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8‐3.

緩やかに年を跨ぎ、そろそろ冬も終わりを迎えようとしている頃。

陸は相変わらずカフェの一角で忙しく動き回っていた。コーヒーを淹れ、新人を教育し、巣立っていくスタッフたちを見送る。


「おーい、陸。あの話、考えてくれたか?」


そろそろ返事が欲しいんだけど、と店長が店の奥から言った。陸はグラスを磨きながら店長を振り返る。


「今度本社の人事部から人が来るんだけど、おまえのこと紹介していい?」

「う~ん、どうしよっかなあ」

「おいおい、おまえ、まさか店辞めたりしないよな?」


それは寂しいよぉ~と店長がふざけて陸に抱きついてくる。陸はうひゃひゃと笑いながら、でも迷ってる、と正直に打ち明けた。


「なんで悩むんだよ。おまえ一生うちの会社で働いていくんだって決めてんだろう?」

「え?」


なんでそれを、と陸は思った。今まで誰にも話したことはないはずなのに。

陸は確かにこの店に入った時、一生ここで働こうと決めた。兄と汐屋が毎週必ず訪れるこの店でなら、ずっと働いていけると思ったから。


店長は、「おまえのお兄さんに聞いた」と言った。そんなことを初めて聞かされて、陸は驚く。


「日曜日ごとに来てくれてただろ?あったかい日はテラス席で、寒い日はそこの窓際の席に座ってさ」


店長が指さした席を、陸は見つめた。外の通りを一望できる、この店で一番日当たりのいい場所。


「うちの弟がお世話になってますって、挨拶してくれたんだよ。そんで、あいつがこんなに長く仕事を続けられるなんて初めてのことだから、これからも末永くお願いします、なんて言ってくれてさ」

「……」

「良い人だったよな、おまえのお兄さん。いつも一緒に来る友達も。あの2人があの席でお茶してる姿を見る度、あったかーい気持ちになったりして」


絵になるんだよなあ。

店長は当時を思い出したのか、うっとりと目を細める。陸も、グラスを磨きながら過去に思いを馳せた。


兄と汐屋がカフェで過ごした、いくつもの日曜日の午後。それは自分たちが幸福だった時間の象徴だ。兄がいて、汐屋がいて、2人にお茶を運んでいく自分がいる。


それはもう永遠に巡らない、記憶の中にだけ閉じ込められた季節。


2人は店長の言うように、本当に絵になった。2人だけの濃密な、近付き難い雰囲気さえ与えながらも、きっとその空気に巻かれたなら誰もが笑みを作れるだろうと思える、優しさに溢れた空間。

それを遠巻きに見ている自分がとても歯痒くて、確かに陸には辛い時期だったかもしれない。けれど、もし戻れるものなら戻って欲しい。あの時、あの瞬間に戻れるのなら、自分の陳腐な願いなど、どうなってもいいとさえ思う。


しかし現実はそうではなく、兄は死に、自分は汐屋を求め、汐屋も自分を求めてくれた。現実の中で生きていく。それを教えてくれたのは、他でもない兄だった。


「…受けるよ」

「えっ?」

「その話、受ける」


陸の決心を受けて、店長は大げさに喜んでまた陸をきつく抱きしめた。よっしゃー!やったー!と場所もわきまえずに叫ぶ。フロアに出ていた大輝が、呆れたようにため息をつくのが見える。陸もグラスを落とさないようにしながら、心から笑った。










おれは下のカフェにいるから。

ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、陸はそう言うと、汐屋に背を向けて階段を降りていった。

取り残された汐屋は、覚悟を決めたように正面に向き直る。『本田正行 作品展』と書かれたシンプルなプレートを見つめ、一回大きく深呼吸すると、汐屋はギャラリーの中へ足を踏み入れた。


小一時間ほどして、汐屋は外階段を降りて地下のカフェを覗いた。地下と言っても半地下で、外からの光も取り込んでいる店内は明るく、開放的な感じがした。

全面ガラス張りになった窓から、イスに浅く腰掛けてコーヒーを啜っている陸の姿を見つける。近くまで来て、手を振った。陸はすぐに気付いて伝票を持つと、立ち上がって店を出た。


「どうだった?」


ギャラリーを後にしながら、陸がたずねた。汐屋は「うん」と頷き、ゆっくり話し始めた。


「はじめはちょっと観るのが怖かったけど、でもだんだん気持ちが落ち着いてきた。ああ、この絵は正行が手こずってたやつだなあとか、この絵を描いてた頃はよくケンカしてたなあ、とか思って」


最後に、自分の肖像画を観た時はちょっと恥ずかしかった。


斜め上の方を見つめながら、汐屋は言った。陸も「うん」と小さく頷く。

今日、正行の個展が無事最終日を迎えた。個展は思った以上に大盛況で、今後は三回忌や命日などの折を見て、定期的に開催していこうということになった。これからもずっと、もっとたくさんの人たちに絵を見てもらうこと。きっとそれが、正行への一番のはなむけになる。


平日にも関わらず、賑やかな街は人で溢れている。吐き出した息はもう白くない。いつの間にかもう冬も終わりなんだな、と思った。街路樹の木々にも、そろそろ緑の芽が芽吹き始めている。


「シオくん」


陸が呼ぶ。華やかなショーウィンドウに見惚れていた汐屋は、「なぁに?」とぼんやりしたまま返事をした。


「おれさ、決めたよ。やっぱり九州に行く」


ピタ、と足が止まる。振り返ると、陸も止まった。


「…そっか。うん、それがいいよ」

「うん、ありがとう。それで、その…良かったら、なんだけど」


すん、と一回息を吸い、陸は改まった風に汐屋の顔を見つめると、言った。


「シオくん、おれと一緒に来てくれる?」


福岡へ、一緒に。


緊張した面持ちで、陸は汐屋の返事を待っている。汐屋は驚いたけれど、返事なんて考えるまでもなく、すぐに首を縦に振った。硬い表情をしていた陸の頬が、途端に緩む。


「マジで!?よかったー!断られたら、おれどうしようかと思った」

「なんで断るの?そんなわけないじゃん」

「だって、そんな簡単に決めちゃっていいの?ライターの仕事は?」

「ああ、それは大丈夫。おれはフリーの契約だから断ればいいだけの話だし、向こうでも仕事は見つけやすいからね。それに、これでもうブランドとも会わずに済むし」

「なに、ブランドって」


不思議そうな顔で陸が覗き込んでくる。汐屋は、うーん、と困った表情をして、彼との経緯を話した。


「何勘違いしてるのか知らないけど、ちょっとしつこくされちゃってさ。困ったよ」

「……」

「陸?どうした?」

「そいつの名刺、今持ってる?」

「へ?う、うん。あるけど、どうするの?」


汐屋は財布の中にしまいこんでいた名刺を取り出そうとした。すると陸が隣で「会社にいられないようにしてやる」と低い声で呟いたので、慌てて財布をしまった。


「ちょっ、何言ってんだよ!ダメだよ、変なことしちゃ」

「だって許せねえだろ、そんなふざけた野郎は!」

「ダメダメ、多分もう二度と会わないし、終わったことなんだから!」


何とか汐屋が宥めると、陸もしぶしぶ納得してくれたようで、むっつりしながら「わかったよ」と言った。それでもまだどこかふて腐れたような表情でいるから、汐屋はおかしくてつい笑ってしまう。


「なんだよ、何がおかしいんだよ」

「べつに」


自分は確かに陸に愛されている、と思う。正行とは180度違った愛し方で。陸なりの精一杯で。


「ね、お腹すかない?」

「ああ、そういや食ってないよね。どっか入ろうか」

「うん!そうだ、近くに美味しいラーメン屋さんがあるんだ。そこね、スイーツも充実してるんだよ」


歌い出しそうなほど上機嫌な声で、汐屋は言った。陸が呆れたようにため息をつく。


「そんなに食うとあっという間にぶくぶく太るぜ?まひる」

「余計なお世話ですー。それにおれはちゃんとジムで運動してる…あれ?陸、今まひるって言った?」

「……」

「ねえ、今言ったよね?まひるって。言ったよね?」

「…うるせーなー。だったら何だよ」

「もっかい言って!もっかい!」

「やだよ、恥ずかしいなっ!いいからほら、行くぞ!」


ポケットに手を入れ、わざと大股で歩き出す陸を、汐屋も早足で追いかける。隣に並ぶと、陸の真っ赤になった耳元が見えた。

瞬間、あ、と思う。耳の形が、正行に似ている。初めて気が付いた。



正行を愛していた気持ちは、今でもまだはっきりと覚えている。目に見えている正行のすべてでは飽き足らず、見えない部分までも、真剣に求めた。いつでも正行の長い腕の中にいたかった。外から自分たちを眺めて微笑むような余裕もない、ギリギリの恋だった。

けれど、もう取り戻したいとは思わない。

愛していた、愛されていた記憶は、今も確かに汐屋の心を丸く優しく包んでくれているから。



汐屋は空を見上げた。きりりと澄み渡った水色の空を、飛行機が航跡を残しながら飛んでいる。

この広い空のどこかに、正行がいる。

どこからか、自分たちを見守ってくれている。


いつかは自分も行くその場所を、思った。

今は仲違いしている陸の父親とも、別れてきた、たくさんの人たちとも、みんないつか必ず会える。高くもなく低くもない、安穏としたこの広い空の中で。



「……いつか、」

「え?なんか言った?」


汐屋は何でもない、と答え、また前を向いて歩き出した。

今はまだ、自分をこの場所に繋ぎ止めていてくれる温もりがある。


正行。遠い、いつか、君ともまた会えるんだね。


街中に溢れる人々の声。やわらかい光に満ちた世界で、汐屋は空に向かい、さよなら、と呟いた。






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