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第16巻:如月令嬢は『蒸気の密室を誤認しない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ『不純物』

 月見坂市から南へおよそ百五十キロメートル。

 海風が吹き込む穏やかな沿岸部と、急峻な山脈が切り立つ盆地の境界線上に、咲浜市(さきはまし)は存在している。

 瑠璃たちが暮らす月見坂市が、高度な情報ネットワークと徹底されたインフラ管理、そして電子的な監視網によって統率された『無機質で洗練されたスマートシティ』であるならば、ここ咲浜市は、都市開発のベクトルを意図的に過去へと振り切った、極めて特異な進化を遂げた街であった。

 街の総面積の大部分を占めるテーマミュージアム区画。その入り口を示す巨大な鉄格子の門をくぐり抜けた瞬間、訪問者の視界を覆い尽くすのは、白く濃密な『蒸気』である。

 足元に敷き詰められた黒みがかった石畳の隙間から、あるいは建物の壁面に沿って這う真鍮色の太いパイプラインの継ぎ目から、シューッ、という甲高い破裂音と共に、高温の白い吐息が絶え間なく漏れ出している。


 和洋折衷を極めた大正ロマンの意匠と、過剰なまでに誇張された歯車駆動機構――いわゆるスチームパンクの世界観が、この街のすべての建築物、インフラ、そして生活空間にまで徹底して施されていた。

 赤煉瓦で精巧に造られた重厚な洋館の隣には、ステンドグラスがはめ込まれたレトロな純喫茶が軒を連ねている。見上げれば、重く垂れ込めた鉛色の曇天を背景に、巨大なガス袋を備えた葉巻型の飛行船が、プロペラの低周波音を響かせながらゆっくりと回遊していた。街の交通網を担うのは、電気モーターや内燃機関ではない。石炭の燃焼と高圧蒸気を動力源とする、黒々と光る巨大な蒸気機関車であり、あるいは、無数の歯車が車体外部に剥き出しになったまま駆動する、奇妙な乗合自動車であった。

 電子音は一切存在しない。あるのは、金属が擦れ合う硬質な音、蒸気が噴き出す音、そして人々の喧騒のみ。過去の郷愁と、実現しなかった未来の空想が入り混じったような、むせ返るほどの情緒と、鼻腔を突く鉄と油と石炭の匂い。

 それが、如月学園一年生が校外学習のフィールドワークとして訪れた、咲浜市ミュージアム街の全貌であった。


「うわっ、すごい! 本当に映画のセットの中に迷い込んだみたいだ!」


「見てよあのカフェ! 店員さんもメイド服じゃなくて、フリルのついたエプロンに矢絣の着物着てるよ!」


「写真、写真撮ろ! あ、でもスマホ出すとなんか雰囲気崩れちゃうかな……」


「早く私たちも着替えようよ。予約してる衣装館、こっちのガス燈の通りだって!」


 巨大な蒸気時計が設置された石畳の広場に降り立った生徒たちは、圧倒的な非日常の光景に目を輝かせ、興奮を隠しきれない様子ではしゃいだ声を上げていた。

 今回の校外学習の目的は、『咲浜市の特殊な都市設計と、歴史的意匠が地域経済や観光産業に与える影響の考察』である。そのため、生徒たちは単に街を外側から観察して歩くだけでなく、指定された衣装館で時代設定に合わせた衣服を借り、自らその空間の構成要素の一部として『没入』することが学校側から強く推奨されていた。

 一年生を引率する担当教員の一人、二十代前半の理科教師であるり、瑠璃やサクタロウの担任である明宮(あけみや)海斗(かいと)もまた、生徒たちに負けず劣らずの眩しい笑顔を浮かべていた。俳優と見紛うほどの整った顔立ちに、誰に対しても分け隔てのない爽やかな笑みを絶やさない彼は、赴任して間もない新米教師でありながら、特に女子生徒からの人気が極めて高い。彼自身もまた、この日のために用意されたであろう、仕立ての良い漆黒のインバネスコートを羽織り、頭にはソフト帽を被って、この大正ロマンの街並みにすっかり溶け込んでいた。


「みんな、あまり広がりすぎないように! はぐれたら探すのが大変だからね。まずはクラスごとに衣装館で着替えて、そのあとは班行動の自由時間とする。十四時には、あそこに見える一番大きな時計塔の前、中央広場に再集合すること。いいかい? 時計塔の鐘が鳴る前には戻ってくるように!」


 明宮のよく通る張りのある声に、生徒たちは「はーい!」と元気よく返事をした。


 そして、一時間が経過した。

 着替えを終えた生徒たちが、和洋折衷の思い思いの衣装に身を包み、続々と中央広場に集まってくる。フリルをあしらった和装の少女たち、書生絣に身を包んだ少年たち。彼らが互いの姿を褒め合い、あちこちで歓声が上がっている中、広場の一角で、ひときわ静かな、それでいて圧倒的な熱を帯びた感嘆の溜息が、周囲の群衆から漏れ始めた。

 まるで、その場だけ空気が張り詰め、時間の流れが遅くなったかのような錯覚。周囲のざわめきが波が引くように静まり返り、何十人もの視線が、ただ一箇所へと吸い寄せられていく。

 視線の中心に立っているのは、一人の少女であった。


 如月(きさらぎ)瑠璃(るり)

 月見坂市の経済とインフラを裏から牛耳る如月コンツェルンの社長令嬢にして、他者の追随を絶対に許さない、孤高の天才鑑定士。

 普段は漆黒のゴシックドレスや、隙のない端正な制服を好んで着用する彼女だが、今日この日に彼女が纏ったのは、咲浜市の情景をそのまま切り取って極上の絹で仕立て直したかのような、完璧にして圧倒的な大正浪漫の装いであった。

 彼女の象徴とも言える、光を吸い込むような艶やかな黒髪のロングストレートヘアはそのままに、身を包むのは、彼女の深いアメジストの瞳によく似合う、濃い紫を基調とした矢絣(やがすり)模様の着物である。上質な正絹で作られたその着物は、歩くたびに微かな光沢を放ち、一切のシワを許さない。

 その上からは、落ち着いた、しかしどこか血の赤を思わせる海老茶色(えびちゃいろ)の袴が、細身で長身な彼女の足のラインにしなやかに沿うように穿かれていた。プリーツの一本一本が刃物のように鋭く折り目がついており、凛とした立ち姿をより一層際立たせている。足元には、草履ではなく、艶やかに磨き上げられた黒い本革の編み上げレザーブーツ。かかとの適度な高さが、彼女の歩幅に優雅なリズムを与え、歩くたびに石畳を打つ硬質な音が、周囲の静寂に心地よく響く。

 そして、彼女のアイデンティティであり、モノのルーツを探る探求者の証とも言える『純白のレースの手袋』は、和装という枠組みの中にあっても全く違和感なく、むしろ高貴な洋の要素を取り入れたモボ・モガの最たる体現として、完璧に調和していた。胸元の帯の隙間からは、常に持ち歩いている銀の懐中時計の極太のチェーンが垂れ下がり、周囲のガス燈の光を鈍く反射して上品な光を放っている。

 黙ってそこに佇んでいるだけでも、すれ違う者の視線を釘付けにする可憐で整った容姿が、この特異な衣装と組み合わさることで、まるで大正時代の幻影がそのまま現代に顕現したかのような、ある種の恐ろしさすら覚えるほどの美しさを放っていた。


「……すごいな。如月さん、本当に、驚くほど似合っているよ」


 引率の明宮が、思わず教師としての立場を忘れたように呆然と呟く。

 周囲のクラスメイトたちも、「絵になりすぎる」「あのままファッション雑誌の表紙になれるでしょ」「もはや別次元の人みたいだ」と、男女問わず遠巻きに囁き合っている。

 しかし、当の瑠璃は、自身に向けられた惜しみない賞賛の言葉や、熱を帯びた好意的な視線など、全く意に介していなかった。彼女の興味の対象は、最初から『他人の評価』や『見え方』といった、人間が発するひどく流動的で無価値なノイズには存在しない。

 ただ、彼女の深い紫のアメジストの瞳は、いつもより微かに、ほんの僅かだけ輝きを増していた。それは自身の装いを褒められた承認欲求などという下等な感情からではなく、彼女が今、自身の肌で感じている『着物と袴』という衣服が持つ、物理的な機能美と、それが生み出された時代背景のルーツに対する純粋な敬意ゆえであった。


(ふむ。洋装のコルセットほどの強力な拘束力はないが、帯を強めに締めることによる腹圧の安定感は悪くない。背筋が自然と伸び、呼吸も深くなる。足元のブーツも、単なる西洋かぶれの装飾ではなく、足首の可動域を計算され、石畳や泥道から足を守るための極めて堅牢で実用的な作りじゃ。……なにより、この街に充満する蒸気機関が放つ煤煙や油汚れから身を守り、汚れを目立たせないために、このような紫や海老茶といった濃い色の生地が選ばれている点など、当時の人間の生活の知恵――モノのルーツとして非常に理にかなっておる。見た目の華やかさの裏にある、生きるための物理的必然。実に、美しい構造じゃ)


 瑠璃は、白く透き通るような指先で、袴の裾を優雅に軽く払いながら、街の景観を改めて見上げた。

 蒸気と歯車。非効率極まりない物理駆動。スマートシティの洗練されたデジタル制御とは対極にある、力任せでアナログな機構の数々。だが、そこには確かな『人間の手による熱量』が存在している。


「さて、と……。ノイズの群れから離れるとするかの」


 班行動の自由時間が告げられると同時、瑠璃は群れを成して写真を撮り合うクラスメイトたちから早々に離脱した。

 彼女の目的は、この街に散りばめられた『モノのルーツを探ること』のみである。観光地特有の浮かれた情動や、友人同士の他愛のない会話、見当違いの感嘆の声など、彼女にとっては、世界を正しく観測するための邪魔になる騒々しいノイズでしかなかった。他者に共感せず、ただモノの真実のみを求める彼女にとって、孤独とは最も贅沢で快適な環境である。

 編み上げブーツの硬質な音を響かせながら、瑠璃が一人で向かったのは、街の中心にそびえ立つ、咲浜市のシンボルとも言える巨大な『時計塔』であった。

 赤煉瓦とくすんだ真鍮で組み上げられたその塔は、咲浜市のスチームパンク技術の結晶とも言える巨大な建造物である。塔の内部に入ると、分厚い石の壁によって外の喧騒が嘘のように遮断され、代わりに、重厚で圧倒的な機械音が全身を包み込んだ。


 カシャン、シューッ、ゴトン、チク、タク。


 地下の巨大なボイラーから送られてくる高圧蒸気が無数のパイプを通り抜け、直径数メートルにも及ぶ巨大な真鍮の歯車群が、複雑に、しかし一寸の狂いもなく噛み合い、咲浜市の時間を正確に刻んでいく。空気は重く、機械油の匂いと、微かな鉄の錆びた匂いが鼻腔をくすぐる。

 瑠璃は、その規則的で物理的な駆動音に不思議な心地よさを覚えながら、塔の内部の壁沿いに作られた、狭く急な螺旋階段をゆっくりと登り始めた。観光客の多くは、エレベーターを使って一気に最上階の展望台へ向かうか、外観を写真に収めることにしか興味を示さないため、歯車やシャフトが剥き出しになったこの中間層の階段エリアには、瑠璃以外の人影は全くなかった。


 静寂と機械音だけの、隔離された空間。

 瑠璃が三階部分の踊り場に差し掛かった、まさにその時である。

 彼女の持つ、並外れた『誰もが見逃すような些細なことに気がつく能力』が、空間のわずかな違和感を捉えた。


(妙じゃな。異質なノイズが、ある)


 瑠璃の足がピタリと止まる。

 深い紫の瞳が、薄暗い踊り場の壁面を鋭く射抜く。

 視線の先にあるのは、階段の壁面に備え付けられた、アンティーク調の重厚な木製飾り棚である。そこには本来、時計塔の建設当時の歴史を示す古いガスランプや、整備用の真鍮の工具のレプリカが、ガラスケースにも入れられず無造作に飾られているはずだった。

 しかし、瑠璃の目が捉えたのは、その飾り棚そのものではない。飾り棚の裏側――壁との間に生じた、わずか数センチの暗がりとなる死角に、無造作に、あるいは意図的に押し込まれた『不純物』であった。

 瑠璃は袴の裾が汚れることも厭わず、その場で静かにしゃがみ込み、飾り棚の裏の暗がりを覗き込んだ。


 そこにあったのは、丸められた『クレープ生地』であった。

 甘く焼けた小麦粉とバターの匂いを漂わせる、薄い生地。それ自体は、ミュージアム街の広場にある屋台で売られている、ありふれた観光客向けの食べ物だろう。だが、異常なのはそのクレープの中身であった。

 無造作に丸められたクレープ生地の隙間から覗いていたのは、生クリームでも、色鮮やかな果物でもなく、プラスチックと金属で構成された黒いグリップ。そして、熱を帯びるためのセラミックコーティングされた耐熱性のプレート。

 それは間違いなく、現代の女子高生などが前髪を整えたり、髪を巻いたりするために持ち歩く、充電式の『コードレスヘアアイロン』であった。


(蒸気と歯車の街に、電気熱の不純物……。しかも、なぜクレープ生地で包むように隠されておる? ゴミ箱に捨てるならともかく、わざわざ飾り棚の裏という死角に、食べ物で機械を包み込むという不可解な念の入れよう。……異常じゃ)


 明らかな時代錯誤。そして、用途と材質が完全に矛盾した、奇妙な組み合わせの遺留品。

 単なるゴミの不法投棄や、うっかり落とした忘れ物として片付けるには、あまりにも不格好で、物理的に不自然すぎる隠し方であった。

 瑠璃の胸の奥で、静かに、しかし確かな熱量を持って『知的好奇心』が着火する。ありえない場所に、ありえないものがある。ならば、それがどこから来て、誰の手に渡り、どういう経緯でここにあるのかを突き止めなければならない。それが彼女の存在意義である。


 瑠璃はゆっくりと立ち上がり、帯の隙間から、常に持ち歩いている銀の懐中時計を取り出した。

 カチリ、と銀の蓋を開く。

 チク、タク、チク、タク。

 精巧な秒針の音が、瑠璃の耳元で鳴る。それは、時計塔の巨大な歯車の轟音にかき消されるほど微かな音のはずだが、瑠璃にはその秒針の音だけが世界で最もクリアに聞こえていた。彼女はその音に自身の呼吸と意識を同調させ、思考の波を完全にフラットな状態へと調律していく。人間的な情動、先入観、観光地の浮かれた空気、そういった不純なものをすべて削ぎ落とし、ただ目の前の『物理的な事実』のみを観測するための、神聖にして絶対的な儀式。


 調律を終えた瑠璃は、懐に忍ばせていた愛用の純白の手袋を取り出し、指の先までシワ一つ残らぬように、静かに両手にはめた。

 ここから先は、孤高の天才鑑定士としてのプロの領域である。自身の指紋や余計な熱、外乱を対象に一切残さず、モノに宿るルーツだけを正確に掬い取るための手順であった。


 手袋をはめた指先で、彼女はその奇妙な不純物――クレープ生地に包まれたヘアアイロンに、そっと触れた。

 布越しの指先から伝わる、微かな温度。それは、クレープの余熱ではなく、明らかに電熱線が発した人工的な熱の残滓であった。

 そして、鼻腔を掠める匂い。クレープの甘い匂いに混じって、何か、鉄が焼けるような、あるいは別のひどく不快な有機物が熱せられたような、不可解な異臭がした。

 瑠璃は空いた方の手で、ポケットから使い込まれた銀のルーペを取り出し、アメジストの瞳の前に構えた。深い紫の瞳が、ルーペの分厚いレンズ越しに、モノに刻まれたミクロの物理的な痕跡と、目に見えない情動のゆらぎを同時に射抜く。


「さあ、語るがよい。……お主がこの非効率な街の暗がりで、何を誤魔化し、何を隠そうとしたのか。その不格好なルーツを、わしがすべて丸裸に紐解いてやろう」


 ただの日常の悪戯か、それとも。

 蒸気の密室に潜む、血と油の匂いが交差する凄惨な事件への扉が、一人の令嬢の手によって、今、静かに開かれようとしていた。



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