2‐3.
「それで、散骨はいつ?」
汐屋の声に、はっと現実へ戻される。
「業者に頼んで船をチャーターするのに時間が掛かるんだ。最近頼んだばっかりだから…もうしばらく掛かると思う」
「わかった」
自然葬って言うんだってね。
何でもないことのように、汐屋が言った。てっきり遺骨の一部だけでも欲しいとでも言い出すかと思っていたのに、汐屋は意外にも冷静だった。その落ち着きが陸には余計恐ろしく思えた。後追いなんかしない、とさっきは軽く笑っていたけれど、消え去ったはずの不安がまたも首をもたげて来る。
「ああ、そうそう。渡すものがあったんだ」
突然思い出したように汐屋が立ち上がり、シェルフの引き出しから何かを取り出し、陸に渡した。一通のエアメールだった。
「前の家から正行の家に転送されてきたみたい。新しい住所、知らせてなかったんだね」
差出人は、件の父親だった。住所はアメリカのどこかの都市で、ローマ字で書かれた父の名前すら陸には見慣れなかった。父とは戸籍上何らかの手続きが必要な場合以外、一切連絡を取っていない。以前、陸が兄と一緒に暮らしていたマンションは父の名義で借りていたので、そこに手紙が送られてきていたようだ。
「…なんだよ、今さら」
陸は封を開ける気にすらなれず、手紙をテーブルの上に投げ出した。目を遣るのも嫌で、こんなもの、と舌打ちする。
「正行の個展のことだよ」
冷めない内に紅茶を飲み干し、汐屋がまた何でもないことのように言った。飲もうと思って持ち上げたマグを、陸は空中で止めた。
「え…なんで?」
「うちからお電話差し上げたんだ」
一応、ご遺族に連絡を取っておかないとね。陸のところにも来たでしょ?
そう言って汐屋は伏せ目がちに、その手紙を見た。陸は向こうの住所を知らない。父から届いた手紙はいつも捨てていたし、兄が自分の死を父に知らせたがらないだろうと思って連絡もしなかった。けれど兄の死は、陸が知らせるまでもなく、出版社からの経由で知らされていたらしい。余計なことをと陸は思ったけれど、会社側としてそれは当然の行いなので怒るに怒れない。
「電話ですでに個展については賛同してもらってるんだけど、一応確認ということでね」
「…シオくんは、賛成なの?」
汐屋は答えなかった。難しい顔をして俯き、それから繕うように笑顔になった。
「同僚や上司がぜひにってね。ほら、ウチはちっちゃい会社だから、おれと正行の関係はほぼ公認だったし」
区切りを付けるためにも、個展を開くのはいいんじゃないかって。
気を遣ってくれてるんだ、と汐屋は薄く笑った。事情を知っている上司が、長い有給休暇も快く受け入れてくれたらしい。
「ずいぶん甘えさせてもらったから。これからはちゃんと働くよ」
決意したような汐屋の言葉の端々に、陸は痛みを感じた。
どうしてそんな風に笑えるのだろう。長い思い出を辿っても、記憶の中の汐屋はいつでも笑っていた。以前は何の不思議も抱かなかったけれど、今はその笑顔を制止したい気分だ。汐屋の笑顔が嬉しくないなんて、初めてのことだった。
「それで?」
「え?」
「その人たちの言うように、個展を開いたら吹っ切れるの?兄貴のこと」
存外イジワルそうに響いてしまった自分に声に後悔しながらも、陸は汐屋を窺った。瞬間、汐屋は意外そうな顔をして眉根を寄せ、それから簡潔に即答した。
「まさか。そんな簡単なものじゃないよ」
ふいに汐屋から笑みが消え、声が低く響く。言外に、当たり前だろう?と言われた気がした。
たった一言で充分すぎるほど、汐屋の気持ちは陸の胸の奥深いところまで伝わってしまう。軽やかに、でも確実に核心を突き、一切の追撃を許さない。無意識の防御は、鉄壁だった。
陸は何も言えなくなり、重い沈黙が続いた。汐屋と自分の間には見えない壁があり、陸と兄、兄と汐屋という繋がりを隔てている。それも、とてつもなく大きな隔たりだ。汐屋から手を伸ばさなければ、触れることすら陸にはできない。
それは汐屋と自分の年が7つ離れているからとか、趣味も職業も通じるところがないからということもあるけれど、もっとも決定的なのは、汐屋と陸の間に本田正行という存在がいなければ、2人の人生は決して交わることのない点同士だったのだということだ。
その動かしようのない事実が、極めて奇跡的なようでも、必然だったようにも思える。
いや、と陸は思い直した。自分にとっては奇跡だが、汐屋にとっては必然だったのかもしれない。汐屋にとっての奇跡は、兄の正行の方だ。
ふとした狼狽が走り、陸の目線は迷った。どこかで兄が見ている気がした。窓の両端に開かれたカーテンの隙間、カウンターの向こう、寝室のドア。この部屋には兄の気配が溢れ過ぎている。むせ返るほどの濃密な空気の中に粒子ほどの細かさで存在し、汐屋の肌という肌を包んでいる。
不健全だね、と言う大輝の声が聞こえた気がした。