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去年のように雪が酷く降り積もる事はなく、例年に比べたら穏やかで暖かい日が続いている。雪が毎日降ることは無く、降らない日もあるので、雪はあまり深く積もってはいない。
そのおかげで王暦では新年を迎える頃だというのに、奥殿へ行く事が出来ている。
レツが目覚めてから今日まで会えなかった日は無い。声が聴こえなかった日も無い。
どうしようもない不安感も無く、毎日を穏やかに過ごしている。
いつの間にか部屋を訪れる神官はシレルだけになり、他の神官たちが部屋に来ることは無くなった。
以前と同じようになったのを、そういった部分にも感じる。
「ねえ、レツ」
「ん? なに?」
レツはのんびりとした口調で返事をする。
「最近ね、何か前とおんなじに戻ったんだけれど物足りないような気がするんだよね」
「へー。どういう部分が?」
興味なさそうに顔を上げずにレツは折り紙を折り続けている。
どこで学んだのか知らないけれど、せっせと鳥の形の折り紙を量産している。
「あのね、のんびりしすぎてて、これでいいんだったかなーとか思うの」
「ふーん。まあいいんじゃないの。忙しい方がいいなんてサーシャって物好きだねえ。っと出来たっ」
気のない返事を返して、レツは折り紙をまた一つ折り終える。
全然構ってくれないんだもん。つまんないな。レツってば。
結構そっけないんだよね。思ってみれば、熱烈に愛情表現されることってあんまりないし。
別に奥殿に来なくても平気そうな顔しているし、実際平気っぽいし。
レツの声が聴こえなくて必死になってたのがバカみたいに思えてくるよ。全くもうっ。
好きなのは……。
「好きなのは?」
レツの声が重なって、はっと振り返るとレツがニヤニヤ笑っている。
「もうっ。また勝手に人の頭の中読んで!」
「読んでないよ。独り言ずーっとブツブツ言ってたじゃない」
「言ってません」
「言ってましたぁ」
「何でそういう嫌な言い方するのっ。レツなんて嫌いなんだから」
「嫌い? へえ、そうなんだ。サーシャってボクのこと嫌いだったんだぁ。初耳~」
見下すような言い方がまた腹立たしいっ。
「そうだっけ。レツが覚えてないだけなんじゃないの」
「人をもうろくジジイみたいな言い方するの止めてくれる?」
眉をひそめてレツが睨んでくる。睨まれたって怖くなんかないもん。
大体引っかかるところがそこってどうなのよ。レツ。
「誰も爺さんだなんて言ってないでしょ。それともそーんなに気になるの? 年寄りっぽいとか」
「当たり前じゃないか。ボクはキミより何年長生きしてると思ってるのさ」
怒るレツを目の当たりにして、言葉を失う。
そうだよね。人よりもずっと長い生を生きているんだもん。気になるよね。そういうこと。
巫女は傍にいるけれど、誰かがずっと共に歩んでくれるわけじゃない。
私だってレツの一生からすれば、一瞬すれ違ったに過ぎないのかもしれない。
「ごめんね」
ポンっとレツが頭に手を置き、ポンポンと数度頭を軽く叩く。
その手を見上げると、ニッコリとレツが笑う。
「気にしてないよ。あんまりそうやって人の言うこと真に受けないほうがいいよ。けど、それがササの一番良いところなんだよね」
「レツ?」
「だから食べていい?」
答えを言う前に、レツが抱きついてくる。実際には重さも温度も無い体で。
ギュっと抱きしめられているはずなのに、全く感覚が無くて寂しい。
その背に手を回したいと思っていても、手は空を掻くばかり。
「食べていい?」
目覚めたレツが、泣き止んだ私に言った言葉。
「食べたいの?」
ずるずると鼻をすすりながら聞くと、レツはふわっと笑う。
「おなかすいたから」
「いいよ。食べて」
考えるよりも先に答えていた。
どうやって食べるんだろうなあって、答えてから頭に浮かんで、ぼーっとレツの顔を眺めている。
本当に食べられたらイヤだな。さすがに痛そうだし。
「ぶっさいく」
きゅっと鼻を摘まれたかと思うと、あっという間にレツに抱きしめられる。
久しぶりのレツの肩越しの景色が嬉しくて、目を閉じてそのままされるがままになっていると、耳元で囁かれる。
「本気で食べちゃうよ。それでもいいの?」
「いいよ。だってレツがそうしたいんでしょ。美味しいかどうか保障はしないけれど」
くすっという笑い声が耳をくすぐる。
本気で頭からバリバリ音を立てて食べる事は無いでしょ、さすがに。そしたら巫女がいなくなってレツが困るもの。
「極上だよ」
すっと体が傍から離れて、レツの瞳が正面でキラキラと水面のように輝いている。
「お腹がすいているから、手っ取り早く食べさせてね」
きゅっと手を握られた感触に俯くと、おでこに何かが触れた感じがして視線を上げると、レツの唇がそっと頬に落ちてくる。
「レツ?」
突然の行為にバクバクと心臓が発作を起こしたかのように鳴り出して立ち上がろうとすると、手を握る力が強くなり、動けなくなる。
「逃げないで」
耳の至近距離で囁かれて、ぞくぞくするような感覚に全身が硬直して、目を力一杯閉じる。
心臓はうるさいくらい音を立てているし、きっと顔なんて真っ赤に染まっているだろうから、恥ずかしくてレツを直視なんて出来ない。
レツにとってはただの食事なのに、一人だけドキドキして意識しちゃって気恥ずかしい。
握られていた手は離され、レツの腕が背中に回される。
ものすごい密着感に、うぎゃーって叫びたくなる。
なんか、もう、頭がどうにかなっちゃいそう。
頬にあった感触は首元にあって、そこがとっても熱をもっているかのように熱い。
熱くて、熱くて。朦朧としてくる。
全身が溶けちゃいそうで、力が入らない。
それなのに身体を抱きしめられる感触だけが強烈で、気を失う事を許してくれない。
「ごめーん。食べすぎちゃった」
暫くしてから能天気ないつもの声がして、目を開く。
「あーあ。食べすぎたから戻しといたんだけど変化しちゃったね。やりすぎた」
意味がわからなくて首を傾げると、レツが笑う。
「目の色。蒼になっちゃった。ごめんね」
その夕方、部屋に帰った後に助手がぶっ飛んだ顔をしたのが、今も忘れられない。
「ねえ、どうして食べる時にこうやって引っ付くの」
抱きついてくるレツに聞くと、眉間に皺を寄せてレツが身体を離す。
「色気のない言い方だなー。抱き合うとか、もっと言い方あるでしょ。もしかしてサーシャはイヤなの」
「ううん、イヤとかそういうんじゃなくて、前はこんな事しなかったのに」
レツの声が聴こえなくなる前は、食べさせてって改めて言ってくることも無かったし、いつ食べられているのかもわからなかった。
確かにスキンシップはしていたけれど、濃厚に接触してくるという感じではなく、背中合わせにして本を読んでいたりっていう程度だったのに。
目の前にちょこんと座ったレツが顔を覗き込んでくる。上目遣いで、こちらの心情を推し量るかのように。
「ボクが食べるのはキミの生命力だよ。だから直接口に入れようかなと思ったんだけれど、ダメ?」
あくまでもレツにとっては食事なんだ。
なのに私ばっかりドキドキして意識しまくりで、穴があったら入りたいよ。
それと同時に、嫌な考えが頭をもたげる。
「誰にでも、こうやってするの? 私だけじゃなくて」
巫女になった人なら誰でも。
自分で口にしてしまってから、ぎゅっと胸が苦しくなる。
当たり前なのに。私は期間限定の巫女なんだから、ずっと一生傍にいられるわけじゃないんだから。
私が巫女になる前は、神官長様やその他の歴代の巫女たちが、そして私がいなくなれば代わりの巫女たちがレツの食事になるだけ。
それは決められている事で、覆しようのない事実。今更そんなこと考えたってしょうがないのに。
「今はキミだけだよ。それじゃダメなの」
ダメだよ。そんなんじゃイヤだよ。
私が欲しいのはそんな言葉なんかじゃないんだよ。
口に出来ないワガママが音にはならずに、涙として零れ落ちていく。
わかりきったことなのに。でもどうしてもイヤなの。
無限の命を持っていないから、永遠の孤独を共に生きる事も出来ない。中途半端な力しかないから、孤独から救い出す事も出来ない。
レツの、彼の長い一生の一瞬の間だけ、餌として供給されているだけに過ぎない私の命。他の巫女と同じだけの価値しかない。
並列に愛されたって、そんなの私の欲しいものじゃない。
どんなに「好きになって」と言って愛情を求めていたって、それは呪縛から逃れたいだけのレツの都合。
建国王と呼ばれる初代国王と始まりの巫女の二人が作った金銀の鎖から解き放って欲しいだけ。
本当に心の底から、私だけが欲しいと思っているわけじゃない。私のことが好きで言っているわけじゃない。
「ごめん。また明日来るね」
レツの身体を両手で突き放し、奥殿の扉を開く。
泣いたままだとみんなが心配する。
閉じた巨大な扉を背に、音を立てないように涙を流し続け、顔の腫れが引くのを待つしかない。
どのくらいの時が経ったのだろう。
空が茜に染まり、夕闇が近寄ってくる事を風が伝えてくる。
今日は暖かくて過ごしやすい日だったけれど、さすがに夜になるとかなり冷えてくる。
もう涙の跡は消えたかもしれない。雪が降る前に前殿に帰ろう。
座り込んでいて固まってしまった身体に力を入れて、立ち上がると不意に腕を引っ張られる。
「気が済んだ?」
レツが扉の向こう側から問いかけてくる。
少しだけ開かれた扉からはレツの腕だけが伸びていて、その手を振り払う事なんて出来ないくらい強い力で手首を掴まれている。
「好きだよ、サーシャ。ずっと一緒にいたいと思うくらいに」
暗闇の向こう側でレツがどんな顔をしているのか、わからない。
いつものような愛の告白に、思わず溜息が出る。そんなこと、出来ないってお互いわかっているじゃない。
憤りが湧き上がってくる。
「離して」
ぶんっと腕を振り回すけれど、掴んでいる手は離れない。
「出来もしない事言わないで。そんなこと出来ないじゃない。今だけの甘い嘘なんていらないのっ」
「甘い嘘?」
何度も腕を振り上げたり振り下ろしたりするけれど、レツの手は離れない。
「だってそうじゃない。好きになってとか、好きだよとか言ったって、レツはいつか私をここから追い出すのよ。私の代わりの誰かを選んで。違う? 違わないでしょ。だって今までだってずっとそうやって来たんだもの。そうやってきたから、私は巫女になれたんだもの」
「サーシャ」
「私はイヤだ。期間限定の愛情を貰ったって嬉しくない。そんなもの欲しくない」
「サーシャ、キミ……」
「私は神官長様みたいになりたくない。一生手に入らない愛情を追い求め続けたくない。次の誰かを恨んで生きていきたくなんか無い」
ふっと手首を握る感触が弱まったので、その瞬間に力の限り腕を振り上げると、レツの手は離れていく。
「私は惨めになりたくない」
レツは何も話しかけては来ない。
いつものように頭に響くレツの声も聴こえてこない。
ぐるぐると渦巻く憤りに飲み込まれそうになりながら、前殿へと足を向ける。
数日後、ちょうど王暦で新年を迎えた日、雪の中をウィズが神殿を訪ねてくる。
あいにく神官長様は熱を出してしまっているので、私だけでウィズをもてなす事になってしまった。
そのことを告げると、ウィズは少し申し訳なさそうな顔をしていつものようの社交辞令を繰り返すばかりだ。
どうして私の周りって、こうやって上辺だけのことを言う人たちばっかりなんだろう。
口ばっかりの愛情とか、口ばっかりの謝罪とか。
そんなもの聞いてても心なんて動かないのに。
「ごめんなさい。席を外して貰えますか」
ニコニコとどうでもいい話をするウィズの話が途切れたところで、居並ぶ神官たちに声を掛ける。
「どうなさいましたか」
長老が憂い顔で問いかけてくるけれど、首を横に振って何も無いと合図する。
「ちょっと祭宮様にお伺いしたい事があるので、少しだけお時間をいただけますか」
少し考えてから長老が「15分だけですぞ」と渋い顔で言い、部屋を後にする。
神官たちの足音が遠ざかると、ウィズの顔から笑みが消えてを困惑の色が広がっていく。
「何か、俺、した?」
「別に。社交辞令、聞き飽きただけ」
ぎょっとした顔をした後に、お腹を抱え込んでウィズが笑い出す。
何がそんなにおかしいんだろう。
「なんだよそれ。っていうかササ何怒ってんの?」
「怒ってなんか無いです」
「それを怒ってるっていうんじゃないの? まあ、いい。で、どうした。祭宮じゃなくて俺に話があるんだろ」
ウィズがウィズの顔をして問いかけてくる。
「普通に話がしたかったの。ただそれだけ。上辺だけの言葉なんて欲しくない」
首を傾げて、ウィズが態度の悪さ全開で足を組んで腕を組んでソファに斜めに寄りかかる。
「何かあったのか」
「……別に」
「別にって顔じゃないだろ。口尖らせて子供みたいな顔して。どうしたんだよ」
態度は悪いけれど、言っている言葉は優しい。
そんな酷い顔してるかな。口尖らせてなんていないつもりなんだけれど。
「愚痴、聞いてくれる?」
「おや。珍しいな。ササがそんなこと言い出すなんて」
そういうとウィズが席を立ち上がり、私の隣に腰を下ろす。
かなり大きいソファなので、隣といっても密着しているわけではない。でもそんな傍で聞いてもらうような話じゃないのに。
「近いよ」
「そうか。気にするな」
「でも」
「押し問答しているうちに、時間無くなるぞ。どうした」
そう言われて拒絶の言葉の行き場をなくしてしまうと、胸に抱えるモヤモヤとしたものが形を少しずつ大きくして口から溢れ出してくる。
「どうして巫女は数年で辞めなきゃいけないの?」
「それ、俺に聞くか?」
「だって祭宮なら知っていると思ったから」
ふうっと溜息をついて、それからウィズが瞳を覗き込むように屈んでこちらを見てくる。
「目、蒼いな」
言われて気付く。
最近では目の色が変わっていても誰も何も言わなくなっていたから、気にしていなかった。
数日前のあの日、レツは私のこと食べたんだ。
「触れてもいい?」
覗きこんできた瞳に頷き返す。
ポンポンと頭を軽く叩くだけで、それ以上何も言おうとはしないし、それ以上何もしようとはせずに手が引っ込む。
まるでレツが大丈夫だよと言わんばかりに頭を叩いたり撫でたりする時と同じようで、計らずもレツのことを思い出してしまう。
ずっと話しかけないようにしてたのに。レツのこと思い出しちゃったよ。
レツのばか。
「眉間、皺よってる」
長くて綺麗な指で眉間を触られ、至近距離にウィズの顔を見る。
大祭以降、ベールは日常ではつけなくなっていたので、直接触れられてドキっと胸が跳ねる。
ドキドキしたことも伝わってしまいそうで、恥ずかしさで顔に血が上る。
「触っても怒んないのな、お前の神様。普段ならイチャモンの一つも付けてくるのに」
「……喧嘩、してるから」
それが正しい言い回しかわからないけれど、一番それがしっくりくる表現な気がする。
私は私の伝えたい事を言ったのに、それに対してレツの反応が無い。
確かに話しかけないようにしていた私もいけないかもしれないけれど、何か言いたい事があれば言えばいいと思うの。それなのに何も言ってこないし。
否定もしないって事は、やっぱりレツの中で私は期間限定の巫女でしかないんだ。
「水竜と喧嘩って、お前化け物だな」
呆れたような顔で言うウィズだけれど、決して嫌な感じはしない。
馬鹿にしているわけでもないし、茶化しているわけでもないのはわかる。
「何で喧嘩したんだよ。んで、喧嘩したから巫女辞めたいのか」
「そうじゃないっ。そうじゃないよ。違うの」
全力で否定する。
ばっかじゃないのって頭の中でもう一人の自分が言う。
ウィズに巫女辞めたくないって言ったって、何も変わりはしないのに。決められるのはレツだけなの、わかっているのに。
「巫女を辞めたくないの。ずっと巫女でいたいの」
「ササ」
困ったような顔をウィズがしたけれど、一度口にしたら止められない。
「私、ここにずっといたい。それはダメな事なの?」
「それは俺には決められないよ」
「わかってる、わかってるよ。そんなこと言ったってしょうがない事も」
ポロポロと涙が零れ落ちてくる。
知らずうちに握り締めていた拳の上に、涙がポトポトと滴り落ちてくる。
決壊して溢れだした涙をウィズの綺麗な指が掬い取る。
「……好きなんだな」
呟くように聞くウィズに頷き返すと、ウィズの腕が私の頭を引き寄せる。
ウィズの規則正しい鼓動の音、体の温かさ、力強さ。そのどれも、レツには無いリアルな感触。
それが哀しくて、涙がどんどん溢れ出していく。
私の欲しい熱はどんなに望んでも手に入れることは出来ない。
「そっか。辛いな」
その言葉をキッカケに、堰をきったかのように嗚咽が止まらなくなる。
ぎゅっと頭を抱えるウィズの手に力が篭って、顔が肩に押し付けられる。
「肩ならいつでも貸してやる。だから、泣く時は俺のとこで泣けよ」
巫女だから他の人には涙を見せるなって事だよね。声が漏れないように頭を押さえ込まれているし。
そうやって巫女を守ろうとしてるのね、ウィズも。
私は私を見て欲しいのに。
表面だけの愛情も、形だけの同情もいらない。
レツもウィズも「巫女である私」しか見ていない。
切なくて苦しくて、でも声を上げたらいけない気がして、ウィズの服を握り締めて泣き続ける。
梳くようにウィズが頭を撫で続けている。
すごく優しいのに。でも私が巫女だから得られる優しさでしかない。
嫉妬なんてしたくない。永遠に得られないモノを求め続けたくない。虚しい一時の思い出なんていらない。
でもレツに私だけを見ていて欲しい。
ウィズに、巫女じゃない私も対等だと認めて欲しい。