2‐1.
兄の個展を開かないか、という話を聞いたのは、兄の死から2ヵ月後のことだった。街はすっかり冬になり、クリスマスの気配がちらちらと姿を現し始めていた。
「こんなことになって非常に残念ですが、彼の才能をもっと世間に知ってもらいたいと思っているんです。ご遺族からすれば彼を悼むにはまだ早すぎる時期だと思うんですが、我々としてはこれくらいしか彼のために出来ることがなくて」
考えてみてくれませんか、とその男は言った。
兄が世話になっていた出版社の、企画担当の人らしい。中年と言うにはまだ少し早く、しかしとっくに薹が立った、落ち着いた顔付きをしている。昼2時、商店街の年季の入った喫茶店に、この男性はとてもよく馴染んだ。
兄の出版社ということは、汐屋の仕事先ということだ。汐屋は兄の担当の編集者だった。新進気鋭の絵本作家として活躍していた兄が、この出版社とだけ契約していたのも、そこに汐屋がいたからだ。不純だと責めたこともあったが、その度に兄は「あいつがいなきゃ、この仕事はしてないからな」と、ぬけぬけと言い放った。
「…こういった手の個展にはご遺族の了承が必要なんです。一応本田さんの作品はすべて我が社に所有権がありますが、遺品ともなりますし」
本田さんの作品は、全部集めたいと思っているんです。
黙り込んだままの陸を何とか懐柔しようと、男はにこやかな笑顔を浮かべる。仕事熱心で、きっと根も善良な人なのだろう。だからこそ心苦しかったが、陸はすぐには返答できなかった。
出版社の企画ということは、当然このことは汐屋の耳にも入っているはずだ。ひっそりと静まり返ったあの部屋で、一人暗がりに座り込む汐屋を、陸は思った。痩せて無気力になり、兄の思い出の中に囚われ続けている汐屋。
「…少し、考えさせてもらえますか?」
それだけ言うのが精一杯だったけれど、男は満足げな笑顔を浮かべ、「はい、よろしくお願いします」と勢い付いて陸に頭を下げた。陸の方も恐縮して軽く頭を下げる。飲み切れなかったコーヒーが、その黒い表面に陸の顔を映し出し、ゆらりと揺れた。
外へ出ると、雨が降っていた。梅雨でもないのに、雨は今朝から降ったり止んだりを繰り返している。空気は凛と冷たく、季節が本格的な冬に変わろうとしているのを感じる。
手ぶらだった陸は仕方なく近くのコンビニでビニール傘を買い、商店街のアーケードを抜けた。仕事までまだ時間がある。足は自然と、汐屋のアパートへ向かった。目を瞑っても辿り着ける、通い慣れすぎた道というのは、どこか寂しい気もした。
*
兄が山間に家を購入して住み始めた矢先、陸はお呼ばれして兄の新居へ遊びに行った。瀟洒な作りの玄関先で陸を迎え入れたのは、当然のようにそこにいた汐屋だった。
広いリビング、料理好きな兄のためのシステムキッチン、寝室、屋根裏部屋、そして兄のアトリエ。新築の木の匂いがする木目の優しい床は素足に心地良く、陸は汐屋と一緒に家中を歩き回った。
―ここは来客用。つまり、陸の部屋。
寝室と向かい合わせにある部屋の扉を開け、汐屋が言った。六畳ほどの部屋の中にはシングルベッドとソファ、そして小さなテーブルがすでに用意されていた。窓には薄い水色のカーテンが揺れ、そこから見える景色はすべてが絵になった。
―おれの?
―そう。
―シオくんがいる時はどこに寝るの?
客室はこの一つしかない。兄の元に汐屋が泊まることは昔から頻繁で、それは当然の疑問だった。
―兄貴と寝るの?
陸は深く考えもせず、軽い気持ちでそう訊いた。しかし汐屋は途端、目に見えて動揺したのだ。
―まさか…リビングのソファで寝るよ。
―でも兄貴のベッド、ダブルだよ?一緒に寝ても平気じゃねえ?
―いや、それはちょっと…遠慮しとくよ。大の大人がさ、気持ち悪いじゃん?
あはは、と渇いた声で笑う汐屋を妙に思いながら、自分はそれほどおかしなことを言っただろうか?と陸は首を傾げた。
―それともりっちゃん、おれと一緒に寝る?
汐屋がそこで急にしなを作り、悪戯な笑みで陸の肩を抱いた。自分より少しだけ背が低い汐屋の体が全体重をかけて寄り掛かってきたので、陸はたまらずその場に崩れ落ちる。
―なぁにやってんだよ。シオくん、おもしれー。
―あれえ?おれは本気よー?
―うひゃひゃっ、くすぐってえー。
床に転がってじゃれている内、プロレスごっこになり、2人のぎゃあぎゃあと騒ぐ笑い声は家中にこだました。
―何やってんだ、飯できたぞ。
エプロンを付けた兄が呆れた様子でやってくるまで―黒いシンプルな形のエプロンは兄にとてもよく似合った―、陸は汐屋といつまでも取っ組み合いをしていた。汐屋の体は温かく、首筋に顔を埋めると微かな香料の匂いがした。それは兄の周りで嗅ぎ慣れたはずのもので、陸はその瞬間に違和感を覚えた。
なぜ汐屋からその匂いがするのか、理解するのに、そう時間は掛からなかった。