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コンコンと控えめな扉を叩く音にシレルが反応し、扉越しに誰かと話をしている。その話し声は小声なので、どんな話をしているのかわからない。
あまり多くはないけれど、こうやって扉越しに応対している姿を見ることもあるので、気にせずに手許の本に目を落とす。
結局この間はカカシが司書と何やら話しこんでいたので、それ以上話すことも無く部屋に戻った。
暇つぶしに何かと思っていたけれど、これといった収穫も無かったので何冊かある手持ちの本を読み返している。
内容なんて殆ど頭に入っているけれど、何もする事の無い時間をぼーっと過ごすことも退屈で、まだ本を読んでいるほうがましだった。
レツは、声を掛けても返事が無い。
はらはらと舞い落ちる雪の向こうの奥殿で、レツは何をしているんだろう。どうして答えてくれないんだろう。
以前のようにレツの声が聴こえなくなったという感じではなくて、礼拝堂でのお祈りの時なんかにはその気配も感じるし、声も聴こえてくる。
ただ日常では、どんなに声を掛けても答えようとはしない。
どうしてそんな線引きをしているんだろうと思うのだけれど、当然問い詰めても暖簾に腕押し。溜息しか出てこないよ。
レツって、本当に私のこと好きなのかな。
離れている時間は、どんどん不安を煽っていく。
傍にいないと、どうしてこんなに足元が揺らいでいくような落ち着かない気持ちになるのだろう。手を繋いでいないと、一人きりで放り出されたようで泣きたくなる。
会いたいっていう気持ちがどんどん募っていくよ。早く春になればいいのに。
「巫女様」
控えめなシレルの声に振り返ると、カカシと熊が部屋の中に足を踏み入れて、目が合うと同時に頭を下げる。
「どうしたんですか」
「事前にご連絡も差し上げず、申し訳ございません。先日巫女様が疑問をお持ちでした事に関してお話が出来ましたらと思いましてお伺いいたしました」
そうか。あの日聞いた「水竜の封印」について熊に聞いてくれたりしたのね。
「ありがとうございます。この部屋でいいでしょうか」
「構いません。では失礼致します」
にこやかにカカシと熊が微笑んで礼をし、あまり広くない部屋の中に置かれたテーブルの周りに慣れた様子で腰を下ろす。
円卓の間を私が嫌った時期があって、その時に運び込まれた小さなテーブルは、意外と活躍の機会が多い。
長老が何かの報告をする時や、助手が体の検査をする時など、多岐にわたって活用されている。
二人に続いてシレルも席に着くのかと思いきや、シレルは相変わらず扉の前で彫像のようになっている。ということは、これはシレルのあずかり知らぬことなのかもしれない。
「もうすぐ長老も来ますので、少々お待ち下さい」
さらりと熊が言うけれど、どうして長老が加わるんだろう。この間カカシと話をしている時にも、長老の事なんて話題に上らなかったのに。
疑問はカカシが答えてくれる。
「長年巫女付きを勤めた方ですので、我々の知らないような公文書には残らない事もご存知でいらっしゃいますから」
言われて思い出す。
そういえば、前にレツが「手の届かない迷宮へ」と言ったと長老に話したとき、長老はそれをごく自然に受け止めていた。
つまり、レツが水竜の神殿を迷宮と呼ぶことへの違和感を感じないだけの知識があるということになる。
「そういえば巫女様。先日教えていただいた本ですが、もしかしたら大発見かもしれませんよ」
「どうしてですか」
カカシが興奮した様子で話を続ける。目を輝かせて話す姿なんて初めて見たかもしれない。
「この国の建国以前の事に触れているんですよ。つまり、水竜の神殿が建つ以前の事も記載されていました。今現在においては、この本だけが唯一、この神殿の出来る前の事を記しているんです」
じゃあ、もしかして。
「水竜の封印の事とかも書いてありました?」
一度読んだ本だけれど、面白かったという事だけしか覚えていないので内容までは覚えていない。
思わず身を乗り出した私に、カカシが苦笑いを浮かべる。
「すみません。そこまではまだ解析が終わっておりません。読み進めてみるとわかるのですが、これは何者かの日記ですね。ですから、事の仔細にはあまり触れていないんですよ。自分がどう思ったか等の主観が主になります」
あ。そうだった。誰かの日記みたいだって思ったんだわ。
「ただ読み進めるとわかるのですが、恐らく建国王の身近な人物が書いた物として捕らえる事が出来るかと思います。しかし何故そのような物が神殿の書庫に置かれていたのかは謎ですね。しかも娯楽書の類と混ざっていたようですから」
その後も言葉を続けようとしたカカシの口が、カチャリという扉の開く音で固まる。
にっこりと笑いながら長老が入ってきて、当たり前のように用意されていた席に腰を下ろす。
そういえば何となくだけれど、ここが誰の席みたいに決まっているかも。
「お元気そうですな、巫女様」
「はい。おかげさまで」
「それはなによりですな」
挨拶もそこそこに、長老がゴホンと咳払いをする。その瞬間、長老の目は厳しく鋭いものに変わる。
「さて巫女様。この爺にお尋ねになりたいことがおありとのことですが」
真っ直ぐ正面から長老の視線を受け止め、ゆっくりと頷き返す。
「神殿の記録には残っていない、神殿の建立に関わる事が知りたいんですがご存知ですか」
じーっと、まるで睨むような強さで見つめてくる長老から目を離さずに答えるけれど、長老からの返答は無い。ただ視線だけが何かを語っている。そして値踏みするかのようにも感じる。
きりりと張り詰めた空気の中、机の下で握り締めた拳の中にはうっすらと汗をかいているのではないかとさえ思えてくる。
緊張感で心臓が大きな音を立て始め、指先や足元から徐々に冷気が身体の中心へと広がっていく。
でも、目を逸らしてはいけない気がする。
逸らしたら、長老に答えて貰えないような気がする。
「何故、それを知りたいのですかな」
一体どのくらいの時間が経ったのだろうと思った頃、長老が擦れた低い声で呟くように告げる。
もしかした長い時間に感じたけれど、あっという間だったのかもしれない。
長老の問いになんて答えようか、どうしようかと思う。
本当のことを言ったらどう思われるだろう。
レツとこの神殿から開放したいって言ったら、それは『水竜の神殿』の根幹を覆す事になるんじゃないかしら。
今初めて思いついたけれど、私がしようとしている事って。
ぞわっと寒気が身体を震えさせる。
レツの為に、なんて思っていたけれど、それってやっちゃいけないことなんじゃないかしら。この国が、大地が、水竜から見離されたらどうなってしまうの。私の個人的な感情だけで、長く続いたこの国の在り方を変えてしまってもいいの。
それでもレツを永遠の苦しみから解放したい。そう決めたんだ。
「どうして水竜には鎖が掛けられているのか、その理由が知りたいからです」
じっと見つめた視線の先の長老の瞳が、ゆらりと動く。同席していたカカシと熊の瞳は大きく見開かれ息を呑んだまま固まってしまう。
長老の視線が二人を制するように動いてから、険しさを増したまま深く溜息をつく。
「……ご覧になられたのかな」
「はい」
答えると長老はもう一度深く深く溜息をつく。そして目を伏せ、節ばった指を机の上で絡ませる。
何度も何度も溜息をつき、それからゆっくりと一語一語を区切りながら話し出す。
「巫女様は、理由を知っていかがなさるおつもりかな」
真っ直ぐな瞳からは逃げる事は出来ない。覚悟を決めて話すしかない。決して協力は得られないだろうけれど。
「水竜をその封印から解き放ちたいんです。その方法を知りたいんです」
「そうですか」
溜息と共に長老が吐き出す。
部屋の中は冬の冷気が入ってきたのかと思うほど、全身に寒気が襲ってくる。
ここが、きっと分岐点。
もしもレツの封印の理由を教えてもらえなかったら、レツの封印を解く術を教えてもらえなかったら、レツを開放する事は難しくなるかもしれない。
私個人の力では、あの巨大で頑丈な鎖を物理的に破壊してレツを自由にするというのは不可能だと思う。
あの鎖についている鍵を得られなくては、レツは開放されない。
でも、もし私が封印をした本人だとしたら、そんな鍵は捨ててしまうかもしれない。だって逃がしたくないから捕らえたんでしょう。
ぞっとする。
もうレツを開放する事なんて出来ないのかもしれない。
「長い、そして古い物語をお聞かせ致しましょう」
長老が擦れた声のまま、昔語りを始める。
大地が混沌としていた頃。
水竜は疫病神でしかなく、人々は人の力では制する事の出来ない自然の驚異への憎しみを水竜へと向けていた。
人を喰らい、そして人に害悪をもたらすもの。それが水竜。
いつ頃から始まったのだろう。人々は害悪をコントロール術を手に入れる。それが祭りという名の生贄を捧げる儀式。
とびっきりの生贄を用意する代わりに、人々は大河の氾濫や日照不足といった生活を脅かす問題から多少ではあるが開放されるようになる。
ある時、流域のある地域に生まれた少女が生贄に捧げられる。
その人物こそが、後の『始まりの巫女』
祭りの後、水竜によって喰われてしまうはずの生贄が、水竜の気まぐれなのか喰われることなく生きながらえた。
生贄として捧げられた年も、それ以降の年も、一向に喰われる気配が無い。
人々は水竜の暴走を危惧したが、そのような害悪が降りかかる事は訪れず、至ってのんびりとした毎日が続いていく。
その生贄は、不思議と雨の降る日や種の撒き頃を言い当て、水竜の住まう湖のそばに住む一部の住人には重宝されるようになっていった。
反面、誰かと語らうかのように独り言を呟きながら歩く姿は狂人のようで、忌み嫌われてもいた。
生贄の噂を聞いた、大河の河口付近を領地とする豪族の一人息子が生贄に会いに訪れる。
大陸をその手中に収めようという野心を持っていたその男こそが、後の『建国王』である。
男は生贄に問う。
この大陸を全て手中に収めるにはどうしたらよいのか、と。
生贄は答える。
人心を掌握する事こそ、大陸を治める早道と。
考えた男は、荒れる大河を穏やかにする事、即ち最も忌み嫌われている者を手中に治める事によって、人心を、ひいては国を治めようと考えた。
まずは己の所有する領土から、それから徐々に周辺豪族の領地をも巻き込んだ治水・灌漑工事を行った。
結果、大河の氾濫により家を流出するといった被害は無くなり、穏やかな生活を営む事が可能になっていった。
そして男は水竜を神と奉る事にし、洪水時に河川から溢流した水を溜める為の人工の溜め池と本来の水竜の住処であった湖を繋げて、そこに神殿を築く。
これこそが、水竜の神殿の始まりであった。
そして虚言と思われていた生贄が水竜の意思を明確に人間に伝えていると知り、その能力を高く評価して『水竜の巫女』として崇め奉る事とした。
穏やかになった大河と、水竜の言葉を伝える者を手中に収め、男は大陸を統一して国家を為す。
では、何故水竜は人の言葉に従ったのか。
人の言葉など聞こうともしなかった水竜が人の言葉に耳を貸そうとしたのは、ひとえに『始まりの巫女』の存在がある。
始まりの巫女がいたからこそ、建国王は大河、即ち水竜をも制する事を可能とした。
もしも始まりの巫女が水竜に生贄として捧げられなかったら、この国が成立する事も無かったかもしれない。
水竜にどのような言葉を言ったのか、今では記録さえ残っていないが、巫女の一言によって水竜は建国王に力を貸したとされている。
そして、水竜は己の新たな住まいを与えられ、神として崇め奉られたその時、その足に鎖を巻きつけ、二度と人に害悪をもたらさないと告げたと伝えられている。
決して動かぬ証。二度とその身体をくねらせて大河を氾濫させないという証明の為、建国王によってその封印は為された。
全てが終わった時、始まりの巫女はその地位を新たな女性にと託す。
そして次から次へと生まれていった巫女たちによって、今なお水竜の声は人々に届けられ続けている。
「お知りなりたい事、これで答えになっていますかな」
長老によって語られた建国の歴史は、吟遊詩人や本から知っていたものが殆どだった。
けれど、どうして水竜が人の言葉に従ったのかという部分。そして封印をした事実。その事は今まで知りえない事だった。
建国王によって封印されたという事実を知ってはいたけれど、それを明確に裏付けるものを今まで目にしたり耳にしたりした事が無かったから、長老の話にとても新鮮な衝撃を受ける。
衝撃を受けたのは、カカシや熊も同じだったようだ。二人とも、言葉も無く固まってしまっている。
「はい。では水竜を封印した鍵は今はどなたがお持ちなのですか」
ふっと口元を歪めるように笑みを浮かべ、長老はゆっくりと目を瞬かせる。
「それをお聞きになられるという事は、貴女様は『仕舞いの巫女』になるお覚悟があらせられると捕らえても宜しいですかな」
仕舞いの巫女。仕舞い。すなわち最後の巫女。
ドキリと心臓が跳ねる。
私はただレツに自由を上げたいだけなのに、それをするということは、今の水竜の神殿を根底から覆す事に繋がるのだと長老が言外に伝える。
ごくりと唾を飲み込み、レツに問いかける。
私が最後の巫女になってもいい?
頭の中に、奥殿の風景が広がる。
静寂が広がる奥殿の床にちょこんと座ったレツの本質。そして重なるように浮かぶのは暗闇の中で動く事の出来ない本当のレツ。
二つの光景が重なって、そしていつか見た湖の上で鎖に絡め取られたまま俯いていたレツの姿が脳裏に浮かぶ。
出たい?
もう一度聞きなおす。
長い長い沈黙が続き、レツの声は返ってこない。
それは私に全部の判断を任せるということなの。それともレツは本当は水竜の神殿から出たくないという事なの。
心の中で、不安がどんどん広がっていく。
こうやって封印を解こうと動く事は間違っていたのかしら。どうしよう。
頭の中がどうしようで一杯になる。
レツを自由にと思っていたけれど、それって独りよがりでしかなかったのかもしれない。これからもずっとここで、レツは新しい巫女を迎えて幾年も過ごしていくことを求めていたのかもしれない。
一緒にいたいって言っていたけれど、自由になるとかっていう形じゃない、もっと違ったものをレツは求めていたのかもしれない。
沈黙は、そういう事なんでしょう。
--……に。
聞き取れないほどの小さな声が頭の中に響く。
レツ。何て言ったの? もう一回教えて。
--一緒に、いこう。
もう一度、呟くような小声で響いた声にほっとして思わず頬が緩む。
良かった間違っていない。
私はレツと一緒にこの神殿の外に出るんだ。
長老に向き直り、大きく首を縦に振る。
「私が最後の巫女になってもいいですか」
「最後の……巫女?」
長老ではなく、熊が問いかけてくる。眉間に深い皺を寄せて。
「はい。水竜を神殿から解き放つという事は、即ち神殿にはもう水竜は神殿にはいないという事になりますから、水竜の巫女も必要なくなります。そうですよね」
最後は長老に問いかける。
長老は深く溜息をついたあと、何かを言いかけた熊を片手で制す。
「始まりがあれば、仕舞いもある。いつかこの鍵を求める者が現れるだろう。それは必然。そう言い残したのは建国王でしてな。この時が来ることはわかっていたんじゃよ。しかしわしが生きている間とはのう」
苦笑を浮かべた長老が、顎をかいて窓の外の奥殿に目を向ける。
つられて一緒に見つめた奥殿は鈍い色の空の下、人間たちの喧騒など意に介さない様子で佇んでいる。長い長い時を刻んできたとは思えないような、穏やかさで。
「鍵を持つのは王家じゃ。それを受け取れるかどうかは貴女様のご器量次第であろう。わしらは手を貸す事は致しません。ご自分の力で切り開かれるがよい。類稀なお方。その通り名を更に加える為に」
突き放すかのような言葉だけれど、長老は優しい声音で奥殿を見ながら告げる。
「しかしそれではっ。この水竜の神殿の意義は、そして水竜様への信仰心を持ち神殿に集まった神官たちはどうなりますっ」
長老は首をゆっくりと横に振る。
「そこにあらせられなくとも、我らの水竜様を敬う気持ちに何ら変わりはなかろう。水竜様の言葉が聞こえなくなろうとも、水竜様への感謝の気持ちは変わらぬのではないか」
問いかけた長老に食って掛からんばかりに体を乗り出した熊の肩をカカシがぐっと掴む。
「彼女は言った。真に幸福な世界とは何であろうかと。犠牲の上に成り立つものではなく、全てのモノに平等に訪れる幸福とはなんであろうかと」
カカシが口早に言い、それから深く溜息をつく。
「あの本に書いてあっただろう。今までは恐らく水竜様の犠牲の上に我らの幸福はあったんだ。それを解消するだけだ」
「そんなんで納得できるか。俺たちは水竜様と巫女様を失った後、どうやっていけばいいって言うんだ。綺麗事だけで解決できると思っているのか」
カカシの手を振り払った熊が、机を力一杯自分の拳で叩きつける。
ドンと響いた音に、シレルが振り返る。
「全ては水竜様の御心のもとに。それこそが水竜の神殿に勤める者のあるべき姿なのではありませんか」
振り返ったシレルが静かな声で告げると、一瞬部屋の中に静寂が訪れるけれど、再び熊の激しい声音によって静寂が切り裂かれる。
「だからなんだっ。そんなお題目なんかより大切な事は、神殿を永久に守り続ける為の正当な由来なり所以だろう」
「そういう考え方もあるかのう」
のんびりとした口調で長老が返すと、熊がぎりりと吊り上げた目をこちらに向ける。
「私は認めません。この件に関しましては、私は一切巫女様のお力になることなど出来ません」
鋭い言葉を投げて立ち上がり、熊がドスドスと音を立てながら部屋を横断し、バタンと大きな音を立てて部屋を出る。
ふうっと溜息をつき、長老が腕を組んで誰にと言うわけでもなく呟く。
「変化は混乱と混沌を巻き起こす、かのう」