1‐3.
不大輝全だね、と大輝は一言強く言い放った。
午後8時を過ぎ、瀟洒な雰囲気のカフェがシックなバーへと変貌する頃、陸は準備に追われていた。テーブルやイスを片付け、床に軽くモップを掛ける。一段上がったフロアの上で、大輝は音響機器の点検を行っていた。
「お兄さんの恋人だった人の世話を陸がすることはないんじゃない?大体かなり年上なんだろ?そこまで恋人の弟に甘えるのはどうかと思うよ」
「…おれよりあっちの方がショックが大きいみたいでさ」
「そりゃあねー恋人が突然交通事故で死亡ってなったら、おれだって我を忘れちゃうと思うけど」
でも、もう一ヶ月近く経つでしょ?
エフェクターをいじる手を止めて、大輝がワンフロア下にいる陸を見る。陸は手を休めず、モップをタイルの床に滑らせている。
兄が交通事故で死んで、確かに一月が経った。けれど、葬式の準備や、遠い親戚たち、兄が世話になった仕事先の人間への挨拶回りなどで、陸の時間の概念は狂っていた。つい昨日の出来事のようで、でもずっと何年も前のことのようにも思える。それは多分、汐屋も同じだ。
いや、もしかしたら陸よりもっと濃い時間の中に身を置いているのかも知れない。下手したら汐屋は兄と過ごした過去に囚われて、現実から置き去りにされ、身動きさえできないのかも知れなかった。
「それにしても不大輝全だよ」
大輝は、もう一度同じことを繰り返した。
「お互いに寄り添い過ぎたら、外の世界に出て行く機会も作れないんじゃない?それでなくても陸はお兄さんにそっくりなんだから」
危険だよ、と付け足した大輝の言葉は、ブゥンと鳴り響いたエフェクト音に消されかけた。しかし、その言葉はしっかりと陸の耳に残った。
危険――大輝は知らないのだ。自分の兄の恋人が、男性だという事実を。
「おれ、兄貴に似てるか?」
「うん。鋭い目とか、雰囲気が」
中身はわかんないけどね。おれはお兄さんのこと、あんまり知らなかったし。
大輝はこの店に陸が来た時からの同僚で、陸の兄とは顔見知り程度だ。兄はよく汐屋と連れ立って、昼間営業しているカフェの方へ現れた。職場に身内が来るのは気恥ずかしいものだったけれど、なにせ兄と汐屋は陸がこの店で働く前からの常連だったので、文句も言えない。
よし、完璧!と点検を終えたらしい大輝の独り言を背に受けながら、陸はモップを倉庫に戻しに行った。従業員のロッカーと清掃道具のある部屋にモップを置くと、ジーパンのポケットにしまった煙草を取り出し、火を点ける。白熱灯のバカ明るい光の下、閉鎖された室内で吐き出した煙は行き場を失くし、陸の周りをぼんやりと漂った。
兄は背の高い、すらりとした人だった。隣に並ぶと、陸の目線は兄の肩に当たった。斜め下から見上げる兄の横顔は、いつも長めの前髪に隠れていた。掻き上げてもすぐ戻ってくるサラサラの髪を、うざったいなら切ればいいのにと陸はいつも思っていたけれど、あれはほとんど癖みたいなものらしいよと、兄の代わりに汐屋が優しく微笑みながら言うのだった。
自分と兄に似ているところがあるとすれば、2人とも強面の顔だというぐらいだろう。その顔だって、本当は似ても似つかない。陸は父親似で、兄は母親似だった。だから大輝の言うように、汐屋が自分と兄を重ねて感傷的になることなどないのだ。『危険』なことだって、起こりようがない。
陸は煙草の火を、部屋に作り付けられた洗面台に押し付けた。壁に掛かった鏡には、目付きの鋭い茶髪の男が映っている。耳を隠す長い横髪がうざったくて、陸は髪を掻き上げ、ヘアゴムで頭上に縛った。背は平均並、兄と同じく痩せ型だが、幼い頃からサッカーで鍛えていたおかげでそれなりに筋肉も付いている。目付きは一見すると鋭く見えるが、涼し気な流し目がミステリアスだと、歴代の彼女たちには賞賛されてきたし、そう悪くない顔だと自分では思う。兄にだって、負けない自信はあった。
店内のフロアに配置したスピーカーから、静かなボリュウムでジャズが流れ出す。開店時間だ。人のいないホールに音楽を流し始める、この一瞬が陸は苦手だった。映画館で電気が消える瞬間にも似ている。これから何かが始まる、もしくは何かが待ち受けている、という合図。
店が引けたら、もう一度汐屋のアパートへ行ってみようと思い、陸は気合入れのために両頬を思い切り叩いた。