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その二ヶ月ほど前、時節としては一一月の下旬にさしかかった頃。
空調の完備した室内から出ることのない生活では寒暖を感じることはないが、少女は冬の訪れを空気の匂いで感じていた。
その日も訪問者によって、外の空気が病室に流れこんだ。
「初めまして。『セヴン』――風間七奈ちゃん」
七奈はテレビ画面に向けていた顔を扉の方に向けた。
長い黒髪が紗らりと肩から落ちる。元々背にかかるほど伸ばしていた髪は、ここに入院してからさらに伸びて、そろそろ腰に届くほどだった。彼女自身はそれをとても気に入っている。手入れは大変だが、それは自己を形成するアイデンティティの一つであり、今は便利な武器でもあるのだから。
「……誰?」
病室を二つに区切る強化ガラスの向こうに立っているのは、知らない男だった。明るい色の髪を後ろで束ねていて、銀縁の眼鏡と白衣がなければただのチャラ男っぽい。白衣の下は真っ黒なシャツとズボンを着ているせいで、すらりとした細身の体がさらに細く見えた。
いつもの女医ではないことに不審を覚えつつも、べつにどうでもいいことかと思い直し、七奈はテレビの画面に目を戻した。
テレビの映像は学校の教室を後ろから撮影したもので、整然と並んだ机と椅子に腰掛けるセーラー服姿の少女たちの後ろ姿と、正面の大きな黒板が見えるように映っている。
今は四時間目の授業の最中で、英語の関係代名詞の応用について教師が熱弁を奮っているところだった。冬休み前に行われる期末テストが近いこともあり、お昼前の空腹を感じつつも、七奈はいつも以上に熱心にノートをとっていた。
「僕は真土。真の土と書いてまづち。名前は迅速の迅。好きに呼んでくれていいよ」
「つっちー。今勉強中だから、出て行って」
画面から目を離さずに言うと、男――真土はびっくりした顔をした後、困ったように微笑を浮かべた。
「学校の授業をリアルタイムで送っているのかい。えらいね、テストもちゃんと受けるんだろう? 勉強の邪魔をして悪いんだけど、後で録画ビデオを見てもらうわけにはいかないかな。きみとの面会はすごく手続きが面倒な上に、時間もたった十分しかもらえなくてね」
「用件は?」
短く問う。答え次第ではその通りにしてやってもいいが、どうせつまらないことだろうと高をくくっていた。そもそもこの程度の会話も、初めて見る顔だからこそ付き合ってあげているに過ぎない。現在までに訪れた来訪者はすべて、少女の実の兄を除いて、相手をする価値を見出せるものではなかったから。
「大したことじゃないよ。一度きみとお話ししてみたかったんだ。僕はきみに興味がある」
「わたしはつっちーに興味がないよ」
「お兄ちゃん以外の男には興味がない?」
瞬間、少女の長い髪がふわりと持ち上がり、毛束の一つが鋭い刃物の形に変わったかと思うと、防弾ガラスで区切られた真土の方へ切っ先を向けた。少女自身は画面から目を離さないまま、冷たく言い放つ。
「わかってるなら話が早いよ。おにいちゃん以外の男なんて見るのも話すのも嫌。汚らわしくてきもちわるい。早く出てってよ。次はないからね、つっちー?」
真土は明確な殺気を受けて身を強ばらせたが、すぐに気を取り直したようでひょいと肩をすくめた。
「それじゃまずはそこから治療しようか。僕とお話ししてもらうには、男性に不慣れなままじゃ駄目みたいだからね」
先の言葉が脅しではなく本気だったからこそ、少女は鼻白んだ。相手は思ったよりも肝が据わっているようだった。
「死にたいの? わたしはあなたと話したいことなんてないわ」
「死にたくはないが、きみの手にかかるのは悪くないかもしれない。僕は美しいものが好きだ」
七奈は思わず目と口をぽかんと大きく開けて真土を見つめ返した。モニターから聞こえてくる教師の声が耳を素通りしていった。
「これからできる限りお見舞いにきたいと思ってる。七奈ちゃんに少しずつ慣れてもらえるようにね」
「……何が目的?」
「きみに興味があるっていうのが一番。二番は――僕に協力して欲しい」
「協力?」
「僕はこの特別医療棟の――いや、この研究所そのものの在り方を変えたいと思っている。それには七奈ちゃん、きみの――レベル5の力が必要だ」
少し喚起されかかっていた興味が、ふっと消え失せた。七奈は心底からつまらなそうに――落胆を隠すことなく言い捨てる。
「くだらない。なんでそんなことにわたしが協力しなくちゃいけないの」
「もちろんきみにも大きなメリットがある話さ。現状のままじゃ、きみたち特重度や重度の感染者たちはおそらく一生、この特別医療棟を出ることはできない」
それはたしかに、その通りだろう。何か革新的な治療法でも見つからない限りはD症候群が完治することはないし、七奈を始めとする重度判定以上を受けた患者は一生、陽の目を見ることはない。実力行使による脱走でもしない限りは。……それは少女も理解していることだ。
まあ、だからといって何も困っていないからこそ、こうしてテレビ画面の授業を受けているのだが。
「しかし僕の目的が達成された暁には、きみたちの扱いは大きく変わる。軽度・中度のD感染者たちだけでなく、重度・特重度のきみたちも社会復帰に向けて動くべきだ」
「へぇ……人権尊重的なあれ? つっちーって博愛主義者?」
「いいや。僕はただの病理学者だ。現状に納得していないのは何もきみたちに限った話じゃないってことさ。このままじゃいずれこの特別医療棟は満員になる。入ってくる者は後を絶たないのに、出て行く者がいないからだ。これまでの監禁治療が結果を出せていない以上、無意味で無実なものと切り捨てて、新たな手法を取り入れるべきだろう? 僕はそう考えている」
真土がどうやら本気らしいというのはわかったが、それでもやはり、七奈には一切、何も共感すべきものは得られなかった。
「あのね、つっちー。他の奴らはどうか知らないけど、わたしはべつに不満があるわけじゃないよ」
兄には逢いたいが、向こうから逢いに来てくれるのを待つことは、別に苦痛ではない。もしも自分が今の境遇を不満に思っていたら、こんな檻数分で破ってみせる。現状、特に不自由があるわけではないから幽閉に甘んじているに過ぎない。――少女は本気でそう考えていた。
「だが、きみがここに閉じこめられているという事実は変わらないよね。脱走して外に出るのと、きちんと認められた上で大手を振って外に出るのとでは違うよ」
七奈はそこでふぅ、と溜息をついた。
「……何が目的なの?」
二度目の質問だった。男の意図がわからない。わからないという感覚が少女を苛立たせる。微妙に心がざわついているのはそのせいだった。
「さっきも言ったように、僕はこの研究所を変えたい。そしてきみたちには少なくとも今よりは自由を与えたい」
真土はそこでにこっと爽やかな微笑を浮かべた。
「それと、僕は個人的にきみに興味がある。セヴンというよりも、風間七奈ちゃんにね」
まるで愛の告白じみた物言いに、ブチンと音をたてて何かがキレた。
「そういうのやめてって言ったでしょう。ねえ、殺していいかな? やっぱり殺すね? もう殺すから」
「ごめんごめん、初対面の男にそんなこと言われても困るよね。そうだ、今度お詫びに――」
バリンッ――――!!
強烈な破壊音がして、真土の眼前に防弾ガラスを突き破った黒い刃が突きつけられていた。
「……お詫びに、焼き芋でも買ってくる、よ……」
今にも男の喉をつかんとしていた刃の先端が、鼻先数センチのところでぴたりと止まった。
激しい警報のブザー音が辺りに響き渡ったのと同時、七奈がそれをかき消すほどの舞い上がった声を上げた。
「焼き芋十個ね!」
瞬時に黒い刃は立ち消え、元のつややかな黒髪へと戻っていた。
「よかったね、つっちーの命は芋十個で救われたよ。三日以内にもってきてよね。持ってこなかったら、三日目の夜につっちーの部屋に殺しに行くからね?」
寸前までとは一転してきゃるんと歳相応の少女のように微笑む七奈に、真土は冷や汗混じりの苦笑を浮かべながら大きく頷いたのだった。