5
夢のような時間は、そっけないレツの一言で終焉を迎える。
「明日から大雪降るから」
抱きしめられた腕の中で見上げたレツの顔は、私の表情に不満がありありと浮かんでいたせいか、言葉の冷たさとは裏腹に苦笑いのような表情をしている。
「雪降らないとね、春先から困った事になるから」
こんな時、レツはやっぱり当たり前なんだけれど水竜なんだなって思う。自分がどうしたいかじゃなくて、国の未来を見通して行動している。
これで駄々を捏ねたら、きっと呆れた顔をするんだろう。
「うん。わかった」
出来るだけ感情を表に出さずに答えると、レツが眉をひそめる。
「あっさりしてるなー。サーシャはボクに会えなくなって寂しくないの?」
不平を口にすれば巫女らしくないと言い、物分りがいいふりをすれば今度は物足りなそうにする。
「そんなはずないでしょ。じゃあ雪なんて降らせないでって言って欲しいの」
クスクスと笑ってレツが「ごめんね」と言う。
「それでも傍にいたいって聞きたかったんだよ。ボクは」
「欲張り」
「欲張りでいいよ」
レツの唇が首筋に降ってくる。ぎゅっと身を縮めると、レツが耳元で笑う。
「ボクの自慢の巫女であって欲しい。でもボクのことを好きで好きでどうしようもないサーシャでいて欲しい」
胸が締め付けられるように、きゅっとなる。
明日からは会えなくなるんだと思うと、本当はどうしようもなく寂しい。
今でもワガママ言いたくなるくらいダメダメ巫女な私なのに、これ以上レツで頭が一杯になったら、もう巫女なんて上手く出来なくなっちゃうよ。
「物分りのいいサーシャよりも、どうしようどうしようってボクの事で悩んでるサーシャのほうが好きだけどなあ」
ヤダよ。そうしたらちゃんと巫女してないって怒るくせに。
それに立派な巫女じゃなくなったら、レツに嫌われそうで怖いもの。
「嫌よ。そんなの」
明日から、私はレツが傍にいなくてもいられるのかとっても不安だもの。
次の日からは前日までとはうって変わって大雪が降り、レツのところへ行くことは出来ない日が続いている。
ずっと暖かい日が続いていたから、今年の冬はずっと毎日レツのところへ行けると思っていたのに。レツのバカ。
本当は私に会いたくないのかしら。もうっ。
物分りのいいフリをしたけど、やっぱり会えないのは辛いよ。
それに対してレツは笑うだけで、何も言おうとはしない。それが余計に腹立たしくてしょうがない。会いたいと思っているのは私ばっかりみたいで。
あの温もりを手に入れてしまって、離したくないと欲深になったのは、レツじゃなくて私のほうだわ。
それなのにレツはまるで平気なようで、それが悔しくてしょうがない。求められていると思ったのも幻想なんじゃないかしらって思えてくるもん。
あーあ。馬鹿馬鹿しい。
そんな風に自分に言ってみたりしても、もどかしさは埋めようが無くて日がな一日落ち着かずに過ごすだけで無為に時間だけが過ぎていく。
これといってすることの無かった冬。いつも何していたんだろう。
それさえも思い出せない。
去年は何か色々とバタバタしていたような気もするけれど。
退屈しのぎになるかもしれないと思って、書庫の扉を叩く。
ぎぎーっと重たい音を立てて扉を開くと、眼鏡を掛けた神官が書物から顔を上げる。確か、みんなには司書って呼ばれていた。
「こんにちは」
「どうも」
そっけない返事だけれど、作業の手を止めて私が何か言うんじゃないかと次の言葉を待っていてくれている。
「あの、本を見ていってもいいですか」
「奥にカカシがいるから、わからないことがあれば俺かカカシに聞いてください」
「ありがとうございます」
頭を下げると、司書もペコっと頭を下げてくれる。
司書が元の作業に戻るのをみて、いくつもの書棚の間に入り込む。
探しているのは「始まりの巫女」に関わる書物。
とりあえずレツの封印の正体が知りたいと思ったので、過去の記録などを見ればもしかしたら解明できるのかもしれないと思ったから。
以前聞いた話だと、年代順に全ての本が並べられていると言っていたので、一番古い書物があるであろう場所に探しに行く。
新しい年代のものに比べて、本の劣化が著しい。カカシの話だと、あまりに痛みが酷いものは写本を作って、原本は他の場所に保存してあるらしい。
ところどころ新しい背表紙のものが混ざっているのは、それが原因のようだ。
痛みが酷いって事は、それだけ何人もの人の手に渡った書物ってことよね。
そう思って背表紙が比較的新しい一冊を手に取る。
『神殿史・2』
そっけないタイトルに対して、副題は「神殿黎明期における内部組織について」という堅苦しいもの。
この一角にある何冊もの本を手に取って確認してみたけれど、どうしても『神殿史・1』が見つけられない。ここにはないのかな。
聞いてみようと思って広めの通路に出ると、書庫の奥で作業中のカカシと目が合う。
「いらしていたんですか。足音がしたので誰が来たのかと思いましたよ」
「すみません。お邪魔してもいいですか」
質問してもいいかという意味で問いかけると、カカシはにこりと笑って「どうぞ」と返す。
神官たちは本当に親切で、自分の作業があるというのに、何か力を貸して欲しいときには惜しみなくその力や知識を提供してくれる。
それに甘えてばかりで申し訳ない気持ちもあるけれど、自分一人では何も出来ないという事をレツの声が聴こえない時に嫌って程知ったから、素直にその力を貸してもらう。
「神殿の一番古い記録ってどこにあるんですか」
尋ねるとカカシが片方の眉を上げて「おや」と呟く。
「奇遇ですね。自分の手許ですよ」
カカシは一冊のかなり痛んだ本を指差して、表紙を見せてくれる。確かにそこには『神殿史・1』と書かれている。
「今回はどうされましたか」
何か知りたいのでしょうと言わんばかりのカカシの言葉に首を縦に振る。
シレルを筆頭に、あの騒動の時に傍にいてくれた神官たちは他の神官たちよりもずっと身近な存在に感じていて、実際に物腰もものすごく柔らかくて優しい。そしていつでも親身になって考えてくれる。
そのせいか彼らを信頼しているし、話しているときもとても安心して相談する事が出来る。
「水竜の封印について知りたいんです」
ぎゅっと眉をひそめ、カカシが首を傾げる。
「封印、ですか? 水竜様の」
「はい」
うーんと首を捻り腕組みし、カカシは天を仰いで何やら考え込む。しばらく考え込んだ後、今度は机の上に肘を突いて頭を抱え込んでしまう。
「正直に申し上げて宜しいですか」
もったいぶった様子のカカシに頷き返すと、カカシはゴホンと咳払いをする。
「大変申し上げにくいのですが、私の知る限り封印という文字は神殿史の中にはありません。公文書にも口伝にも」
無い。封印は無いということなのだろうか。それとも……。
「禁忌の部分かもしれませんね」
心の中で思ったことをカカシが口にする。
「やたらと起源とかにこだわる熊にも話を聞いてみるといいかもしれません。他の日で良ければ時間を作るように伝えますが」
「お願いします」
即答すると、カカシがあっさりと「わかりました」と答える。
では『神殿史・1』には何が書かれているんだろう。
「これには神殿の極初期にどのように神官たちが集まってきたかなどの歴史が書かれています。ですから、巫女様がお探しのような建立以前の部分に関しては書かれていませんね」
そうか。カカシに言われて気が付いた。
神殿建立に関する資料も無いって、以前カカシや熊に言われたわ。
どうして水竜の神殿が必要かなどの、存在意義に関するものは多く残っているけれど、神殿建立以前の水竜や始まりの巫女などに関する資料は無い。
「ということは、調べようが無いということになりますね」
「……残念ながら」
カカシが申し訳なさそうに軽く頭を下げる。
二人同時に溜息をついてしまい、思わず顔を見合わせてしまう。
「すみません。大変失礼致しました」
「いえいえ、気にしないで下さい」
恐縮するカカシに苦笑しつつ告げると、カカシの肩から力が抜ける。
「それにしても、以前調べた時にも思いましたが、神殿建立にはどのような秘密が隠されているのでしょうね」
秘密、なのかな。
何となくレツから聞いたり、レツの魔法で見た過去の時間から想像できるのは、多分秘密とかっていう高尚なものじゃなく、もっとドロドロとした人間臭いもの。
水竜の神殿建立と、この国の建国は時期が同じ。
とすると、隠したいのは王家側の意図が働いているという事かしら。
レツは別にひた隠しにしたいという雰囲気では無かったし。
「神官長様や祭宮様なら、真実を知っていらっしゃるのかしら」
思ったことを口にすると、カカシは細い目を見開く。
「まさか、本人に確認なさるおつもりで」
「いいえ。そういうわけではなく、ご存知なのかと思っただけですけれど」
何でそんなに驚いたような顔をするんだろう。
ああ、また何かやらかすんじゃないかって思われたのかしら。
巫女になって慣例ぶち破ったりしまくっているから、ちょっと思いついた事を言っただけでも神官たちが警戒するようになっているような気がする。
「そういえば。私、前に水竜の神殿の建立に関する資料を見たことがあるんですけれど」
ふいに思い出した。
まるで日記のようだった、始まりの巫女について描かれていた一冊の本。
「え? それはどこでご覧になられたんですか」
カカシが身を乗り出して聞いてくる。
「あの、前の借りた本なんですけれど。誰かの日記だったみたいで、吟遊詩人の語る水竜と始まりの巫女の話とはちょっと違っていて面白かったんです。確か、司書さんに出してもらった本です」
「……まだ俺の知らない本があったなんて」
呟いたかと思ったら、ものすごい勢いで立ち上がって、書棚の森の中へと消えていく。
カカシ、どこに行ったんだろう。司書さんのところかな。
無造作に置かれた『神殿史・1』を手にとってみようかと思って手を伸ばして、その本がかなり傷んでいるので触ったら糸がほつれて本がバラバラになりそうなので止める。
ねえ、レツ。どうして神殿建立の資料って残ってないんだろう。
頭の中で問いかけてみるけれど、レツの答えはない。
最近、というかレツの声がもう一度聴こえるようになってからは返事が返ってこないことが増えた。以前は悪態をついたりすることもあっても、問いかけを無視するような事は無かったのに。
どうしたんだろうなって思うけれど、奥殿に行って確認する事も出来ないので、問い詰める事も出来ない。
都合の悪い事を聞き流しているのか、それとも本当に何かあったのか。
心配だなって思っていても、確かめる術は無い。
私が竜になれたらいいのにって思ったことがある。そうしたらずっと一緒にいられるし、きっとこんな風にモヤモヤと思い悩む事も無いから。
けれど、レツの答えはあまりにもそっけないものだった。
「無理に決まってるじゃん」
ホントのレツに寄りかかりながら話していた時、ふいに思いついて問いかけてみたレツの反応は冷たかった。
「どうして?」
同じように巨大なホントのレツの体に寄りかかっているレツの顔を見つめるけれど、闇の中、どんな表情をしているのはわかりにくい。
ぎゅっと握っていたレツの手に力が入る。
「ボクはこっちの姿の方が好きだよ。誰にも醜いって言われないから」
身を寄せるレツの方へ身体の向きを変えると、ちゅっと頬に唇が触れた感触がある。
「柔らかいし、気持ちいい」
抱きつかれて、レツの身体に腕を回すと、レツが腕の中でぎゅっと身を縮める。まるで怯える子供のように。
「キミが毛むくじゃらになったり、堅い鱗に覆われた姿になったりしたら嫌だ。そんなのはボクだけで十分だよ」
「毛むくじゃらになっても構わない。堅い鱗に覆われても構わない。それでもレツとずっと一緒にいられるなら、なりたいよ」
腕の中のレツが顔を上げる。
「無理だ。人間を竜の姿に変える力なんてボクには無い」
真っ直ぐに射抜くような瞳が至近距離から訴える。
「でも、やってみたら出来るかもしれないじゃない。巫女は水竜の一部分みたいなものなんでしょう」
あっさりと諦めることなんて出来なくて、レツの瞳を覗いたままで問いかける。
だって竜になれたら一生ずっと一緒にいられる。レツの長い長い生も、孤独から開放されるじゃない。
目を伏せて、レツがゆっくりと左右に首を振る。
「ボクは万能じゃない。ほんの少し自然を動かす力しかない。もしそれが出来るのならば、ボクは……」
そこまで言うとレツが黙ってしまう。何か物思いに耽るように遠い目をしているので、きっと誰かを思い浮かべているんだろうと思った。
そしてそれはきっと、始まりの巫女。
もし人を竜にする能力があったのなら、今なおここで束縛されたままでいるはずが無い。始まりの巫女を竜にして、二人で長い春を楽しんでいたのかもしれない。
そうしたら水竜の神殿が造られることは無くて、水竜の巫女なんて制度もなく、私は水竜の巫女として呼ばれることも無かったんだろう。
一体どちらが幸せだったんだろうか。
ついっとレツから身を離し、ホントのレツからも離れる。
立ち上がって見回すと、そこに広がっているのは一面の闇。そして闇の中で光る巨大な鎖。
闇の中手探りで、鎖のところまで歩いていき、その一つに手を伸ばす。触れるとそれはカチャリと無機質な音を立てる。
レツを縛るもの。
けれどこれが無かったらレツとは出会えなかったんだから、皮肉としかいいようがない。これさえ無ければと思うし、同時に束縛してくれてありがとうとも思う。とても自分勝手だけれど。
「今でも始まりの巫女が好き?」
鎖に触れたまま、レツの顔も見ずに問いかける。
やっぱりどうしても私が始まりの巫女には勝てると思えない。
ずっとずっと昔の、過去の事だとわかっているけれど、執着や憎しみだけだったら悲しそうな顔をするわけが無い。決して愛情だけでもないのだろうけれど。
ふわっと伸びた腕の中に引っ張られ、背後から抱きしめられる。
「どうしてそんなこと言うの」
擦れた声のレツは、まるで図星をつかれて焦っているかのようにも思える。
「だって、本当はレツは始まりの巫女を竜にして、ずっと一緒にいたかったんでしょう」
首に巻きついた腕に寄りかかりながら聞くと、頭上から溜息が降ってくる。
「昔の事はどうでもいいよ」
呆れたようにも聞こえる声音に振り返ると、レツが苦笑いを浮かべる。
昔の事かもしれないけれど、否定しないって事は本当のことなんでしょう。そう聞き返したかったけれど、言葉を飲み込むしかなかった。レツがあまりにも悲しそうに微笑むから。
どの位熱望したのだろう。始まりの巫女と一緒にいたいって。
微笑の中に、レツの色々な想いが詰まっているような気がする。その瞳だけで、レツが過去に流した涙やそれに伴う様々な感情の記憶の破片が見えてくる。
きっと自分の力の限界をその時に知ったんだろう。
だからこそ、一緒にいるために人間になりたいといったのだろうか。私には永遠の命を手に入れる事は不可能だから。
「無駄に長く生きる事にも疲れたよ、サーシャ。早く終わらせたい」
小声で微かに呟いた声に、絶望の色が含まれている。
レツが人間になることも出来ないのかもしれない。そして私が竜になることも出来ない。
「殺して欲しいの?」
ぎょっとした顔でレツが覗き込んでくる。
「全てを終わりにしてくれる人を探しているの?」
息を飲み込み、レツが蒼い瞳を大きく見開く。
「それともここから出て、レツと同じように長い生に飽きている竜を探しに行く?」
そのどれにもレツは答えない。
私は、私の中にある色んな感情を押し殺してレツを見つめ返す。
「私にどうして欲しい? レツの望む道を。魔法なんて使えないけれど、私がレツに希望をあげる」
本当はずっとずっと一緒にいたいよ。死ぬその瞬間まで。
けれどレツが本当はもう生きている事さえ辛いというのなら、その生を終える手助けをしよう。
水竜として国に君臨する事に飽いているのならば、そのシステムを崩壊させよう。
もしも共に歩むべき、本来の姿のまま愛し合える相手を探したいというのなら、神殿から開放しよう。
きっと、それが私がすべき事。
「……泣かないで」
レツの大きな瞳から涙が溢れ出す。その涙につられて、視界が歪んでいく。
歪んだ視界の中で、レツの瞳から溢れる涙を指で拭って頬に口付ける。
「好きだよレツ。ずっとずっと、何があってもレツのことが好きだよ」
その瞬間、レツの腕に力が籠められる。
「ありがとうサーシャ」
それ以上はお互いに何も言えなくて、闇の中、お互いの熱だけを頼りに立ち尽くしていた。
全ては幻想のような恋だけれど、ずっと一緒にいたいってお互い想っているけれど、それだけじゃ私たちは決して幸せになんてなれない。
でも、もしも願いが叶うならレツが人間になって一緒にいてくれますように。