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1‐4.


朝が来ても、太陽は雨に隠され、霧が晴れることはなかった。夜は明けたのか、それとももう夕方になったのか、陸にはわからなかった。ただじっと膝の上で組んだ両手を見つめ、兄の最期を看取った医者の説明を右から左へ流しながら、雨の音を聞いた。


霊安室に通されてからずっと、汐屋は兄の傍を離れなかった。大きな目を涙でいっぱいにして、何度も何度も兄の頬や髪を撫でていた。

汐屋が着ている薄い水色のシャツは、去年の汐屋の誕生日に兄がプレゼントしたものだ。陸にも見覚えがある。服のセンスに自信がないと言って、兄が一緒に選んでくれと頼み込んできたのだ。手術の際に破かれてしまった兄の衣服も、そう言えば最近買ったばかりのものだった。互いに仕事に忙しい身で、やっと取り付けた久しぶりのデートだったのだろう。


雨が降ったせいで病院はどこもかしこも寒く、冷たい。霊安室には、死者の匂いと線香の香りで、独特な空気が立ち込めている。汐屋はしばらく兄の傍を離れそうになかった。陸は、汐屋の気の済むまでここにいてやろうと思った。


着の身着のまま部屋を飛び出してきた陸に、霊安室の温度はあまりに冷たいものだったけれど。




*




早朝3時に店が終わると、陸は事務室で仮眠を取った。3時間ほど眠って目を覚ますと、窓から薄っすら西日が差してきていた。顔を洗い、店を出る。

街は、すでに動き出していた。道端に転がったゴミを清掃する人、忙しそうに歩く人、どこかから帰ってきた人。カラスの鳴き声、風に飛ばされるビニール袋。


この街の朝は、いつも陸に西部劇を連想させる。真っ直ぐ伸びた道に男が2人、背中合わせに立ち、一機打ちをするシーン。人気のない道路に車は滅多に通らないけれど、陸は必ず歩道を歩いた。

汐屋は、もう起きているだろうか。それとも、眠れずに朝を迎えているだろうか。

陸は早朝の街中にあっても快活に働くコンビニに立ち寄ると、自分と汐屋の分の食料を買い込んだ。





軽くノックをすると、しばらく経って奥から「どうぞ」と声が聞こえた。ノブを回す。鍵はまたも掛かっていなかった。

部屋の中は陸が出て行った時と同じ、片付けられた状態を保っていた。リビングで陸を迎えた汐屋は、比較的元気になっているようだ。顔色は相変わらず青白かったけれど、瞳にはしっかり陸を映し、唇も赤く血の通った色を取り戻している。


「飯買ってきたから食おう。おにぎりとサンドイッチ、あとプリン」


このメーカーの好きだったよね。

汐屋に確認を取りながら、袋の中身を次々とテーブルに並べる。その様子を億劫そうに眺めながら、汐屋は「着替えてくる」と言って寝室へ向かった。まだ本調子ではないのか、足元が覚束なくて、つい手を出しそうになるのを陸は抑えた。きっとここで手を貸しても、汐屋は喜ばない。今でも充分お節介なことをしているくせに、と自分でも思うけれど。

陸は自分の分のコーラとお茶、それともう一つ、別に買ってきていた物をテーブルに乗せた。ガラスのテーブルが、カコン、と音を鳴らす。


ねえ。

不意に声を掛けられ、顔を上げると、着替えに行ったはずの汐屋が寝間着姿のまま、寝室の扉に寄り掛かってこちらを見ていた。


「陸は、悲しくないの?」


正行が死んで。

陸は答えられなかった。汐屋は無表情で、責めているようには見えない。むしろ、兄を失ったというのに悲しみを見せない陸が、本当に不思議なようだった。

悲しくないと言ったら、もちろん嘘になる。ただ、目の前の仕事を片付けるのに必死で、悲しむタイミングを逃してしまったような気がするのだ。陸にも自分の感情はわからなかった。兄が死んでから、涙を流したことはまだない。


「…陸は強いね」


何も言わない陸を気にすることなく、汐屋はぽつりと呟き、寝室へ消えた。そんなことない、と反論はできず、かと言って泣かない理由も漠然としていてうまく説明できそうにない。


「あれ?これ、どうしたの」


今度こそ着替えてきた汐屋が、テーブルの上を覗いて、その缶を見つけた。丸い筒状の、赤いパッケージ。汐屋がよく飲む紅茶の銘柄。それは陸が仕事の前に購入しておいたものだ。コンビニで売っていないことは汐屋も知っているし、それをわざわざ買いに行った陸にも、「ついでに」とは言えない理由があった。


「プレゼント」

「なんで?」

「…誕生日、でしょ」


10月2日。

兄が死んでから初めて迎える、汐屋の誕生日。

おめでとう、は言えなかった。瞬間、汐屋の瞳が悲しみに揺らいだのが見えて、今さらに気まずくなる。


「…そっか」


そうだったね。

小さく呟いた汐屋の顔が見られず、陸は下を向いた。余計なことをしたのだ、という思いが陸の体を硬くする。それを見抜いたのか何なのか、汐屋は陸の肩をポンと軽く叩いて、「ありがとう」と小さく言った。無理やりこしらえたような笑顔をして。

誕生日は、誰しもが必ず幸せなわけじゃないことを、陸はこの時初めて知った。






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