保できれば、何人死のうと関係がないのだ。農民など放っておいても次が生まれる。そんな考えで管理される農民は同種としての扱いさえ受けれない、地を這う虫と同じだ。気まぐれで潰される、そんな虫。
貧困に喘ぐ農民など幾ら死んでも、誰も認識すらしない。
それがアイシャの知る世界だった。
そんな世界で生きることは、たったそれだけのことは過酷を極める。
だから、育ちが遅く、好き嫌いが激しいごく潰しのアイシャに村での居場所はなかった。
いや、なくなってしまった。
何をやっても人並みに働けない。二十も年を数えれば、周りは皆大人だというのに、アイシャだけはまだ小さな子供の姿のままだ。
アイシャはもう、いらない人間だった。
それをアイシャは悲観しない。
アイシャが悲観するとすればそれはたった一つだけ。
結局自分は父に甘えているだけの、
無意味で、
無価値で、
無力な少女でしかないことだけがただ悲しい。
父を助けることができなかった自分が恨めしい。
だから、彼女は誰も恨まない。
ただ、自分だけを恨んでいるから。
ぱさぱさになった金糸の髪が、風に乗って靡いた。
そんな風に導かれるかのように、アイシャは森の奥を覗き込んだ。
漆の如く暗い森が、月光に照らされて、鬱蒼とした不気味さを残したまま淡く輝いていた。
そんな森の中に聞えた足音――
(獣……! でも、もう逃げらんない……)
身体はとうに限界を迎えていた。
アイシャの予想は当たっていて、それでいて外れていた。
「なんだぁ? ガキじゃねーか、捨てられたか、おい!」
「ひゃはははは、持って帰って輪姦すとすっかぁ」
「んだよ、ギール。骨みてーで色気もない上、ガキだぞ? 俺は御免だね、これじゃあ売り物にもなりそうにねー! 殺しちまえ、帰りが遅いと親分にどやされっぞ」
獣は獣でも、薄汚く欲望に塗れた野獣が複数、アイシャを囲むように立ちはだかった。
アイシャの体がビクリと震えた。
村人達が向けていた憎憎しげな視線が可愛らしく思えてならない。
明確な悪意は、害意は、敵意は、殺意は、これほどまでに体を、心を蝕むものなのか。
(……そんなのって、ないよ…………)
幸せではない人生だった。
食は貧しく、衣服はボロボロ、毎晩冷たい夜風に震えながら眠り、朝は日が昇ればすぐに目を覚まさないといけない。水仕事で皮膚は割れるし、村人が贅沢品だと食べる肉は一口も食べることができない。
今も心の底から肉体のいたる所まで空腹が支配しているが、思えば空腹でないときなど数えるほどしかない。薄汚れていないときなど水浴びをしたその日だけだし、傷を負わないでいれた日があったのは子供の時だけだろう。
父が死んで村から追い出され、死神の鎌を傍に置いて、それでも必死に生きた結果がこれではあんまりだった。
「いやいや、持ち帰りだって! 確か何人か幼女でもいけるって奴がいたぞ。穴がありゃ女として十分だろーが! ただでさえ親分が売り払うって女にありつけてねーのに!」
「ひゃはははは、お前も好きだなぁ……んじゃお前が担げよ」
「つか、こいつほんとに生きてんのか? さっきから動かねーし、喋べんねーし、泣きさけばねーし、お~い、生きてんのかぁ?」
盗賊たちの声がどこか遠い。
アイシャはただ空白の心で、行き場のない怒りだけを閉じ込めていた。
何を恨めばいいのか、分からないから。
誰に怒りをぶつければいいのか、分からないから。
領主か?
病か?
村人か?
母か?
盗賊か?
世界か?
それとも、自分、なのだろうか?
力なき口が微かに――
そう、ほんのすこしだけ――
激情に押しだされて――
確かに開いた。
「……誰か、答えてよ…………!」
答えなど響くはずはない。
聞えてくるのは野盗の下品な笑いだけだ。
そもそも、答えなどあるはずもなく、アイシャも期待した訳では決してなかった。
ただ、堪えきれなかった、それだけだ。
だが、それは降りてきた。
天使が降誕しているかのように神々しく。
何処までも暗く深い夜のようだった。
それが何を体現した存在なのかアイシャでは、いやこの場にいる全ての人間では量ることすらできなかった。
ただアイシャにも確信を持って言えることが一つだけ――
――あれは、歪だ。
内に秘めた闇は底を覗くことすら恐ろしい力の渦だった。
無力な人間では、いや古耳長族だろうが真祖だろうが、あれには決して届かぬだろう。
何処までも、何よりもたた深い黒。力の塊としか形容できない波動の持ち主は、小さな少女の姿をしていた。
戦闘技能を一つも持たないアイシャでさえ、膨大な魔力と只ならぬ気配を感じているというのに、その張本人はただの人、いや美しすぎる人形のような少女でしかないなんて、どうしても納得がいかなかった。
それは辛うじて残った理性が咄嗟に残した思考の残滓なのだろう。
だが、心は既に魅了された後だった。
もう、それから目を逸らすことができない。
己の命すら紙切れの如く投げ捨てて、ただ宝石箱の中の真珠を眺めるが如く、見入っていた。
濡れたように輝く漆黒の髪が、理想としかいえないほど小さく調った顔を包んでいた。金色の円環が包んだ瞳が闇の中でこそ栄える。その左目の下には龍の鱗のような紅い秘宝が乗せられていた。しなやかな四肢は雪原の如く澄み切った純白、漆黒のドレスに身を包み、意匠の赤が微かながら光りを放っていた。
ああ――
嗚呼――――
なんと、
なんと、美しいことか。
そんな色々な意味で次元の違う少女が悠然と口を開いた。
「良い、色だ。呪うな、少女――類い稀なる己が幸運に笑みを浮かべよ」
アイシャのもう一つの人生は、きっとこの時に始まったのだ。