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犬山さんシリーズ

怪異なのか、夢なのか。

作者: 笹木あるま
掲載日:2026/06/17

 私は、ごく普通のサラリーマンだ。名は犬山武史。中肉中背、細い銀のフレームの眼鏡をかけ、毎日スーツを着て出社している。


 私が他の人と違うところは、頭部が犬であることだ。正確に言うと、ビーグル犬。


 だが私は、犬ではない。かといって人間でもない。そう、強いて言うなら「人外」。去年の年末に人間ドックを受けた時、問診をした医師にそう言われた。


 学生時代は「犬頭」などといじめられたりもしたが、今は「人外」として誇りを持って生きている。


  *  *  *


 職場の歓送迎会からの帰り道。私は酔い覚ましのため、自宅アパート近くの小さな公園へ立ち寄った。そろそろ桜も終わりを迎え、まだ春の名残の白い花びらがちらほらと枝葉の間に垣間見えるものの、ほとんどは落ちてしまっている。花見の季節もとうに過ぎ、夜の公園には当たり前のように誰もいない。


(うーん……結構、飲んだなぁ)


 自動販売機でペットボトルの水を買い、どさりとベンチに座り込んだ。座った衝撃で、犬頭の中身が不安定に揺れて回る。ぎりぎり気持ち悪いところまでいかないので、セーフ。


 今日の会場は課長のおすすめの焼き鳥屋だったのだが、「焼き鳥屋」という響きよりは少し高級な店構えで、焼き鳥もさることながら日本酒の品ぞろえが素晴らしかった。最初の一杯だけはビールをいただいたが、その後は日本酒に次ぐ日本酒。


 枡の中にグラスを入れ、グラスの縁から枡へ酒を溢れさせる「もっきり」というスタイルで提供される酒を、私は初めて飲んだ。ご機嫌な課長から飲み方をレクチャーされ、日本酒のうんちくを聞かされ、気が付くと普段の自分のリミットよりもかなり超えた酒量に達していた。


 ネクタイを少し緩め、ペットボトルを開けて水を飲む。

 そういえば、今年異動でうちに来た新採くんは、今日の飲み会中ずっと、私が飲み食いするのを奇異なものでも見るような目で眺めていた。いや実際、奇異以外の何者でもないのだろう。気持ちも分かるが、早めに慣れてもらえるとありがたい。


 今日は良く晴れて四月の割には暖かく、日中は汗ばむくらいの陽気だったが、さすがにこの時間になると少し肌寒かった。だが、酔って火照った身体と頭には、これくらいがちょうどいい。ちびちびと水を飲みながら、ぼんやりと紺色の夜空を見上げた。ジャングルジムの上に、白い三日月が光っている。

 

――――こんな夜には何か出そうだな、と一瞬思ったのがいけなかったのかもしれない。

 

 がさがさ、という音がブランコの後ろの植え込み辺りから聞こえた。あれ、誰かいるのかな?とそちらの方へ首を巡らせると、再びがさがさと音がして、ゆらりと黒い影のようなものが四つ足の姿を現した。


 一瞬、酔っていたせいもあって、本当にただ真っ黒な影に見えた。涼しい夜風が耳元をよぎり、私の目を覚ます。


「なんだ、ずいぶんけったいなヤツがいるな。俺の縄張りで、何してやがる」


 ゆらゆらとした足取りで進んできたその四つ足の生き物は、私の目の前まで来て、そう言った。……黒い、犬だった。


 酔って、幻聴が聞こえたかと思った。だが、現実に黒い犬は目の前に存在し、そして睨むように光る眼で私を見ている。

 野良犬だろうか。骨格は立派だが、痩せて貧相で、だが威厳だけは感じられる犬だった。


「聞こえないのか。大体なんだ、その姿は。人間なのか、犬なのか」

「あ……いえ、私はその、どちらでもなくて。あえて言うなら『人外』です」


 思わず、普通に答えてしまった。しかも敬語だ。犬に対して。


「人外だと。化け物の間違いだろう」


 犬は馬鹿にしたように(ニュアンスで何となく分かる)そう言い捨て、更に数歩、私に近付いた。月明かりと街灯に照らされ、彼(?)の姿が少しだけはっきりとした。


 いわゆる『雑種』と言われる犬だろうが、垂れ耳で、頭部はどことなく私に似ている。声が聞こえるたびに彼の口元が動き、長い舌が見え隠れした。前足のどこかをケガしているのだろうか、軽く引きずるような歩き方をして、動きがゆらゆら見えるのはおそらくそれが原因だ。


 だが、それが分かったところで、私の頭の中は「???」だった。これが酔った私の幻覚でないならば……私は今、犬と喋っていることになる。


「あの、聞いてもいいですか。……なぜ話せるんですか?」


 私のもっともな質問に、その黒い犬はわざとらしく首を傾げた。


「なぜ喋れるのかって?おまえだって喋ってるだろう。世間的には俺よりおまえの方が怪異じゃないのか?」

「そうかもしれないですが、でも少なくとも私は頭部以外は人間らしい姿をしていますよ。あなたは、普通に犬ですよね?私は、話している犬に遭ったことはないのですが」


 言葉を重ねながら、自分の酔いがどんどんひどくなっていくような感覚に陥るのを、止めることができなかった。悪夢を見ているようだ。だが、それに対して犬は「あぁ」と簡単に頷いた。


「それはそうだろう。基本的にはどんな犬でも人の言葉を話すことはできるが……『犬の掟』があるからな」

「え?『犬の掟』?」

「そうだ。分かりやすく言うと、『飼い犬は人と話してはいけない』というものだ。ま、いろいろとややこしいことになるからな。それに引き換え、俺のような野良犬は気楽なもんだ」


 そう言うと、いかにも気楽そうに私の前で欠伸をして見せた。


「なるほど、掟があるんですね」

 私は分かったように頷いてみせたが、その実、全く何も分からなかった。


 しかしそう言われてみれば、野良犬と言うものを見たのも随分と久しぶりだ。遠い昔、子どもの頃に一度だけ見かけた野良犬は、結構な大型犬だった。私は生まれた時から犬頭なので、それなりの親近感はあったものの、怖くて近付けなかった記憶がある。


「そう、だから犬には気を付けろよ。分かってなさそうな顔でしっぽ振りながら、人間どもの話を全部聞いてる。俺だって、今日は珍しいヤツがいるから声を掛けたが、普段は人間と喋ろうなんざ思わんからなぁ」


 そして黒い犬は「落ち着いたら早めに帰れよ。ここは俺の縄張りだからな」と告げ、既に私には興味を失ったように背を向けた。ゆらゆらとブランコの向こうに消えていく姿を、私はぼんやりと見送った。


 今起こったことは、現実なのか。喋る犬……でも「おまえの方が怪異だ」と言われた。確かにそれも一理ある。


 酔いの回った頭でとりとめのないことを考えながら、また夜空を見上げた。ジャングルジムの上には、先ほどと同じように、冴え冴えと三日月が光っていた。


  *  *  *


 飲み会の翌日は、土曜日で休みだった。滅多にないことだが、頭痛がして昼まで寝てしまった。情けないことだ。

 昼頃になって、ようやく活動を開始することができた。家に居てもだらだらして終わりそうなので、外へ出ることにした。


 晴れて気持ちのいい休日だった。ゆっくりと歩き、図書館へ向かう。


 私が時々利用する図書館は分館で、本館よりもやや蔵書数は少ないものの、思いがけない掘り出し物があったりする。敷地には緑も多く、館内は静かで広々として、何よりも人が多過ぎないところがいい。スタッフも利用者も、私を認識してくれている人が大半で、お互いにストレスなく時間を過ごすことができる。どんなにおとなしくしていてもどうしても目立ってしまう外見なので、初対面だらけの環境は苦手だ。


 そんなことを考えながら図書館内をぶらぶらしていると、ふいに後ろから小さな子どもの声が飛んできた。


「ママ、見てあの人!あたまが、いぬさんだよ!」


 振り返ると、幼稚園生くらいの男の子が目をまん丸にして私を見ている。男の子と手をつないだ母親の方も、子どもを注意することもできず、同じようなまん丸な目で私を見ている。なるほど、初めてお目にかかる親子だ。


 どうしようかと思ったが、男の子が戦隊ものの絵本を抱えているのを見て、とりあえず変身ポーズをカッコよく決めてみた。こういう時のためのネタで、正直、まったく受けない時もある。だが、幸いにも男の子はぱっと笑顔になり、同じようなポーズ(ただしこっちの方が本格的)を返してくれた。

 母親の方も、戸惑いつつもちょっと笑って、ぺこりとお辞儀をしてくれる。それにお辞儀を返しながら、私は内心で胸をなでおろした。


(良かった。これで泣かれることもあるからなぁ)


 男の子に手を振り、新着本コーナーへと足を向けた。

 たいていお目当てのものは貸出中だったりするのだが、今日は運よく、読みたいと思っていたミステリーが棚に並んでいた。「おっ」と迷わずそれを手に取り、ほかにも何かないかと目を走らせる。そして、その本に気付いた。


『保護犬をお迎えする前に知っておきたいこと』


 表紙にはかわいい犬のイラストが描かれていた。私はそれを手に取り、パラパラとめくってみた。中には「保護犬とは何か」ということに始まり、「どこで引き取ることができるのか」「保護犬を迎える際の心構え」などが細かく書かれている。


 私は一度それを棚に戻し、しばらくあちこち違う棚を見た後、また新着本コーナーに立ち寄った。そして、ちょっと悩んだ末、結局そのかわいい犬の表紙の本を持ってカウンターに向かい、ミステリーと一緒に貸出の手続きをしてもらった。


 借りてどうする、と思わないこともない。だが、昨日の夜に出会った黒い犬の姿が、脳裏から離れなかった。痩せた身体、ケガをした前足、「犬には気をつけろよ」と睨む眼。


(うーん……でも昨日は結構酔ってたからな。夢でも見たのかもしれないんだけど)


 アパートに帰り、ミステリーよりも先に保護犬の本を開いた。読みながらも、自分の気持ちが右に左に大きく傾くのを感じた。


 そもそも自分はどうしたいのか。もし、また公園であの犬に会えたとして、何を言うつもりなのか。さらに言えば、このアパートはペット禁止だ。……なぜ犬頭の自分がすんなりと入居できたのかはよく分からないが。


 本には「犬との暮らしをイメージしてみる」という項目もあった。私もちょっとイメージしてみたが、犬頭が犬と散歩しているシュールな絵面しか浮かんでこない。うまく説明できないが、倫理的にアウトな気すらしてくる。


 野良犬は気楽だ、と彼は言っていた。犬の立場からすれば、それも真実だろう。だが、本の中にはまた、違う真実も書かれていた。


 ――――一年間の野良犬などの殺処分数、約二千七百頭。


 私はしばらくの間、じっとその数字を眺めた。そしてため息をつき、静かに本を閉じた。

 私には荷が重い。またあの犬に会えるのかも分からない。ただそれでも、何かできることはないのかと思ってしまう自分がいた。


  *  *  *


 それから私は、何度かアパートの近くの公園へと足を運んだ。だが、再び黒い犬と会うことはなかった。

 そしてしばらく経った、ある休日のこと。


 私は近くの駅前の広場で、スマホを眺めながら人を待っていた。今日はこれから、ある人と一緒にお昼を食べて映画を見る約束だ。楽しみで、少し早く着いてしまった。


 どうせまだ来ないだろうと思い、のんびりアプリゲームなど楽しんでいると、ふいに驚いたような声が前から降ってきた。


「えっ、あれっ!犬山じゃね?」


 えっ、と思って画面から顔を上げると、そこにいたのはどこか見覚えのある女子だった。金に近い長めの茶髪にしっかりメイク、服装はTシャツにジーンズと至ってカジュアルだが、セクシーさが感じられるスタイル。


「あ……えーと、塩埜(しおの)さん、だったよね?びっくりした、久しぶり」


 おぼろげな記憶の引き出しを短時間でいくつも開き、何とか正解らしきものにたどり着いた。確か、高校時代に同じクラスだった子だ。当時からギャルっぽい感じで、あまり雰囲気が変わっていない。


 そして私は、彼女の足元にいる生き物に気付いて、更に驚いた。


「うん、めっちゃ久しぶりー!え、犬山この辺りなんだっけ?ひょっとして誰かと待ち合わせ?」


 驚きのあまり、彼女の言葉にうまく反応することができなかった。


 ギャルの塩埜さんの足元には、黒い犬がいた。彼女の持つおしゃれな水色のリードに繋がれ、じっと私を見ている。私も思わず、犬を見つめ返した。


 気のせい、かもしれない。でも歓送迎会の夜に公園で出会って話をした、あの黒い犬に見える。彼は静かな表情で、塩埜さんを守るようにまっすぐ佇んでいた。


「どした?ウチの犬、なんか気になる?」

 塩埜さんの声に、はっと我に返った。


「あ、いや何でもないんだけど。この犬、いつから飼ってるの?」


 私が取ってつけたように尋ねると、彼女はふにゃっとした顔になって嬉しそうに笑った。


「最近だよ。ちょっと前に保護犬の譲渡会があってねー、アタシは友だちの付き添いだったんだけど、この子見つけて、運命の出会い感じちゃってさ。思い切って引き取ったんだ。それからはもう、ずーっといっしょ」


 ねー、という塩埜さんの言葉に応えるように、犬はゆらりとしっぽを振った。私は驚きの気持ちを引きずりつつも、どこか納得したように「そうなんだ」と頷いた。


 黒い犬。君はもう、私と話をしてくれないのか。そうだ、『犬の掟』があると言っていた。飼い犬は、人と話をすることができない。

 気持ちを切り替え、私は塩埜さんへ笑顔を向けた。


「いい犬だね。名前、なんていうの」

「この子?えへへ、タケシっていうんだ。ごめん、だってちょっと犬山思い出しちゃってさ」

「えー?いや、それは別にいいけど……」


 二人でそんな話をしていると、背後に誰か立つ気配がした。


「武史さん、お待たせ」


 慌てて振り返ると、そこには私のよく知る人がいた。大きな丸い目と、ふわりと広がる茶色の髪は、愛らしいポメラニアンを思わせる。

 今日の服装はレトロな感じのミニのワンピースだが、それに合わせてスヌーピーの腕時計とペンダント、ウッドストックのイヤリングを付けている。かわいい、そして芸が細かい。


 彼女はちょっと首を傾げ、私と塩埜さんをかわるがわる見比べた。


「あ、佐伯さん。えーとこちらは塩埜さんで、私の高校時代の同級生」


 微妙に声を上ずらせる私を面白そうに一瞥し、塩埜さんは「よろしく」と言って、興味津々に佐伯さんの方を見た。


 これは……かなり居心地が悪いが、仕方がない。私は覚悟を決め、塩埜さんに向かって、佐伯さんを軽く手で示しながら言葉を繋げた。


「塩埜さん、こちらは私と同じ職場の……その、少し前からお付き合いさせていただいてる、佐伯さん」

「えっ、マジ?犬山の、彼女?かっわいいー、めちゃかわいい、やるじゃん犬山―!!」


 塩埜さんは私の予想通りにひとしきり大騒ぎした後、


「そんじゃアタシはここで!デート楽しんでね、お二人さん。行くよ、タケシ!」


 そう言って、黒い犬を連れてその場を後にした。犬は最後に私の方へチラリと目を向けたが、すぐに視線を反らし、すたすたと塩埜さんの前に立って歩いて行った。


 もう、あのゆらゆらした足取りではない。前足のケガは治ったのか。保護した団体か、もしくは塩埜さんに、動物病院へ連れて行ってもらったのだろうか。そういえば、以前見た時より毛並みも良さそうだったし、肉付きも悪くなかった。


 感傷的に見送る私だったが、ふと、隣りから少し棘のある視線を感じた。


「な、なに?」

「別に。仲良さそうだったね、塩埜さん。……元カノ?」

「そ、そんなんじゃないよ!ただの同級生だって!」

「ふーん?」


 目の端に、遠ざかる黒い犬のしっぽが、ゆらりと揺れるのが映った。隣りに立つご主人を守るように堂々と歩く後ろ姿は、どことなく誇らしげに見えた。

 野良犬としての気楽さを捨てても、彼は幸せなのだろうか。


 黒い犬。私は今、幸せだ。勝手な願いではあるけれど、できれば君も、幸せであって欲しい。


「まぁ、それはともかく。ねぇ、前も言ったけど、何か約束があったと思うんだけど。忘れちゃった?」


 佐伯さんはそんな私の前に立つと、顔を覗き込むようにした。


「会社の外では、佐伯さんって呼ばない約束だったでしょ?」


 ふくれっ面の彼女のアップに、私は思わず息を呑んだ。かわいい。それは反則なのでは。

 いや、ちょっと恥ずかしいだけで、別に忘れたわけではないのだが。


「り……里帆、さん」


 何とか名前を口にした私に向かって、佐伯さん……里帆さんは嬉しそうに、少しくすぐったそうに笑い、私の手を取った。


「行こ。映画、始まっちゃう」


 柔らかな手に、大きく胸が高鳴った。

 遠くで犬の鳴く声が聞こえた。それはまるで幸せな笑い声のように、私の耳の中に響いた。


                  end

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