とある、まかいにまつわるおはなし
とあるせかいには、まかい、ちかい、てんかいというさんかいがありました。
これは、そのせかいのまかいにまつわるおはなし。
まかいには、おおくのまぞくやまものがすんでいました。
それらをおさめるのがまかいのおう、"まおう"です。
"まおう"になるためには、さきの"まおう"にしめいされるか
おのれのちからを、まかいにしらしめるひつようがありました。
とある、いっときの"まおう"は それはそれは、こいおおきおかたでして
その"まおう"にはあまたのおくがたとそのこどもがいました。
"まおう"がいるあいだは、なにごともなくときはすぎていきました。
えぇ、"まおう"はおんなぐせがわるいこといがいは、ゆうしゅうな"まおう"でしたので。
しかし、その"まおう"のおんなぐせのわるさが おりしも、
まかいをめつぼうのききにまでおいこんでしまうなど、そのときのだれもがおもいませんでした。
そして、そのひがおとずれてしまいます。
あるひ、とつぜんながいときをおさめていた"まおう"がなくなりました。
これが、ひげきのはじまりです。
とつぜん"まおう"がなくなったため、つぎの"まおう"がえらばれませんでした。
さきの"まおう"のこどもかずはすうひゃくめい、"まおう"のこであるので
そのじつりょくはおしてしるべし。
くうせきとなった"まおう"のざに、われこそは!とおもうものたちがさっとうします。
それは、さきの"まおう"のちせいにふまんをもったものだったり
おのれのちからをさいきょうとしたいものだったり
"まおう"のこもそうでないものも、ちからをもつものたちのたいはんは
"まおう"というざをてにいれるために、ちでちをあらうあらそいをはじめたのでした。
もともと、まぞくはせんとうみんぞくとじつりょくしゅぎをみっくすしたような
じんしゅ(?)でして、いちぶ、のうきんなしゅぞくもあまたおりました。
"まおう"のざをめぐるあらそいは、まかいにあるすべてのしゅぞくをまきこみ
ひだいのいっとをたどっていくのです。
まかいのだいちはえぐれ、きぎたちはおおきなまりょくにやかれ、くだかれていくのです。
やまはかたちをうしない、みずはちであかくにごり、かわはつちでうめられてしまいます。
いろのついたあめがふり、さくもつはしおれていきます。
そして、まかいにすむ、いきものたちもあらそうものたちのたたかいにまきこまれ、
いのちをおとしていきます。
それを、かなしんだまぞくのなかに、ひとりのせいねんがいました。
せいねんは、まかいのあちこちをたびしてめぐっていた、かわりものでした。
あるひ、せいねんはたびさきでおもむいたばしょで、ひとりのしょうじょをたすけました。
それは、あとすこしでいのちのともしびがきえてしまいそうになっていたしょうじょでした。
せいねんはそこでおもうのです。
このあらそいは、いったいいつおわるのだろうと。
せいねんはまぞくにしては、めずらしくあらそいをこのまないたちでした。
ふりかかるひのこははらいますが、きほんてきにはあらそいごとよりものんびりといきていたいと
そうおもっていました。
しかし、このまま"まおう"のふざいはまかいのめつぼうへとつながります。
そのまえにあらそいで、いきているすべてが、まかいじたいがなくなってしまうかもしれません。
そして、たすけたしょうじょが
「だれもいたいおもいをしなくて、ひもじくなくて、やすらかでいられるせかいがあればいいのに」
ふいにつぶやいたそのことばに、
せいねんはけっしんします。
このあらそいをおわらせよう、と。
それからのせいねんのこうどうはすばやいものでして、しょうじょをともない
かくちのいきものたちをたすけながら、
むかしとったきねづかのつてをたより、なかまをふやしていきました。
そして、あらそいがはじまって200ねんのときがすぎ、
ようやっと、"まおう"のざがうまったのでした。
"まおう"としてたったのは、かわりもののせいねんでした。
せいねんのかたわらには、ともにあるいてきたしょうじょもそばによりそっています。
ひとつのかなしみが、おわり、あらたなはじまりをつむぎます。
ここからさきは、また べつのおはなし。
まかいにまつわるおはなしのひとつは、これにてへいまく。
いつか、またきかいがございましたらほかのおはなしもひのめをみるでしょう。