2‐2.
激しい雨脚ではなかったので、陸はほとんど濡れることなく汐屋の部屋へ上がった。
雨降ってるんだね、と陸を迎えた汐屋が用意よくタオルを出してくれる。濡れてないよと言うと、すでに手にタオルを持った汐屋が所在無げに笑うので、陸は仕方なくその手からタオルを受け取った。温かく厚い、柔らかな感触の汐屋の手。そう言えば兄は傘をさすのが下手だった、と思い出す。歩き方は悪くないはずなのに―むしろ陸の方が地に足を這わすようにだらしなく歩く―どんなに大きな傘をさしても、必ず片方の肩が濡れるのだ。きっと汐屋が隣に入った時のためだと、今ならよくわかる。
「飯、食った?」
濡れてもいない髪をタオルで拭きながら陸がたずねると、キッチンで紅茶を淹れていた汐屋は苦笑いを浮かべた。
「ちょっと食欲なくて。でも大丈夫。後で食べるよ」
対面式のカウンター越しに汐屋は言い、紅茶の入ったマグを陸に手渡し、自分の分を注いだ。陸のマグはいつもの黄色いマグ。汐屋はまだ客用ので飲んでいる。
今度マグカップを買って来よう、と陸は思いついた。紅茶を水のようにがぶがぶと飲む汐屋のために、たっぷりと大き目の。色は真っ白というよりオフホワイト(象牙色?というのだろうか)がいい。汐屋には優しい色が似合うと、陸は常々思っている。
「迷惑かけたね。ごめんね」
「もう大丈夫なの?」
「うん…まあ」
長い風邪を引いてたみたいな感じだね。
キッチンに立ったまま自分の分の紅茶を口に運びながら、まるで他人事のように汐屋が言うので、陸は途端に不安になった。汐屋の存在が急に希薄なものに思えて、駆り立てられる焦燥感に背中がぞっとする。元来生気のない、その白い顔のせいかも知れない。
「シオくんさ…まさかと思うけど、後追い、とかしない…よね?」
「ええ!?」
突拍子のない陸の言葉に、汐屋は目を丸くさせて、声を出して笑った。
「いくらなんでも、それはないよ。大丈夫。そこまで弱くない」
第一、そんなことしたら正行に怒られちゃうよ。行っても追い返されるだけだって。
「何やってんだ、バカヤローって?」
「きっとケツ蹴られるよ」
「あはははっ、間違いない」
カウンターを挟んで、2人して立ったまま声を上げて笑った。こんなに明るく笑えるのだからもう大丈夫だろうと思い、陸は一つ咳払いしてから、ずっと言えずにいたことを切り出した。
「シオくん、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「んー?」
ようやく笑いを収め、汐屋がリビングへ移動してきてソファへ座った。陸はソファの向かいの床に座り、汐屋を見上げた。
「…兄貴の納骨のことなんだけどさ」
「ああ、そう言えばどうするの?」
「うん、実は…」
散骨にしようと思ってるんだ。
遠慮がちに呟かれた陸の声に、汐屋の手が止まる。
「…何?」
もう一度言って。
驚いて無心になった丸い大きな目が、陸を映した。
「遺骨を灰にして、海に流すの。兄貴、父方の墓には入りたがらないと思うから」
四十九日を過ぎても、兄の遺骨は納骨されずに陸の部屋に置かれている。入る墓がないわけではない。ただ、その墓へ入れる訳にはいかなかった。兄は父を毛嫌いしていた。
仕事第一だった父は、病弱だった母を捨てて海外へ転勤し、今も一人優雅に暮らしている。母がとうとう亡くなった時も、兄は父に連絡しなかった。それでも誰かから情報が漏れ、父が帰国した際にも、喪主は兄が務め、母には一切会わせなかった。兄にとって、父はすでに他人だった。だから、兄が父方の墓に入りたがるはずがない。親戚たちやお寺の人と相談した結果、散骨がいいだろうと陸が決めたのだ。
汐屋はしばらく考えたようにして、それからうん、と頷いた。
「うん、それはいいかもね。あの人暗くて狭い場所が嫌いだったから」
海に、行きたがっていたしね。
てっきり反対されると思っていた陸は、拍子抜けした。きっとこの人は覚えていないのだ。
汐屋は火葬場で兄の遺体を前に、焼かないでくれと懇願し、泣き叫んだ。あの時汐屋は完全に自我を失っていた。見たこともない汐屋のその様子に、陸は自分の手足が冷たくなっていくのを感じながら、兄の棺桶に縋り付く背中を後ろから抱き締めた。
シオくん、ダメだよ。燃やさなきゃ。兄貴はもう死んじゃったんだよ。
自分の出す平静すぎる声は、どこか遠くの方から聞こえてくる他人のもののようだった。
泣き疲れた汐屋を車に運び、その頭を自分の膝に乗せ、陸は兄がゆっくり焼かれていくのを見守った。白装束を着せられ、菊の花に囲まれた兄。人気のない火葬場の真っ直ぐ伸びた煙突から、水墨画のような薄い灰色の煙が上がっていくのを、ウィンドウ越しに一人眺めた。
膝の上に目をやると、赤く腫れた、汐屋の厚ぼったい瞼が。視線を上空へ戻すと、よく晴れた、秋の高い空が見えた。