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ある夏の日のこと。

作者: 凡人

あなたに、先生はいますか?

何を伝えたいですか?

「これは、レモンのにおいですか?」

 近くで女の人の声がして、ふと隣を見ると、薄く茶色がかった黒髪がゆらりとなびくのが目に入った。あのお客さんは、どうやら私に話しかけたわけではないらしい。

 話しかけられた男の人は、少し戸惑ったような間を開けたあと、

「いいえ、夏みかんです」

 と答えていた。女の人は満足げに含み笑いをしていた。

 たしか有名な物語のフレーズの一つで、私も耳にしたことはあるが、物語の名前は思い出せない。どうやら厳しかったあの教師による小学校での熱心な教育は私には無意味だったようだ。

 窓ガラス越しに控えめに聴こえる蝉の声は嫌でも夏の匂いを連れてきたが、今私の鼻先を掠めたのは、紛れもなくレモンの香りだった。

 

 カウンターの方をふと目にする。慌ただしく手を動かしている彼女がいる。私よりも頭ひとつ小さな身体をぴっと伸ばして、注文が入ったのであろうコーヒーを淹れている。

 ずっと一人で喫茶店を切り盛りしている彼女を、私はこう呼んでいる。

 

 

「明日は頑張って学校に行ってみる」。昨日の私は親にそう言って床についたのですが、1グラムにも満たない言葉は33℃の熱気にすっかり溶かされてしまいました。買ってから一度も着たことがなかった制服を身にまとったものの、どうしてだか心が腐りきってしまい、私の脚は気の赴くまま喫茶店に向かっていました。私の一番好きな、窓際の陽の当たらないテーブル。私は今、一人がけの椅子に小さく腰掛けています。

 

 

 窓の外を見る。晴れきった青空に浮かんだ雲は、うろこ雲だろうか、ひつじ雲だろうか。

 期せず、あの夏の日が眼前によみがえる。

 細々とした雲を見るといつも、ベンチに座ってどこか遠くを見つめる彼女の顔が、瞼の裏に浮かぶ。

 

 

 細々とした雲を見るといつもあなたは、どこか寂しそうでしたね。そして、小さな声で、時々戸惑いながらも、それでも優しい声で、涙と洟でぐちゃぐちゃになった私に語りかけてくれたものです。

 あなたのあの優しい声は、今でもまだ私の鼓膜に留まっています。あなたのあの声が、今まで私を繋ぎ止めていてくれたような気がしているのです。

 

 

『ほら、もう泣かないよ』

 呻いているような、情けない声を出す私に、先生はそう声をかけてくれた。

『泣かないで。辛かったなら辛かった分全部、私に吐き出して。一人で抱え込んだりしないで』

 夕陽が嫌に私の肌を湿らせたあの夏の日。ベンチに座った私の頭をゆっくりと撫でてくれた彼女の手の温かさが頭に蘇る。

 

「先生」

 ふと口をついて言葉が出る。振り払うように、テーブルの上のアイスティーに口をつける。すっかり汗をかいてしまったグラスに気を払いつつ、少し苦味のある紅茶は思ったよりもしっかりと、私の目元を引き締めてくれた。少しだけ濡れてしまった手をさっとスラックスで拭く。

 

 

 あれからもう、一年が過ぎようとしています。時の流れって早いものです。私にも色々なことがありました。先生にも何かしらあったのでしょうね。そしてきっと、これからも。

 あの時無くなるはずだった命の火は、先生の小さな両手で抱えられて、なんとか今日まで揺れることができていました。

 先生。

 今日でもう、終わりです。

 今日でもう、終わりにします。

 決めました。先生。

 

 

 手が震える。

 火が燃えさかる。心が震える。身体が震える。

 火が、揺らめく。

 レモンの香りが鼻先を掠めた。

 震える心は武者震い。

 半分近くがなくなってしまったアイスティーをこくりと飲む。

 

 

 たくさん考えました。本当に、ずっと考えていました。苦しんでたら、どこかで神様が見てくれるんじゃないかなって、小さな期待を胸に生きていくのも悪くないってのも、少し思いました。でもこのまま何十年かわからないけど、私には少し長すぎるように感じるんです。

 

 

 わかっている。捨てるなんて馬鹿げたことだとはわかっている。生きたくても生きれない人がいるってことくらい、私にもわかってる。でも、誰が苦しんでるとか、誰が辛いとか、そんなことは関係なくて、今は確かに私が、苦しいから。誰の方が苦しいとかじゃなくて、私は私なりに、すっごく辛いから。

 だから、決めた。

 

 

 先生。最後はあの夏の日みたく、ベンチに座った先生の横で泣きじゃくって終わりたかったです。もう、遅いかな。先生との約束、最後まで守れるか怪しいです。可笑しいでしょうか。17歳の高校生が泣いてたら、やっぱり可笑しいでしょうか。

 先生、笑ってください。

 

 

 堪えていた温かいものが頬を伝ってテーブルへと落ちる。急いで顔を隠して、目尻を拭う。

 私の頬を濡らしたそれは、私の先生をひどく滲ませていた。

 

 

 先生。先生。先生。先生先生先生先生先生

 先生、どうか、幸せになってください。

 この世に生まれ落ちて、嫌だったけど、あなたに会えて、私はすごく幸せでした。あなたの笑顔はまた、別の誰かに向けてあげてください。

 先生、どうか、幸せになってください。

 

 

  敬具

 

 と書いたところで、冒頭に「拝啓」と書いていなかったことに気がつくが、もうそんなことはどうでもよくなった。

 気がつかないうちに、レモンと夏みかんのカップルは隣のテーブルからは消えていて、残されたレモンティーの空きグラスだけが私の鼻をくすぐっているということに気づいたのは、私がアイスティーを飲み終わったときだった。

 たった今一枚の薄い紙をうめ尽くした文字の羅列を2回折りたたんで、空になったグラスとテーブルの間に挟む。

 少しだけ迷って、折りたたまれて小さくなった紙の端に小さく「先生へ」と付け加えた。他のお客さんに気づかれないように、ずっと小さく。先生だけが気づくように、小さく。

 私の体の中に染み渡った最期のアイスティーに小さく手を合わせ、席を立つ。ポケットを弄り、すっかり色褪せてしまった紺の財布を取り出す。

 

 ずっと一人で喫茶店を切り盛りしている、そしてあの日私を助けてくれた彼女を、私はこう呼んでいる。

 

「お久しぶりです、先生」

 チェック柄の水色のエプロンを身につけた先生が、こちらを見て困ったように笑う。

「はは、やめてよ、その呼び方。まるで偉い人にでもなった気分だな」

 少し間が開いたあと、制服姿の私をちらりと見て、

「今日も頑張ったね」

 と小さく呟く。その頼りなくも穏やかで暖かな声は、あの夏の昼下がりとよく似ていた。

「先生」

 小銭を受け取ろうとした手を引っ込めて、少し驚いたように「ん?」と微笑む。

「あなたがいたから、私は今ここにいるんです」

「どうしちゃったの、改まって」

「あなたは、やっぱり私にとっての『先生』です」

 戸惑う彼女を横目に、私は500円玉を一枚取り出し、カウンターに置いた。

「先生、幸せになってください」

 精一杯の笑顔を搾り出した顔は醜かったかもしれないが、無理矢理に引きつらせた口角は、零れ落ちる私の涙を止まらせるのには充分だった。

 最期に眼を見て。

 誰かに声をかけられないうちに、古びた木のドアを押し開けて、駆け出す。

 カラカランと鳴った小さな鐘の気持ちの良い音は、どこまでも続く高い高い夏の青空へと吸い込まれていった。

 

 先生、これはレモンのにおいですか。

 それとも、夏みかんのにおいですか。

 鼻について離れなくなったこの甘酸っぱい匂いは、本当に私と共にどこか遠くへ行ってもいいのでしょうか。

 先生、いつかあちらで教えてください。

 

 震える脚を前へと進ませながら、今日の私は線路の美しさを確かめようと駅へと向かっている。

僕には先生がいます。

薄く濁ったこの気持ちを伝える能力がない僕は、昇華することに決めました。

凡人でも、文字に乗せてどこか遠くへ飛ばすことはできるのでしょうか。僕にはまだ分かりません。

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