ハートフル・ダウトフル 『堕天』
新月の闇夜。
ろうそくが灯る教会の下に、ひとつの人影があった。
それは小綺麗な格好の青年だった。
青年は、きょろきょろと周囲を見回しながら、足音を忍ばせて教会へと入っていく。
足の向かう先は懺悔室であった。
コンコン。ノックの音を立てる。
「こんばんは。どうぞ」
部屋の中で女性が、コーヒーを嗜みながら答えた。
美しい金髪に、深い碧眼のまなざし。
彼女はこの教会のシスターだった。
この世のものとは思えぬほどに、美しい容姿をしている。
彼女は毎日、懺悔室を開いては、この街の人々の懺悔を聞いているのだ。
──こうして夜遅くにこの懺悔室を訪ねるとは、よほど大きな悩みを抱えているに違いない。
得てして彼女のその読みは当たった。
「シ、シスターさん。こんばんは」
青年の声は、か細く震えている。
シスターは彼を刺激しないよう細心の注意を払いながら、優しく尋ねる。
「本日はどのような懺悔でしょうか。迷える子羊よ」
懺悔室の格子の向こう側から、深呼吸する音が聞こえた。彼はしばらく押し黙っていたが、やがて答えた。
「じつはっ、俺はっ、俺は……!」
「………」
「人殺しなんです」
シスターは、動揺の色を見せなかった。
同じような懺悔は前にも聞いたことがあったからだ。
ただ事務的に、淡々とした口調で言った。
「詳しく聞かせてください」
すると、青年は堰を切ったように語り出した。
「六年前。世界恐慌の頃の話です」
──1930年の冬、街は失業者で溢れかえり、誰もが寒さと飢えで苦しんでいた。
彼は思い出す。
雪の降る街、路上に布切れ一枚で暮らす浮浪者たち。
凍える寒さのなかで、息は白さを失っていく。
ふと傍を見ると、道端にいる一人の子供が、父親らしき男になにかねだっているのが見えた。
『パパ、おなかすいた』
すると子供の父親は答えた。
『そうか……これをお食べ。俺のパンだ』
『いいの!?』
『……いいとも』
青年はその光景を見ないようにして歩いた。
父親と思しき男のうなじを、ドブネズミが齧っているのを見たからだ。
もはや振り払う気力も残っていないのだろう。
「……っ」
地獄だ。ここはこの世の地獄。
青年は虚な目をして歩いていた。
ふと、遠くから騒ぎ声が聞こえてきた。
「あ」
見ると、酒場があった。
黒く暗い雪があたりを埋め尽くすなかで、その場所は、天国のように明るかった。
青年は、シスターに懺悔する。
「僕は普段おとなしいぶん、酔うと気が荒くなる。だから日頃から酒を飲まないようにしていました」
「……しかし、あの日は寒さに耐えきれず、一杯だけならと。それが間違いだった」
彼は酒場の光に誘惑されて、中へと入っていった。
暗転。
視界が真っ暗になった。
キーンと、耳鳴りが頭の中でゆっくり響いていた。
何が起こったのだろう。
めまいがする。誰かが悲鳴をあげている。
ぼやける視界が定まったとき。
目の前には、首元をおさえて倒れている男がいて、青年の手に血まみれのアイスピックが握られていた。
「そのあとは五年ほど、刑務所で過ごしました」
手元にあるペンダントを開く。
中に納められていたのは、青年と、若い女性の姿だ。
「出所した頃には世の中も安定していて、婚約者もできました。来月結婚する予定です」
「………」
「ですが、僕が殺めた人にもきっと、同じような幸せがあったのでしょう」
ぽたり。
握りしめられた拳の上に、涙がこぼれ落ちた。
「シスター。僕は幸せになってもいいのでしょうか。こんな僕でも、幸せになっていいのでしょうか」
青年の独白を聴き終えたシスターの表情は、変わらない。ただ、瞳には慈悲が灯っている。
「迷える子羊よ。あなたは罪を忘れず、必死に向き合っています。きっと神様もお赦しくださるでしょう」
「シスター……」
教会に、ひとときの安寧が流れようとしていた。
──そのときだった。
ドシィン!!
地響きとともに、教会が大きく揺れる。
天井からはパラパラと瓦礫が落ちてきていた。
「なっ、なんだ!?」
驚いた青年が声をあげる。
シスターはコーヒーを溢すこともなく、上を見て呟いた。
「……少し見てきます」
「え!?は、はい」
ガチャリ。
懺悔室の扉が開かれた。
燭台が教会の内部を煌々と照らしている。
ふとシスターは気づいた。
屋根の上から、何者かの影が落ちている。
「ゲーッハッハッハッハッハッ!!!!」
凄まじい大音声の高笑い。
次の瞬間、ガラスを破壊して拳が突き出された。
「……悪魔か」
「ご名答!」
シスターが勘付いたのと同時に、悪魔は身を翻して教会の床に着地する。
大理石の床を揺るがす、鈍く重い音。
圧倒的な気配を有した悪魔は、笑みを浮かべた。
体格は大きく、筋骨隆々。
髪は夜よりも深い紺色で、目が赤色に光っている。
太く巨大な二本の角。
顔立ちは整っているけれど、話の通じなさそうな瞳をしているのが不気味だ。
「……悪魔が何の用だ」
シスターは、身構えている。
背後では、いつのまにか青年が懺悔室から出てきてしまっていた。彼は目の前の様子が信じられないのか、呆気に取られている。
「これはシツレイ。名乗ろう」
悪魔はその粗野な見た目とは程遠いほど美しい所作でお辞儀をして、言った。
「吾輩の名前はラプラス。用はたったひとつ。その男を渡してもらいたいのだ。ただそれだけだ」
「彼をどうするつもりだ?」
「食い殺す。悪人だからな。今のうちに殺した方が、吾輩のためヒトのため、ウィンウィンな関係というものだ!ゲハハ!」
悪魔には、人間を常食とするものがいる。
なかでもとりわけこの悪魔は、罪人を好んで喰らう偏食家のようであった。
高笑いする彼を、シスターは睨みつける。
「ダメだ。この人は更生しようとしている。お前には渡せない」
すると、悪魔はゲハッ、と笑った。
「更生?ゲハハ……おめでたい頭だな。貴様、その男が本当に悔い改めたとでも?」
「何が言いたい……?」
悪魔は赤い爪で青年を指さして、言った。
「吾輩には悪人の未来が見える」
「だからわかるのだが、そいつは五年後また、酒場の口論で人を殺し死刑になる」
「いつまで経っても悪人だ。今食べた方が良いからさっさと吾輩に渡せ」
しん、と場が静まり返った。
青年は言葉を失って、ただ立ちすくんでいる。
唐突に現れたにも関わらず、青年の過去を知っている悪魔の言葉には、真実味があった。
──ブラフか?しかし、これほど魔力の強い大悪魔が、わざわざ人に嘘をつくだろうか……。
シスターは、無言を貫いていた。
「し、シスター?俺は……俺は神に誓って、反省したんだ!!こんな悪魔の言うことを聞かないでくれ……!!」
青年の震えた声が、こだました。
何も喋らずに黙っているシスターのことを見て、いてもたってもいられなくなったのだろう。
彼女はその様子を横目に見ていたが、やがて、手を庇うように出して言い放った。
「それでも私はこの青年を信じる。お前には渡せない」
その言葉を聴いた悪魔は、少し落胆するようなそぶりをみせた。しかし、すぐに気を取り直して、笑った。
「ゲハハ、ならば貴様も死ぬか?」
あたりに立ち込める、濃い魔力のうねり。
悪魔が戦闘態勢に入ったのだ。
彼は続けて、言葉をつむぐ。
「……悪人は人間ではない。獣だ。己が獣性を拭えぬのなら、せめて糧となり生きるがいい」
「下がってください。奴は悪魔です。
──これより、悪魔祓いを始めます」
戦いの火蓋が切って落とされた。
* * *
「ゲハハッ!」
先手をかけたのは悪魔だった。
彼の膂力は、二十メートル離れた距離からでも、瞬く間に獲物に飛びかかることを可能にする。
目的は、ただひとつ。
青年の命。それだけであった。
しかし、あらゆるものの命を奪ってきたこの必殺の一撃は、瞬く間に拒まれることとなった。
「剣の奇跡」
そう呟いたシスターの背後から、突如として一振りの剣が現れる。
金属音。風圧。
剣は悪魔の致命的な爪による一撃を、ものともせず防いだ。
悪魔の笑みが、一瞬にして消える。
彼は侮っていたのだ。
聖職者とはいえ所詮は女だと。それに、自分の目的は悪人を食らうこと。清き命を奪う必要はない。
その認識は、一気に覆される。
「はあッ!」
風を真っ二つに分つほどのスピードで振り抜かれる剣が、思いきり空を斬った。
「……!!」
見開かれる瞳。
悪魔の首筋から、血が流れている。
「……吾輩の拳を見切るほどの身体強化!ゲハハァ、貴様只者ではないな。殺す前に覚えておきたい!名乗れ強者よ!」
「悪魔に名乗る名などない」
「貴様、吾輩を侮辱するか!」
剣戟。
凄まじい速度でぶつけられる爪と剣。
火花が舞い散っている。
「な、何が起こってるんだ……!」
青年は冷や汗を流しながらその光景を見ていた。
聖職者が、時折悪魔に対抗しうる力を身につけるとは聞いたことがある。
当時は眉唾だった。
だが今こうして繰り広げられているのだ。
──チッ。こいつのような善人は、未来が見えなくて戦いづらい。
悪魔が壁を蹴った衝撃で、燭台の火が消える。
力任せの立体的機動こそ彼の強みなのだ。
しかし、シスターの戦略はシンプルだ。
襲ってきたところにカウンターを入れるだけ。
あとは青年のそばを片時も離れずに護ればいい。
徐々に悪魔が削られていくのは明白であった。
「……ゲハッ、ゲハッ。き、貴様、面白くないぞ!せっかくの強者がこんなつまらん戦いをするな!」
「戦いは勝つことが全てだ。わかったなら失せるがいい」
ぼたぼたと、血が滴り落ちる。
悪魔の体に一体幾たびの剣閃が走っただろうか。
このままでは勝負は見えている。
悪魔は、チラリと壁を一瞥した。
「いいだろう!小競り合いはもう沢山だ。速さ勝負といこうじゃないか。吾輩の速度に反応できなければ、貴様の負けだ!」
悪魔の脚部に、力みが走る。
瞬間、爆発するかのようなエネルギーで教会が揺れた。
「……!これは」
縦横無尽。
まさしくそういえるほどに、黒い塊が跳びまわる。
壁。天井。床、かと思えば天井。
目にも止まらぬ速さ。
刹那にも満たぬ時間の中で、悪魔は加速していく。
「み、みえない!シスター!助けて……!」
いつ、どこから狙われるかわからない恐怖に、青年は腰砕けになって倒れている。
シスターはその透きとおった瞳で、悪魔の姿を追っている。
──剣を投げる……のは無理だ。速すぎる。
実際、この速度に達した悪魔を正確に撃墜することは彼女には不可能だった。
けれど、迎撃するだけならまだ余裕がある。
速さ勝負。
悪魔はそう言った。
速さ、勝負と。
「………違う」
「え?」
「伏せてください!」
突如、悪魔が空で大きく身を捩った。
その足蹴りは、最後の燭台を破壊した。
完全な暗闇が教会を包み込む。
悪魔は闇の生き物。ゆえに夜目が利く。
速さ勝負とは、はじめからこの暗闇を狙ったブラフだったのだ。
「──ッ!」
「ゲハッ、反応が遅れたな!」
悪魔の爪が、シスターの体を大きく引き裂いた。
滲み出る血。
勝利を確信した悪魔は嗤う。
──そして、ダメ押しだ!この女の未来が見えずとも、あの罪人の目を通せば動きを先読みできる。
「殺人幇助の罪で貴様も死ぬのだ!」
未来を見る力。
そこに悪魔の身体能力があれば、それは無敵に近い。
いくら白魔術で身体を強化しようとも、動きを完璧に読まれていては、太刀打ちのしようがなかった。
右、左、上段。
全ての攻撃が回避され、逆に防戦を強いられていく。
「ゲハハ!どうしたァ!?もうお終いなのかァ!?」
「くっ……ぐあっ!」
悪魔の鋭い貫手がシスターの柔らかな肌を抉る。
剣による抵抗も虚しく、どんどん壁際に追い詰められる。
「ゲッハァ!」
悪魔による渾身の右ストレートが、シスターの腹に思いきり入った。
破砕音。
彼女は円を描いて勢いよく吹っ飛ばされていく。
壁を破壊して、めり込んだ。
頭からは血が溢れ出している。
そして、動かなくなった。
「ゲハハ!アルバトロスだ!これは死んだだろ!」
確実に肋骨を折った感触があった。
今頃は肺と心臓がぐちゃぐちゃになって死んでいるだろう。
悪魔は勝利のガッツポーズをして、青年の方に向き直る。メインディッシュの時間だ。
「さて、運動もすんだしそろそろ……」
「ひいっ」
「待て」
「……は?」
ぼろぼろと、崩れ落ちる瓦礫。
頭から大量に出血をし、金色の髪を赤く染めたシスターが立ち上がる。
その瞳はいつもの碧眼ではなく、真っ白に輝いていた。
悪魔は動揺を隠せずにいる。
確実に殺したと思っていたのに。
「は?貴様、なぜ生きてる。いくら白魔術でも、人間なら死んでないとおかしいはずだぞ」
シスターは悪魔の動揺を意に介すことなく、自分の服についた埃を払った。
「……人間ならな。クソッ、今夜の戦闘は想定外だった。始末書ものだが仕方がない。お前は私の監査に邪魔だ。排除する」
金色の髪は次第に白く染まっていき、頭上には光輪が浮かんでいる。彼女は言葉を続けた。
「今からお前を殺す。未来は見なくていい。どうせもう、お前には来ない」
その瞬間、暗闇が一面の真っ白な闇にかわるほどの凄まじい光がほとばしった。
「十字架の下に散れ」
彼女が手をかざすと同時に。
悪魔の体は、一瞬にして消し炭となって──
「ハッ!!」
悪魔は未来予知の能力から我に帰り、飛び退いた。
目の前には、金色の髪のシスターがいる。
「……どうした!?」
──今のは、吾輩が死ぬ未来……。
悪魔は眼前の女が何者かを悟った。
以前、仲間の悪魔から忠告されたことがあった。
天界から密偵として、大天使がひとり降りてきている、と。
曰く、その天使はかつての大戦の英雄であり、壊滅的な威力の白魔術ですべてを灼き払ったという。
その天使の名前とは。
「明けの明星……!」
そうつぶやいた悪魔の額に冷や汗が流れる。
こいつだ、この天使が。
ずり、ずりと後ずさる。
やめだ。これ以上戦っても無駄死にするだけだ。
「……ゲハハ!よそう、天使よ。運動は食後と決まっているのだ。吾輩はまだ食べていない。そしてターゲット変更だ。必ず貴様を喰ってやる……それまで待っていろ」
「アイルビーバーッック!!」
悪魔はそう言い残すと、サムズアップをしながら暗い闇の中へと消えていった。
「……行ったか」
シスターは、怯えている青年の方を見る。
彼の目には微かに悪魔の魔力が残っていた。
──なるほど、彼を通し私の正体を知って逃げたのだな。とすると、悪魔の言う未来は絶対ではない……よかった。
安堵して胸を撫でおろす。
未来が絶対ではないなら、青年が殺人を犯すと決まったわけではないのだ。
彼は変わらず腰を抜かしているままだ。
「なんで、なんで俺を信じてくれた。あいつは、悪魔はああ言ってたじゃないか」
シスターは、その美しい白指を差し伸べて微笑んだ。
「……悪魔が先か、罪が先かは彼自身にもわからないはずです。未来はあなたが選べるかもしれない」
「私はそうであって欲しいと考えた」
「ありがとう…信じてくれてありがとう…」
教会での戦いは、こうして幕を引くこととなった。
* * *
青年を見送った天使は、書斎に戻り、ため息をついた。机の下の貧乏ゆすりはどんどん激しくなっていくばかりだ。
コツコツ、と指が机を叩いている。
少ししてある事実に気づいた彼女は、裏切られた気分になっていたのだ。
「……しかし腹立たしい。懺悔の後に悪魔が来たということは、懺悔した時点ではあの人間の未来は変わっていなかったということではないのか?」
すなわち、あの懺悔の意味はなかったのである。
結果として、悪魔が青年を更生させるきっかけになってしまった。
彼女の髪が、金色から白へと塗りつぶされていく。
頭上では光輪が美しく煌めきを放つ。
明星の輝きに包まれながら、背には二対の白い大翼が現れた。羽根が舞い落ちる中で、足を組み椅子に座すその姿は、まさに大天使の威容である。
虚空より取りだされた剣は、一切の錆びなく光っている。
「ああ……なぜだ、神よ。私の剣はこんなことのために磨かれたのではないというのに……」
彼女はそういうと、悔しそうに唇を噛んだ。
理解できない。
なぜ神は救えぬ人間たちに赦しを与えるのか。
「……」
彼女はジトっとした目でコーヒーを煽ると、おもむろに黒電話に手を伸ばした。
ジリリン。ジリリン。
それは天球に生きる者のみが知る、秘密の音色。
天界へと繋がる番号である。
彼女の声は、雪のように汚れなく響く。
「本部連絡。こちら大天使ルシファー」
「人間は愚昧で、信じるに値しません。よって衷心よりご再考いただきたく存じます」
俯きがちの目は、どこまでも無垢で、危うげな純白を秘めている。
「………人類救済計画について」
ガチャリ。
外ではドブネズミが、何かの肉を咥えて走り去った。
-END-
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もし好評でしたら、この読切の本編である『ハートフル・ダウトフル』の製作にとりかかります!
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