10-2
端から見ればキスしているだけに見えるかもしれないが、勘違いしないで欲しい。これは『エナジードレイン』というやつなのだ。
俺は紗羅さんによって、経口を通じてたっぷりと生気を吸い取られていた。どうせ俺にとっては不要とも言える悪いモノもまとめて吸い取ってくれるので、特にデメリットはなく役得でしかない。だが紗羅さんにしてみればまさしく死活問題であり、この時も俺を壁に押しつけ、逃がさないよう頭を強く抱きかかえたまま無我夢中で口唇に吸いつき貪り尽くす勢いだった。普段は鋼鉄の意思で己を律しているのかもしれないが、実際のところは常に飢えた獣のような状態らしいのでそれも仕方のないことだろう。
俺は紗羅さんに激しく吸われながら、軽い昂ぶりと共にだんだんと眠気に似た感覚に浸されていった。エナジードレインは一種の快楽を伴うことで、思考がぼんやりと薄らいでいくことは珍しくない。頭の片隅に靄がかかったような光景が映し出され、邪悪な気配を漂わせる悪夢の断片のようなそれを――夢うつつに視た。
――黒い女だった。一切が灰色に塗り潰された世界の中で、長い黒髪と漆黒の着物が女の形を縁取っている。その肌は死人のように白く、目はまるで熟れた鬼灯の如き真紅の色をしていた。
女は蠱惑的な微笑を浮かべ、俺の肌に舌を這わせながら艶かしく蠢いていた。真っ赤な舌がぴちゃぴちゃと淫靡な音をたてて雫を舐めとる。俺から生まれた俺の一部――女はそれを供物としているのだ。
はだけた着物の隙間から白い膨らみと魅惑的な脚が露わになっていた。思わず目を背けようとしたが、女の白い手が伸びて俺を離さない。こいつはより多くの雫を俺から搾り取ろうとしているのだ。
女の長い脚が蛇のように絡みついてきた。俺はそれでもなお抵抗しようとしたが――その時だった。
「妾ではそんなに不満か? 主様よ」
聞き覚えのある、それでいてまったく聞き慣れない声がどこからか聞こえてきた。
ぎょっとして目を見開いた先で、黒い女が不満げに俺を睨めつけていた。
女の白いうなじ――首の付け根の辺りに亀裂のような醜い傷痕が浮かびあがり、そこから真紅の液体がとめどもなく溢れ出した。流れ落ちる鮮血に呑みこまれるように世界が毒々しいまでの緋一色に染まった。
「――なっ……!?」
悪夢を振り払うように思わず声をあげた。赤く染まった灰色の世界は消え失せて、現実が戻ってきた――はずだった。
俺の首に腕を回し、きつく抱きしめている紗羅さんの姿が目に入る。ホッと安堵したのもつかの間、俺はすぐに異常に気付いた。紗羅さんではない……腰の辺りに絡みつくもう一つの気配がたしかにあった。
「ん……」と小さな喘ぎが紗羅さんの口吻から発された。彼女はようやく満足した様子で俺から離れると、恍惚とした顔のまま唾液でびちゃびちゃになった口許を手で拭い始めた。
解放されたことで体の自由を得た俺は、恐る恐る自分の下腹部にへばりつくもう一つの気配に目をやった。
そこに――いた。
悪夢の中で見た黒い女の姿が、はだけた着物もそのままに俺の膝を抱きかかえるようにして凝然とこちらを見上げていた。
「…………」
女は俺と目が合うと、何も言わずに赤い眼をすっと細めた。泣いているような笑っているような、ひどく曖昧で印象に残る表情が瞼に焼きついた。
「お……、おまっ、……えぇぇぇっ!?」
感情がうまく言葉にならないまま口をついて出た。反射的に右手を目の前にもってくる。それは俺の右手であり、そうではないとも言える。だがそこにいるはずの奴の気配は今、微妙にしか感じとることができなかった。
俺の様子がおかしいことに気付いた紗羅さんが不思議そうに訊ねてきた。
「風間? どうかしたか?」
どうしたもこうしたもない。俺は救いを求めるように紗羅さんを見て、続いて足元に目を戻した。
女は消えていた。影も形もなく、綺麗さっぱりと。
「……あれ?」
「何があれ、だ。貴様、ついに頭がイカれたか? すでに末期的ではあったが、ご愁傷様なことだな」
食事を終えた冷血おねーさんはいつものツンモード全開である。嫌味には違いないのだが、この時の俺には嫌味になってないどころかちょっとまじで自分の頭が心配になってしまった。まさか白昼夢の次は幻覚まで見るようになるとは……大丈夫か、俺?
紗羅さんは黒い女のことなどまったく気づいていないようで、表情を引き締めるとこう言った。
「風間。本当はまだ足りないが、時間がないので今はこれで勘弁してやる」
「え、もう充分吸い取ったじゃないですか?」と言いかけた俺を先回りするように強い口調が続けた。
「食い足りないから早く終わらせて戻ってこい。いいか、これは命令だ」
有無を言わさぬ雰囲気だったので俺は素直に頷くしかなかった。そもそもこのお方に逆らうという選択肢は初めから俺の中に存在しないのだから。
幻覚の件は気になったが、これ以上油を売っている暇はない。気持ちを切り替え、俺は勢いこんで地獄の入口である扉に手をかけた。