祖父の葬儀も終わらないうちに、八年付き合った婚約者は別の女と入籍していました
祖父は最期に、八年間付き合ってきた婚約者の誠司と私が婚姻届を提出するところを見たいと言った。ところが市役所の前で、誠司は一か月待ってほしいと言い出した。
翌日、彼の同僚が二人の結婚証明書をSNSに投稿した。「たった一か月でも、あなたの妻になれて幸せです」
私は会社へ向かい、彼が友人にこう話しているのを聞いた。「源一郎さんに命を救われて、澪を一生守るって約束したせいで、人生を縛られた気分だ。たった一か月でも、本当に愛する人と一緒にいられれば、死んでも悔いはない」
友人が「澪にばれないか」と心配すると、彼は「澪は俺を信じきっている。気づかれるわけがない」と答えた。
結局、彼は私に会えなかった。ただ、新婚の祝いだけが届いた。
「美羽さんと、末永くお幸せに」
1
病院へ駆けつけた時、祖父はすでに救命処置室から運び出されていた。
医師はマスクを外し、重い表情で告げた。
「患者さんの状態は、もう元には戻せません」
「伝えたいことがあるなら、今のうちにお話しください」
足元から力が抜けそうになりながら、病室の扉を開けた。
祖父は普段よりも顔色がよく、穏やかに笑っていた。まるで幼い頃、学校から帰る私を毎日待っていてくれた時のようだった。
「澪、来たのか」
「誠司はどうした? 一緒じゃないのか?」
それが祖父に残された最後の力なのだと、私には分かっていた。
「仕事が忙しいみたい。今すぐ電話するね」
十回以上、電話をかけ続けた。
けれど誠司は出なかった。祖父の目に残っていた期待も、呼び出し音が途切れるたびに少しずつ消えていった。
ようやく電話がつながると、誠司の苛立った声が聞こえた。
「澪、今日は忙しいって言っただろ」
「何度も電話をかけてきて、一体何の用なんだ?」
私は唇を強く噛み、込み上げる嗚咽を必死に抑えた。
「誠司、おじいちゃんがもう長くないの」
「お願いだから、最後に一度だけ会いに来てくれない?」
最後まで言い終える前に、誠司は冷たく遮った。
「いい加減にしてくれ」
「俺を呼び戻すために、そんな嘘までつくのか?」
「今日は大切な用事がある。話なら明日にしてくれ」
電話が切れる直前、美羽の甘えた声が聞こえた。
「誠司、早くこっちに来て」
祖父は私の異変に気づき、幼い頃と同じように、硬くなった手のひらで頭を撫でてくれた。
「泣くな」
「じいちゃんの一番の願いは、澪が幸せに暮らすことだ」
「何があっても、じいちゃんはずっと澪のそばにいる」
私は祖父の手を握り、病床の横へ座り続けた。
やがて、心電図モニターが長く耳障りな音を響かせた。
喉の奥に何かが詰まったようで、口を開いても声が出なかった。
「高瀬さん、お悔やみ申し上げます」
祖父が亡くなったあと、私は蒼汐メモリアル斎場で小さな家族葬を行った。
親戚も、参列者もいなかった。
本来なら私の隣に立っているはずの人は、入籍したばかりの妻と過ごしていた。
火葬が終わると、私は自分の手で骨上げを行い、祖父の遺骨を骨壺へ納めた。そのうちのほんの一部を光環メモリアル工房へ預け、密閉式の遺骨カプセルに入れてもらった。
透明なカプセルの隣には、小さな青白いダイヤモンドが添えられた。
それは、祖父がいつでも私のそばにいられるように作った遺骨ブレスレットだった。
「簡単な密閉加工と組み立てでしたら、明日にはお渡しできます」
職人の説明を聞いたあと、私は祖父の遺影を抱えたまま、斎場の外に長い時間座っていた。
それでも、祖父の最期の姿だけは誠司にも見てほしいと思っていた。
けれど電話をかけた時、私はすでにブロックされていた。
LINEも、メールも、会社から支給されている携帯電話も、すべてつながらなかった。
その頃、美羽はInstagramのストーリーズを更新していた。
写真の中で、美羽は蒼岬海浜公園の砂浜を歩いていた。誠司は彼女の手を握り、優しい笑顔で見つめている。
【少し落ち込んでいただけなのに、仕事を全部置いて海へ連れてきてくれた】
私はスマートフォンを開き、三日後に海凪市を離れる航空券を購入した。
あれほど愛し合っているのなら、私が残って自分を傷つけ続ける必要はない。
桐生誠司。
もう二度と、会うことはない。
2
翌日、祖父の遺品を霧浜町の寺へ運び、僧侶にお焚き上げをお願いした。
白汐台の自宅へ戻ると、耳障りな犬の鳴き声が聞こえた。
客間から出てきた美羽は、私のシルクのバスローブを身につけ、小型犬を抱いていた。口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。
「この子、人見知りなんです。ごめんなさい」
すぐに二階から誠司が下りてきた。
私の顔色を見て、彼は自分から手を握ってきた。
「昨日は仕事が終わるのが遅くなったんだ」
「美羽は帰る手段がなかったから、客間へ泊めただけだよ」
美羽が投稿した海辺の写真を思い出し、私は小さく笑った。
「ずいぶん遅くまで忙しかったのね」
誠司の顔が一気に険しくなった。
「澪、どういう意味だ?」
私は彼の手を振りほどき、そのまま二階へ上がった。
扉を閉める直前、誠司が美羽を宥める声が聞こえた。
「最近、澪は情緒が不安定なんだ。気にしなくていい」
この家は祖父が私に残してくれたものだった。
仏間には祖父の遺影があり、押し入れには、これからお焚き上げへ出す予定だった古い衣類が残っていた。部屋に漂う淡い線香の香りを吸い込んだ瞬間、涙を抑えられなくなった。
私が遺品を整理していると、美羽が勝手に扉を開けて入ってきた。
「高瀬さん、誠司はもうあなたを愛していません」
「何も知らないふりを続けて、何になるんですか?」
私は手を止めなかった。
「それなら、本人を連れてきて」
「誠司が自分の口で愛していないと言うなら、私は絶対に縋らない」
美羽の得意げな表情が、一瞬だけ固まった。
「いつまで強がっていられるか、楽しみですね」
出ていくよう言おうとした時、鼻を刺すような臭いがした。
美羽の犬が仏間の横にある低い台へ飛び乗り、祖父の遺影と供物台に向かって尿をしていた。
私はすぐに犬を抱き下ろし、ティッシュで遺影の汚れを拭いた。
「私の大切な子に何をするの!」
美羽は悲鳴を上げ、犬を奪い取った。
「高瀬さん、この子をいじめるなんて信じられない!」
彼女は祖父の遺品が入っていた紙袋を蹴り倒した。
お焚き上げへ出す予定だった衣類が床へ散らばる。その上を、美羽はわざと何度も踏みつけた。
私はもう耐えられなかった。
美羽の頬を、思い切り平手で打った。
顔が横へ向いた彼女の襟元をつかみ、目をそらさずに見つめる。
「水野美羽」
「もう一度でも祖父の物に触れたら、絶対に許さない」
突然、腕を強くつかまれた。
次の瞬間、私は床へ投げ飛ばされ、後頭部をベッド脇の棚へ打ちつけた。目の前が一瞬で暗くなる。
「澪、何を考えているんだ!」
誠司は美羽をかばうように抱き寄せた。
美羽は目を潤ませ、赤く腫れた頬を彼へ見せた。
「私は、遺品整理を手伝おうと思っただけなのに……」
「高瀬さんが私を嫌っているなら、もう帰ります。これ以上、目障りだと思われたくありませんから」
誠司は冷たい目で私を見下ろした。
「美羽は善意で手伝おうとしたんだ」
「お前はいつまで騒ぐつもりだ?」
私は尿で汚れた遺影を持ち上げた。
「犬に祖父の遺影を汚させることが、善意なの?」
「お焚き上げに出す衣類を踏みつけるのも、善意だと言うの?」
誠司の目がわずかに揺れた。
けれど、すぐに視線をそらした。
「ただの写真だろ」
「もう一度焼き増しすればいい。それくらいのことで、人を殴る必要があるのか?」
私は目の前にいる男を、信じられない思いで見つめた。
彼が私を愛していなくても、祖父は長い間、誠司を本当の孫のように可愛がっていた。
かつて火事が起きた時、祖父は命の危険も顧みず、二階の物置に閉じ込められていた誠司を助け出した。
その時に大量の煙を吸ったせいで、祖父の肺には治らない後遺症が残った。
それなのに誠司は、別の女が祖父の思い出を踏みにじるのを許している。
「出ていって」
涙が頬を伝った。
誠司はまだ何か言おうとしたが、美羽が袖を引いた。二人は並んで部屋を出ていった。
3
祖父の遺品をまとめ、霧浜町の寺へ運ぶ準備をした。
スーツケースを引いて階段を下りる私を見つけると、誠司がすぐに前へ立ちふさがった。
「これくらいのことで家出するつもりか?」
「遺影なら、午後にでも俺が一緒に焼き増しへ行く」
私は彼の手を振り払った。
「ここに入っているのは、おじいちゃんの衣類よ」
「最後のお別れをしに行くの」
あまりにも静かな私の態度に、誠司はようやく不安を覚えたらしい。
「源一郎さんの容体はどうなんだ?」
「少し待ってくれ。俺も一緒に病院へ行く」
その時、台所から美羽の痛がる声が聞こえた。
「誠司、包丁で指を切っちゃった」
「痛い……」
誠司は私を押しのけるようにして台所へ駆け込んだ。
美羽の指先にあったのは、ほんの浅い切り傷だった。それでも彼は心配そうにティッシュを巻き、何度も傷を確認した。
「美羽が出血している。先に病院へ連れていく」
「澪は家で待っていてくれ。戻ったら一緒に源一郎さんへ会いに行こう」
私は彼の目を見て、小さくうなずいた。
誠司は安心したように息を吐き、美羽の手を引いて出ていった。
私は知っていた。
彼は戻ってこない。
蒼汐県の習慣に従い、私は祖父の衣類を霧浜町へ運び、寺でお焚き上げをお願いした。
夕暮れの中で炎がゆっくり消えていく頃、ようやく誠司から電話がかかってきた。
「澪、会社で急な会議が入ったんだ」
「源一郎さんによろしく伝えてくれ。明日は必ず一緒に会いに行こう」
電話が切れたあと、美羽のInstagramに、また誠司の姿が映っていた。
【少し指を切っただけなのに、一日中そばについていてくれた】
翌朝、誠司の方から電話がかかってきた。
一日中、私から連絡がなかったためか、声には珍しく不安がにじんでいた。
「澪、今日は一緒に源一郎さんへ会いに行こう」
私はちょうど、光環メモリアル工房から遺骨ブレスレットを受け取ったところだった。
いつも私を守ってくれた祖父は、今では透明なカプセルの中に納められた、ごくわずかな遺骨になっていた。
「分かった」
「私も、あなたに話さなければならないことがある」
祖父が亡くなったことは、やはり誠司へ伝えるべきだと思った。
白汐台の家へ戻ると、美羽が居間へ座っていた。
私の手首にある遺骨ブレスレットを見るなり、彼女はわざと腕を持ち上げ、高価そうな宝石の腕時計を見せつけた。
「昨日、指がずっと痛かったから、誠司が慰めに買ってくれたんです」
私はその自慢を無視した。
「誠司はどこ?」
私が何も反応しないことが気に入らなかったらしい。
美羽の目が暗く変わり、突然ブレスレットをつかんだ。強く引かれたチェーンが切れ、手首に赤い傷が残る。
遺骨ブレスレットは窓の外へ飛び、庭のプールへ落ちた。
私は流血する手首にも構わず、プールへ駆け寄った。
迷うことなく、水の中へ飛び込む。
その直後、美羽が身につけていた宝石の腕時計も、プールへ投げ込まれた。
彼女はプールサイドへ膝をつき、声を上げて泣き始めた。
誠司が家から飛び出してきた時、ちょうど私が水面へ顔を出した。
「澪、お前はいつからそんなに心が狭くなったんだ?」
「美羽が大切な仕事を成功させたから、俺が時計を贈ったんだ。それが気に入らなくて、わざとプールへ飛び込んで美羽を陥れようとしたのか?」
「今すぐ時計を拾え。見つけるまで、そこから出るな!」
プールの縁へ手をかけ、上がろうとした。
けれど誠司は私の肩を押し、再び水の中へ突き落とした。
冷たい水が、一気に鼻と口へ入ってくる。
誠司は岸に立ったまま、冷たい目で見下ろしていた。
「時計を投げたのは美羽よ」
「庭の監視カメラを確認すれば分かる」
誠司は嘲るように笑った。
「だが、プールへ飛び込んだのはお前だ。俺は自分の目で見た」
私は水底から拾った遺骨ブレスレットを持ち上げた。
「おじいちゃんは亡くなったの」
「これは、おじいちゃんの遺骨を納めたブレスレットよ」
「美羽がこれをプールへ投げたのに、飛び込まずにいられるわけがないでしょう?」
美羽は誠司の手を取り、悲しそうに顔を歪めた。
「でも、佐伯さんは、源一郎さんは病院で治療を受けていると言っていました」
誠司の表情がさらに険しくなった。
「澪、実の祖父だろ!」
「美羽への嫉妬だけで、亡くなったなんて嘘をつくのか?」
「時計を拾って、美羽に謝れ!」
4
冷たい水の中へ長く浸かっていたせいで、全身の震えが止まらなかった。
もう一度水底へ潜り、美羽の腕時計を拾った。残っている力を使い切るように、ようやくプールサイドへ這い上がる。
誠司は休む時間すら与えず、腕をつかんで美羽の前へ連れていった。
「謝れ」
美羽は誠司の腕へ絡みつき、理解のある女を装って口を開いた。
「もういいです」
「源一郎さんはお体が悪いんでしょうし、高瀬さんをあまり困らせたくありません」
「代わりに、そのブレスレットを数日だけ私が預かります。また失くしたら大変ですから」
私は遺骨ブレスレットを強く握り締めた。
切れた金具が手のひらへ刺さり、血が落ちていく。それでも、絶対に手を離さなかった。
「これは、おじいちゃんの遺骨なの」
「あなたに渡すわけがない!」
「今日ここへ戻ったのは、おじいちゃんが亡くなったことを伝えるためよ!」
「信じられないなら、海凪中央医療センターへ直接電話すればいい!」
誠司の顔が、これ以上ないほど険しくなった。
彼には、私が祖父の生死を使って意地を張っているようにしか見えなかったのだろう。
数人の警備会社スタッフが近づき、私を床へ押さえつけた。
誠司は血を流している私の手を無理やり開き、遺骨ブレスレットを奪い取った。
血のついたブレスレットが、美羽の前へ差し出される。
私の指先から落ちる血を見て、誠司の目には、確かに心配する色が浮かんでいた。
「もういい。美羽も許してくれた」
「早く傷の手当てをしてこい」
床へ押さえつけられたまま、私はブレスレットへ手を伸ばし続けた。
プールの水へ長く浸かっていたうえ、祖父が亡くなってからほとんど眠っていない。
次第に視界が暗くなった。
意識を失う直前、誠司が慌てた顔をするのが見えた。
翌朝、目を覚ますと、海凪市立病院のベッドに寝かされていた。
病室には誰もいなかった。
枕元に置かれた、すっかり冷たくなった水だけが、誰かが一度は来たことを示していた。
スマートフォンには、誠司から住所が送られていた。
【ブレスレットを返してほしいなら、ここへ来い】
私は無理をして退院手続きを済ませ、車で蒼岬海浜公園へ向かった。
遠くから、崖のそばに建つ蒼岬グラスチャペルで結婚式が行われているのが見えた。
参列者の中には、誠司の友人たちがいた。
私の姿を見た瞬間、彼らの顔には驚きが浮かび、すぐに秘密を知られた者の焦りへ変わった。
誠司は白いウェディングドレスを着た美羽と腕を組み、参列者から祝福を受けていた。
私を見つけると、彼の顔色が変わった。
「どうしてここにいるんだ?」
誠司は早足で近づき、弱っている私の腕を乱暴につかんだ。チャペルから少し離れた場所へ引っ張っていく。
「このことは帰ってから説明する」
「今日は美羽にとって大切な日なんだ。ここで騒ぎを起こすな」
「そんなことをしたら、俺は一生お前を許さない」
目を赤くした美羽が近づいてきた。
「高瀬さん、こんな日に現れて、私に恥をかかせたいんですか?」
「ここにいる全員が、あなたの存在を知っています」
「それなら私は何なんですか? これから周りにどう見られると思っているんですか?」
彼女の目から涙が流れると、誠司の心苦しそうな表情は、すぐに怒りへ変わった。
「澪、わざと結婚式を壊しに来たのか?」
「お前がこんなに意地の悪い人間だとは思わなかった」
私は乾いた笑みを浮かべた。
「遺骨ブレスレットを取り戻しに来ただけよ」
「返してくれれば、すぐに帰る」
誠司は冷たく笑い、ポケットからブレスレットを取り出した。
私はすぐに手を伸ばした。
けれど次の瞬間、誠司は大きく腕を振った。
祖父の遺骨が納められたブレスレットは弧を描き、崖の柵を越え、荒れた海へ落ちていった。
「一体、何度そのブレスレットを言い訳に使えば気が済むんだ?」
「本当にそれほど大切なら、自分で海へ飛び込んで拾えばいい!」
彼が言い終わる前に、私は崖の柵へ向かって走っていた。
そのまま柵を越え、海へ飛び込もうとする。
「澪!」
近くにいた会場警備員が背後から私を抱え、力ずくで遊歩道へ引き戻した。
誠司は駆け寄り、取り乱した声で怒鳴った。
「ただのブレスレットだろ!」
「本当に命まで捨てるつもりなのか?」
私は魂が抜けたように地面へ膝をついた。
海だけを見つめ、何度も祖父を呼び続ける。
美羽が誠司の袖を軽く引いた。
「誠司、もうすぐ式が始まるわ」
誠司は結局、警備会社のスタッフへ命じ、私を公園の外へ連れ出させた。
私は近くの道路脇へ置き去りにされた。
どこへ行くかも考えず、道路沿いを歩いていた。
突然、路肩に停まっていた車から、体格のいい男たちが飛び出してきた。
「こいつだ!」
「老人の遺産を騙し取った女だ!」
「やれ!」
何が起きたのか理解する前に、四、五人の男に囲まれていた。
拳と靴が何度も体へ振り下ろされる。服を引き裂く者もいれば、わざと動画を撮影する者もいた。
通行人たちはスマートフォンを向け、遠巻きに私を見ながら囁き合っている。
突き飛ばされた拍子に、頭を道路脇の縁石へ強く打ちつけた。
血が流れ始めると、男たちはようやく動きを止め、慌ててその場から逃げていった。
破れた服を両手で押さえ、周囲の視線から逃げるように家へ戻った。
けれど、もう涙は一滴も出なかった。
かつて家と呼んでいた場所を見回し、必要最低限の衣類だけを鞄へ詰めた。祖父の遺影と骨壺も持ち出した。
そのまま車を呼び、海凪臨海空港へ向かった。
5
――誠司視点
結婚式が終わると、誠司は予定どおり、美羽と共に蒼環国際港から出発する新婚旅行用のクルーズ船へ乗り込んだ。
乗船前、佐伯健吾へ確認した。
「澪は家へ送り届けたんだろうな?」
佐伯はわずかに目を泳がせたが、すぐにうなずいた。
「ご安心ください、桐生社長」
「高瀬さんは白汐台のご自宅へ戻られました」
誠司はようやく安心した。
源一郎はまだ病院にいる。澪が本気で自分のもとから離れるはずがない。
一か月の結婚生活が終わったら、美羽と離婚して帰ればいい。少し優しくしてやれば、澪はいつものように許してくれる。
だが、新婚旅行が終わる前から、誠司は落ち着かなくなっていた。
十数日後、予定より早く澪のLINEブロックを解除した。
【澪、少しは反省したか?】
送ったメッセージに反応はなかった。
既読にもならず、返事もない。
これまで二人の喧嘩が一日以上続いたことはなかった。
誠司が少し不機嫌な態度を見せれば、澪の方から折れてきた。彼女はいつも、誠司の言動に理由をつけ、先に謝っていた。
それなのに、十日以上経っても何の連絡もない。
誠司の苛立ちと不安は、日に日に大きくなった。
ほかの女と入籍したうえ、長い間、源一郎へ会いに行っていない。澪が怒るのも無理はないと、ようやく考え始めた。
それでも、佐伯には毎日病院の様子を確認するよう命じていた。
美羽が背後から抱きつき、胸元へ指を這わせた。
「誠司、何を考えているの?」
新婚旅行の間、二人は毎晩のように関係を重ねていた。
美羽の計画では、源一郎はすでに亡くなり、澪も追い出されたことになっている。あとは海外事業の主導権を手に入れれば、自分の立場は完全に安定する。
美羽はバスローブをはだけさせ、いつものように誠司を誘った。
しかし、その日は何の興味も湧かなかった。
美羽を押しのけ、窓際へ立つ。もう一度、澪へ電話をかけた。
聞こえてきたのは、無機質な自動音声だけだった。
その瞬間、今すぐ澪へ会いたいという衝動が込み上げた。
「荷物をまとめろ」
「今日、帰る」
美羽は驚き、悲しそうに誠司の腕をつかんだ。
「一か月間、ずっと一緒にいるって約束したでしょう?」
「まだ十数日しか経っていないのに、どうして帰るの?」
目を潤ませ、震える声で尋ねた。
「誠司、もう私を愛していないの?」
誠司は美羽を見ながら、澪の顔を思い浮かべていた。
澪を好きだった気持ちは、決して嘘ではない。
二人は幼い頃からいつも一緒に過ごし、将来は当然、澪が妻になると信じていた。
ただ、あまりにも長く一緒にいたため、変化のない関係を退屈だと感じるようになった。
美羽が現れ、これまでにない新鮮さと刺激を与えてくれた。
誠司はそれを愛だと思い込み、すべてを捨ててでも、一度だけ自由に生きたいと考えた。
だが、わずか十数日で、その刺激にも飽き始めていた。
「もう十分、一緒にいただろ」
「帰ったら、この関係は終わりにする」
もうすぐ澪に会えると思うと、誠司の心臓は激しく動き始めた。
美羽の目に不満が浮かんだが、すぐにいつもの従順な表情へ戻った。
クルーズ船が港へ着くと、誠司は最も早い便で海凪市へ戻った。
白汐台の家は、しんと静まり返っていた。
いつもきれいに磨かれていた床には、薄く埃が積もっている。
誠司は慌てて二階へ駆け上がった。
寝室には、過去に澪へ贈った品がすべて置かれたままだった。クローゼットからなくなっていたのも、普段着が数着だけだ。
そのことに安堵した。
源一郎はまだ病院にいる。
澪はきっと、そこで付き添っているのだ。
誠司は長い間、源一郎へ会いに行っていないことを思い出した。栄養補助食品と澪への贈り物を買い、二人へ謝りに行こうと考えた。
6
病院へ向かう途中、佐伯から電話がかかってきた。
「桐生社長、先ほど確認したところ、高瀬さんが源一郎さんの退院手続きをされていました」
「現在、お二人の居場所は分かっていません」
誠司は反射的に否定した。
「あり得ない」
「源一郎さんの体は、転院に耐えられる状態じゃない。勝手に退院できるはずがないだろ」
電話の向こうで、佐伯はしどろもどろになった。
病院の記録を今朝になって確認し、自分も初めて知ったのだと繰り返している。
誠司はようやく異変を感じ取った。
電話を切ると、すぐに秘書室長へ連絡した。
「澪と源一郎さんの行方を調べろ」
「それから、佐伯の最近の通話履歴と口座の資金移動も全部確認してくれ」
結婚式へ現れた澪の、灰のように感情を失った顔が浮かんだ。
抑えきれない恐怖が、心の底から急速に広がっていく。
「違う……」
「俺が考えているようなことじゃない」
これ以上、考えることが怖かった。
もし本当に源一郎が亡くなっていたら、自分はどんな顔で澪に会えばいいのか。
胸に激しい痛みが走った。
誠司は道路脇へ車を止め、両手で強くハンドルを握り締めた。
――澪視点
蒼汐県を離れた私は、蒼環国際空港で飛行機を乗り継ぎ、北方海域の向こうにあるノルディア共和国へ向かった。
ノルディアは、海に囲まれた寒い島国だった。
ノルディア中央空港から地域鉄道へ二時間乗り、さらに一時間の連絡船へ乗り換え、港町ルーネヴィクへ到着した。
祖父は、新しい生活を始めるのに十分な遺産を残してくれていた。
私はもともとフリーの写真家で、雑誌や企業へ写真を提供しながら、遠隔でも仕事ができた。クリエイター向けの滞在許可を取得し、ルーネヴィク港の近くにある小さな木造住宅を借りた。
人口の少ない町だったが、静かで美しい場所だった。
地域鉄道の駅と港行きのバスがあり、私は自転車も購入した。毎日カメラを持ち、三十分ほど離れたベルーガ湾へ通った。
朝焼けと夕焼け。
空を横切る海鳥や、水面から飛び出す魚。蒼環海をゆっくり進む漁船を撮影した。
夜中に、祖父の夢を見ることもあった。
祖父は幼い頃と同じように、広い手のひらで私の頭を撫でてくれた。
「大丈夫だ」
「じいちゃんは、いつでも澪のそばにいる」
この町へ来て三か月が過ぎた頃、私はようやく、唯一の家族を失った悲しみの中から、少しずつ前へ進めるようになった。
海辺では、エリアスという男性と何度も顔を合わせた。
二十八歳で、明るく人懐っこい性格をしている。ルーネヴィク港にある漁業会社の責任者だった。
何度か話すうちに友人となり、彼の家へ招待された。
両親も妹も親切で、家族は自分たちの埠頭と漁船を所有し、代々漁業と水産加工を営んでいるのだと教えてくれた。
エリアスは撮影機材を持ち出し、海で撮った映像を嬉しそうに見せてくれた。
「これはハドックだよ」
「こっちはウルフフィッシュ。顔は怖いけど、味はすごくいい」
「この小さな鳥はウミスズメだ。近くの岩礁で繁殖する」
「キョクアジサシは、毎年蒼環海を渡って移動するんだ」
その時、玄関の扉が開いた。
背の高い若い男性が入ってきた。
「ノア、おかえり」
エリアスは立ち上がり、私たちを紹介した。
「澪、弟のノアだ」
「ノア、前に話した東洋出身の写真家だよ」
ノアは私へ手を差し出した。
「初めまして」
逆光の中に立つ彼の淡い金髪は、夕日に照らされて輝いていた。
青い瞳は、風のない日のベルーガ湾のように穏やかだった。
ノアは家業の潜水作業や漁船の整備を担当し、水中写真も撮影している。
私が一人で海辺へ写真を撮りに行っていると知ると、一緒に船へ乗らないかと誘ってくれた。
「岸から見る景色と、海の上から見る景色は全然違う」
「今度、僕たちと一緒に来ない?」
「初心者でも潜れる湾が近くにあるし、ウニも採れるよ」
私は海辺の町で育ったのに、本格的に沖へ出たことも、潜水を経験したこともなかった。
ノアの明るく誠実な目を見て、すぐにうなずいた。
祖父の遺影を小さく焼き増しし、ペンダントへ入れて首から下げた。
祖父にも、海の向こうにある景色を見せたかった。
7
――誠司視点
数日後、秘書室長が調査資料を誠司の前へ置いた。
一ページ目を見ただけで視界が暗くなり、椅子から滑り落ちそうになった。
「桐生社長、高瀬源一郎さんは、すでに亡くなられています」
「高瀬さんはお一人で家族葬を行い、光環メモリアル工房で遺骨ブレスレットを注文されていました」
書類に記された日付は、澪が何度も電話をかけてきた日だった。
澪はあの日、たった一人で最後の家族を見送っていた。
その時、誠司は何をしていたのか。
美羽の機嫌を取るため、蒼岬の海へ出かけていた。
美羽の犬が源一郎の遺影を汚しても、彼女が遺品を踏みつけても、止めなかった。
その後、澪は声を枯らしながら、ブレスレットには源一郎の遺骨が入っていると訴えていた。
それに対して、自分は何をしたのか。
ブレスレットを美羽へ渡し、冷たいプールの中で腕時計を探させた。
最後には、源一郎が澪へ残した最後の一部を、自分の手で海へ投げ捨てた。
耳元で激しい耳鳴りがした。
胸の奥から鉄錆のような味が込み上げ、誠司は血を吐いた。
意識を失う直前、澪の声が聞こえた気がした。
「桐生誠司」
「私はもう、あなたをいらない」
夢の中には、幼い頃の澪がいた。
誠司の手を引き、源一郎が待つ庭へ駆け込んでいく。
「おじいちゃん、今日はとんかつが食べたい!」
誠司は勢いよく目を開けた。
病室には、源一郎も澪もいなかった。
かつて、高瀬家の古い屋敷で火災が起きた。
誠司は二階の物置へ閉じ込められ、源一郎が煙の中へ飛び込んで助け出してくれた。
大量の煙を吸い込んだことで、源一郎の肺は少しずつ悪化していった。
誠司も幼い頃から、家族に高瀬家への恩を忘れてはいけないと言われ続けた。
だが、澪と交際するよう強制されたことは一度もない。
大学時代に告白したのは、誠司自身だった。
一生そばにいると誓ったのも、自分だった。
それなのに、裏切った事実を認める勇気がなく、すべてを、もう何も反論できない老人の責任にした。
誠司は白汐台の家へ戻った。
かつて温かかった部屋には埃が積もり、窓辺の植物も枯れていた。
床へ崩れ落ち、涙を流していると、突然インターホンが鳴った。
誠司は転びそうになりながら玄関へ駆けた。
「澪……」
扉の向こうに、待ち望んだ姿はなかった。
小さな箱を抱えた配達員が立っているだけだった。
「桐生誠司様でしょうか?」
「高瀬澪様からのお荷物です」
澪の名前を聞き、誠司は急いで受領の手続きをした。
箱を開けた瞬間、動けなくなった。
中には、かつて澪へ贈った婚約指輪が入っていた。
佐伯に作らせた、偽造の婚姻届受理証明書もあった。
その下には、美羽が投稿したInstagramの画面と、二人の会話記録を印刷した紙が重ねられていた。
澪は最初から、誠司と美羽が入籍したことを知っていた。
美羽へ向けた優しさも、贈り物も、一緒に過ごした時間も、美羽によってすべて公開されていた。
それらは一本一本、澪へ突き刺さる刃になった。
誠司は後悔に飲み込まれ、泣き声さえ出せなかった。
自分は澪に対して、責任と恩返しの気持ちしか残っていないと思い込んでいた。
澪のように穏やかで、自分を信頼している女性が、離れていくはずがないとも信じていた。
だが、澪のいない部屋で、誠司はようやく理解した。
置いていかれたのは、澪ではない。
自分の方だった。
8
秘書室長は、佐伯についての調査結果も持ってきた。
「佐伯の口座には、複数回にわたって多額の入金がありました」
「送金元は、水野美羽の両親が所有する会社です」
「そのほかにも、業者からのリベートや会社資産の横領、事業資金の流用が確認されています」
誠司は、すべてを理解した。
少し前から、桐生国際商事では全社的な会計監査が行われていた。
佐伯が流用した多額の資金が発覚寸前となり、帳簿の穴を埋めるための金が必要だった。
美羽は、その金を渡した。
その見返りとして、佐伯は病院や葬儀会社からの連絡を握り潰した。誠司には、源一郎の状態は安定しており、その後は療養施設へ移ったと嘘をついた。
「証拠を警察へ提出しろ」
「佐伯を訴え、横領した金をすべて返還させる」
誠司の声は冷え切っていた。
「水野美羽にも、相応の責任を取らせる」
佐伯は業務上横領や書類偽造など、複数の容疑で警察に連行された。
正式に逮捕される直前、誠司の前へ膝をつき、必死に許しを求めた。
「桐生社長、全部、水野美羽に命令されたんです!」
「彼女は私が資金を流用していることを知っていました。従わなければ、すべて公表すると脅されたんです」
「海外事業が軌道に乗るまで隠し通せば、社長へ取りなしてくれると言われました」
誠司は、地面へ這いつくばる佐伯を冷たく見下ろした。
「なぜ澪を襲わせた?」
佐伯の唇が震え、言葉が出てこなかった。
誠司はスマートフォンを、佐伯の前へ差し出した。
画面には、結婚式のあと、澪が道路で男たちに殴られ、服を引き裂かれている映像が流れていた。
警察は佐伯の端末から、美羽の指示、暴行を行った男たちが撮影した元動画、両者の送金記録を見つけていた。
「水野美羽です」
「全部、彼女に言われたんです」
佐伯は、同じ言葉を繰り返した。
誠司の声には、何の感情もなかった。
「お前は罪を償え」
「美羽も同じだ」
誠司から連絡を受けた美羽は、彼が自分のもとへ戻る気になったのだと思った。
時間をかけて服を選び、嬉しそうな顔で待ち合わせ場所へ現れた。
「誠司、いい知らせがあるの」
「例の海外事業について、先方が正式な検討へ入ってくれたわ」
「ただし、私が責任者になることが条件なの」
誠司は一枚の書類をテーブルへ投げた。
「会社に隠れて二重契約を結び、この事業を利用して資産を移そうとしたな」
「俺が気づかないとでも思ったのか?」
美羽の顔から血の気が引いた。
「佐伯は全部話した」
「ほかに言いたいことはあるか?」
美羽は全身を震わせ、泣きながら床へ膝をついた。誠司の脚へしがみつく。
「私は本当に誠司を愛していたの」
「ずっと一緒にいたかったから、こんなことをしたのよ」
「それに、あなたも澪とあの老人を嫌っていたでしょう?」
「二人は命を救った恩を使って、あなたを縛り続けていた。私はあなたの代わりに、邪魔なものを取り除いただけ!」
誠司は美羽を強く押しのけ、一度だけ頬を打った。
「黙れ」
「澪と源一郎さんのことを、お前が口にする資格はない」
「俺が本当に愛していたのは澪だ」
「お前はただ、刺激を求めて現実から逃げるために選んだ相手だった」
美羽は頬を押さえ、突然冷たく笑った。
「今さら全部、私のせいにするの?」
「私に澪を傷つける力を与えたのは、あなたでしょう」
「人前で私だけを大切にして、何度も澪ではなく私を信じた」
「私に刃物を握らせたのは、あなたよ」
「あなたが私を許し続けなければ、どうして私が澪をあそこまで追い詰められたと思うの?」
誠司の体が固まった。
美羽は卑劣だったが、その言葉は間違っていなかった。
すべての嘘が通用したのは、誠司が心のどこかで、澪は源一郎を利用して嫉妬しているのだと信じたかったからだ。
一度でも澪を本当に気にかけていたら。
一度でも彼女の話を最後まで聞いていたら。
こんな結末にはならなかった。
「だから、俺たちは全員、代償を払うんだ」
美羽は業務上横領への関与、傷害事件の教唆、書類偽造など、複数の容疑で警察に連行された。
誠司が彼女に会うことは、二度となかった。
――澪視点
その頃、私はノアとエリアスと共に、漁船でベルーガ湾の沖へ出ていた。
潜水服へ着替え、ノアと二人で海へ潜る。
群れをなす小魚が体の横を通り過ぎ、透明なクラゲがゆっくりと体を縮めていた。岩の隙間には、見たことのない色の珊瑚や貝が生息している。
海底で、大きなロブスターを見つけた。
ノアは素早く網をかけ、こちらを振り返って勝利の合図をした。
岩礁に沿って進むと、黒いウニがいくつも見えた。
ノアは私の手を取り、とげを避けながらウニを網袋へ入れる方法を教えてくれた。
その日は多くの獲物を持ち帰った。
夕方には海辺で焚き火を囲み、新鮮な魚介類と、地元で作られたラズベリー酒を味わった。
ノアは火のそばへ座り、ハーモニカを吹いた。
一曲を終えると、笑顔で私へ手を差し出した。
「澪」
「踊り方を教えるよ」
少し迷ったあと、私は彼の手へ自分の手を重ねた。
9
ルーネヴィクへ来て四か月目。
ノアと一緒に、近くの町へ生活用品を買いに行く約束をしていた。
朝、いつものように窓を開けた。
庭の外に、見覚えがあるのに、ひどく遠い存在に思える人影が立っていた。
誠司がこれほど憔悴している姿を見たのは初めてだった。
顔は青白く、目の周りが落ちくぼんでいる。両手で木の柵を強く握り締めていた。
私と目が合うと、二歩ほど前へ出た。
「澪」
「やっと見つけた」
誠司を見た瞬間、その日一日の気分を壊されたように感じた。
自分でも抑えられないほど、露骨な嫌悪が顔に出た。
誠司はその視線に焼かれたように、体を震わせた。
「水野美羽と佐伯が、俺を騙していたんだ」
「源一郎さんが亡くなったことを、本当に知らなかった」
「あれほどよくしてもらった人を、俺が本気で見捨てるはずがない。ただ、俺は……」
それ以上の説明はできなかった。
美羽と佐伯が何をしていたとしても、最後に判断したのは誠司自身だった。
「ごめん」
「澪、本当にすまなかった」
私は静かに彼を見つめた。
「桐生誠司」
「おじいちゃんが、命を救った恩であなたを縛ったんじゃない」
「自分が裏切ったことを認めたくなくて、もう何も言い返せない人へ、すべての責任を押しつけたのよ」
誠司は激しく首を横に振り、柵の向こうから私へ手を伸ばした。
「全部、俺が悪かった」
「美羽と佐伯には、罪を償わせている」
「佐伯は逮捕されたし、美羽も捜査を受けている。彼女へ贈ったものも、全部取り戻した」
「澪、一緒に帰ってくれないか?」
「お前のいない生活には、もう耐えられない」
私は嫌悪を隠さず、数歩後ろへ下がった。
「水野美羽があなたを騙したことは、彼女が卑劣だったというだけ」
「何度も彼女を選び、私の言葉を信じなかったことは、あなたが私を尊重していなかった証拠よ」
「おじいちゃんが亡くなる直前の電話を切った時、私たちはもう終わっていた」
「違う」
誠司は目を赤くした。
「俺はお前を愛している」
「美羽に騙されていただけだ。本当に結婚したかった相手は、ずっと澪だった」
「もう一度、婚姻届を用意する。今度こそ正式に入籍しよう」
私はその言葉が、ひどく滑稽に思えた。
「それほど水野美羽が好きだったのなら、一生二人で一緒にいればいい」
「もう二度と、ほかの人を巻き込まないで」
誠司が木の柵を乗り越えようとした。
その瞬間、横から伸びてきた手が彼の襟元をつかみ、地面へ引き下ろした。
ノアが私の前へ立った。
まるで、私を守る壁のようだった。
「澪、この人に困らされているの?」
誠司は顔を上げ、ノアを睨みつけた。
「この男は誰だ?」
「澪は俺の婚約者だ。俺たちはもう結婚している!」
私は冷たく言い返した。
「忘れたの?」
「あなたが私に渡した婚姻届受理証明書は、偽物だった」
「法律上、私は一度もあなたと入籍していない」
「私は独身よ」
「誰と交際しても、あなたに口を出す権利はない」
ノアは日本語を少ししか理解できなかったが、誠司の態度から状況を察していた。
彼は扉の前に立ち、少しぎこちない日本語で告げた。
「あなたが誰でも関係ありません」
「澪を困らせないでください。帰ってください」
その日、誠司は現地の警察に連れていかれた。
しかし、その後も私の自宅や仕事場、ベルーガ湾の近くへ姿を現した。
一度目の通報では、警察から口頭で警告を受けた。
二度目には、接触をやめるよう書面で命じられた。
三度目、誠司は庭の柵を越え、強引に家へ入ろうとした。
私はノルディアの裁判所へ、暫定的な接近禁止命令を申請した。
それでも誠司はルーネヴィクを離れなかった。
最終的に入国管理局は、接近禁止命令への違反と住民の安全を脅かしたことを理由に、彼の滞在資格を取り消した。
誠司は強制的に送還され、その後五年間、ノルディア共和国への入国を禁止された。
蒼汐県へ戻ってからも、誠司は諦めなかった。
国際郵便で、何度も手紙や贈り物を送ってきた。
私は一つ残らず、未開封のまま受け取りを拒否した。
半年ほど経った頃、ようやく何も送られてこなくなった。
10
それからの生活は、少しずつ穏やかになっていった。
ノルディアの旅行雑誌へ、海や渡り鳥の写真を提供するようになった。商業施設や企業から撮影依頼を受けることも増えた。
ノアは私へ気持ちを伝えてくれたが、返事を急かすことはなかった。
私が悪夢を見る夜には、部屋へ入ってこようとせず、明かりがつくまで扉の外へ座っていた。
過去を話したくない時は、何も尋ねなかった。
ある日、私たちはベルーガ湾で日の出を待っていた。
ノアは温かい飲み物を手渡し、静かに言った。
「君が今すぐ僕を好きになる必要はない」
「ただ、明日も船へ乗る時、僕の隣に座ってくれたら嬉しい」
私は温かなカップを両手で持ち、少しずつ明るくなる海を見つめた。
「うん」
さらに一年が過ぎた頃、蒼汐県から一人の弁護士がルーネヴィクを訪ねてきた。
「高瀬澪様ですね。桐生誠司様の遺言執行者を務めております」
「桐生様は一週間前、肝不全によって亡くなられました」
誠司は以前から、重度の肝線維症を指摘されていた。
私は交際していた頃、酒を控え、定期検査へ行くよう何度も言い聞かせていた。
私がいなくなったあと、誠司は酒に溺れ、ほとんど眠れない生活を続けた。正式な治療も拒み、症状は末期の肝疾患へ進行したという。
弁護士は遺言書と一通の手紙を、テーブルへ置いた。
「桐生様は、個人名義の財産の大半を高瀬様へ遺贈すると記されています」
「財産の一部は、高瀬源一郎様が過去に提供した支援金と、高瀬様が会社の創業へ貢献したことによって得られたものだと、お考えだったようです」
「こちらの手紙にも、目を通してほしいとのことでした」
私は封を開いた。
誠司は祖父へ謝罪し、美羽に騙されていたこととは関係なく、私を裏切り、傷つけた責任は自分にあると認めていた。
もう、許してほしいとは書いていなかった。
最後に、短い言葉だけが残されていた。
「澪、ごめん」
「いつまでも俺を待ってくれると思っていた人を、俺は自分の手で失った」
「次の人生では、もうお前の前に現れない」
私は遺贈を受ける書類へ署名した。
ただし、その財産をすべて自分のために使うつもりはなかった。
祖父の名前を冠した基金を設立し、火災の被害者や、医療費を払えない一人暮らしの高齢者を支援することにした。
弁護士が帰ったあと、一人で窓のそばへ座った。
想像していたような解放感はなく、深い悲しみもなかった。
十八年間、一緒に過ごした時間まで嘘だったわけではない。
ただ、祖父が亡くなり、遺骨ブレスレットが海へ消えたあの日に、二人の関係はすでに終わっていた。
11
窓辺へ座り続ける私を見て、ノアが大きなタラを持って入ってきた。
「澪、魚のスープを作るよ」
ノアは慣れた手つきで鱗を取り、腹を開いた。
途中で、突然手を止めた。
「澪」
「この魚の胃の中に、変な物が入っている」
私は興味を引かれ、彼のそばへ歩いた。
ノアは道具を使い、古い釣り糸と海藻が絡みついた金属の塊を取り出した。
表面の汚れを洗い落とすと、途中で切れた細いチェーンが現れた。
透明な遺骨カプセルは壊れていなかった。
隣に取りつけられた青白いダイヤモンドが、窓から差し込む光を受け、かすかに輝いた。
私は動けなくなった。
それは、誠司が蒼岬の崖から海へ投げ捨てた遺骨ブレスレットだった。
ルーネヴィクの年老いた漁師たちは、蒼環海流が遠い南の海から北へ流れ、この漁場へさまざまな漂流物を運んでくると話していた。
それでも、海へ沈んだはずのブレスレットが、一年以上経って、海の反対側で捕れたタラの胃から見つかった理由を説明できる人はいない。
再び起こることのない、偶然だったのかもしれない。
祖父が蒼環海を越え、私のもとへ帰ってきてくれたのかもしれない。
突然、涙があふれた。
ブレスレットを強く握り、震えを止められなかった。
ノアは慌てて私の涙を拭い、壊れ物へ触れるように、そっと抱き締めてくれた。
「澪、泣かないで」
「何があっても、僕がそばにいる」
彼の胸元へ寄りかかり、遺骨カプセルを指先で優しく撫でた。
幼い頃、祖父と蒼岬の海岸を歩いた日のことを思い出した。
「海は、とても大きく見えるだろう」
「でも、すべての海は、どこかでつながっているんだ」
私は涙を拭き、ようやく笑うことができた。
「うん」




