12-2
そもそも妹が絡んでなければ俺が今ここに立っていることすらなかった。早く帰って寝たいし、すすんで化物共とお近づきになりたいなんて思うはずもない。俺は紗羅さんとは違って平和主義者なのだ。
果たして男が襲いかかってくることはなく、感情の読みづらい糸目がこちらを探るように見つめてくるだけだった。
「まあ、だいたい想像はつくよ。〝D〟は本体である人間の心を投影する鏡のようなものだ。人が『そうあれかし』と望んだ通りに神は姿を現す。逆に願いを与えられる前の〝D〟は赤子に等しい存在だとも言えるからね」
その言葉にギクリとしたものを感じ、俺は思わず自分の右手を凝視した。
俺の悪夢の中にしか存在しなかったはずの無垢と邪悪とを織り交ぜたような虚無の女――しかし先ほど姿を見せたあいつは、明らかに別の存在へと変貌を遂げていた。
夢の中から飛び出してきたこともそうだが、あの口調……あいつは元々ほとんど意思の疎通すら不可能で、見た目に反してまるで童女か白痴のごとき有様だったのだ。しかしさっきのあいつは、老成した雰囲気でそれは見事なババア言葉を自然に操っていた。
あれは……俺が『願った』からあいつが『変わった』ということなのだろうか?
「へぇ、そこで驚くんだ。きみって本当、変わってるよね」
男は愉快そうに笑い声をあげると、それからふっと表情を消した。
「外で待機していた連中が動き出したみたいだ。ゆっくり話している時間もないし、続きはまた今度にしようか」
話を切り上げようとした男に、俺は思わず問いかけていた。
「おまえ……何なんだよ?」
「ん? 僕かい?」
すでにこちらに興味をなくしたように視線をはずしていた男が再度こちらを振り向く。
と同時にシュババッと機敏な動きで謎のポーズを決めた。
「四天王のナンバー・スリーにして〝セヴン〟の右腕! しかしてその正体は――!!」
「……!?」
「本当は秘密なんだけど、教えてあげるよ」
わりとあっさりだった。
四天王ってなんだよ。ちょっとかっこいいと思ってしまっただろ。
男はポーズを解除しつつ冗談めかした口調のまま名乗りをあげた。
「姓は美馬坂、名は麗羽。そしてここでの識別名称は――〝ヤタガラス〟」
八咫鴉……? 聞いたことのある名前だった。たしか白鷺先生の授業にも登場した有名な逸話に登場する神――それがこいつだと?
「〝天の御使い〟などと呼ばれることもあるが、本質的な僕は主に仕え、役目を果たすことが使命であるがゆえに意志をもたない。いわゆるD症候群としての基準は低めで、本来ならば特別医療棟にいる必要すらないんだよ。そういう意味ではきみにかなり近いかもね」
美馬坂は俺が特別医療棟の患者ではないことをわかっている口ぶりだった。だが俺に近いという言葉が本当ならば、なおさら異常だ。〝D〟にとってここは普通ならば近寄りたくもない場所であるはずなのだから。
「なら、こんなところで何してるんだよ?」
「僕には仕えるべき主が必要だ。ずっと探していて、そしてやっと見つけた。今の僕の主は――彼女だ。もっとも、まだ正式な主従関係を結んだわけじゃないけどね」
糸のように細い目をさらに細めて、美馬坂は不気味に微笑んだ。
「それにこの実験――『おままごと』はわりと気に入ってるんだよ。四天王ごっこも楽しかったし、まだぶち壊しになって欲しくない。だから今はきみに危害を加えるつもりもないさ。方法はどうあれ、きみは彼女を守るためにやって来た。そうだろう、お兄ちゃん?」
美馬坂は意識的に「今は」の部分を強調しており、それがひどく挑戦的に響いた。思わず俺は右手を胸の前に構えたが、相手はただ薄く微笑し続けるだけだった。
「主のそばに仕え導く、それが僕の役割だ。きみとはいずれまた逢うことになるだろう。それは再びこの場所か、あるいは外の世界かもしれない。その時きみが果たして敵か味方かまではわからないけどね」
クククッと含みのある笑みを洩らし、今度こそ話は終わりだというふうに美馬坂は口を閉ざした。
時を同じくして、終焉を告げる轟音が辺りに響き渡った。振り向くと、硝煙のあがる銃を天井に向ける紗羅さんの姿があった。その背後から夥しい数の警備隊やら看護師の連中やらが現れ、狂宴は幕切れとなった。




