8‐2.
秋が過ぎ、冬の入り口に立った頃、兄の個展は開かれた。
開催初日、陸は一人でギャラリーを訪れた。作品はまず代表作の絵本の原画から始まり、後に年代順に絵画が並び、ところどころにスケッチやポスターなどが飾られた。兄が絵に掛けた情熱、愛した恋人や友人への思いが随所に垣間見える展示になっていた。兄の生きた軌跡。
大勢の人が観に来てくれた。子供から大人まで。笑顔になったり難しい顔をしたり。陸はそんな人々の表情までもが、まるで兄が仕掛けた作品の一つのようにすら思えた。
比較的最近のものと思われる展示の中で、ふと陸は立ち止まる。
一人の青年が、一枚の絵の前にいた。陸と同い年くらいだろうか。カメラケースのような大きなカバンをぶら下げている。写真家が絵画の展示会に来るのは珍しくない。しかし彼はさっきからもうずっと、その一枚の絵に魅入られたままだった。
それは傍目には何てことない街の風景画だが、陸には特別な思い出がある。スケッチされたのは、陸の働くカフェから見える街の景色だったからだ。
春だったと思う。
兄は汐屋と連れ立って現れ、コーヒーを一通り飲み終わると、煙草を吹かしながら持ってきたスケッチブックに鉛筆を走らせた。陸はその様子を、店の奥から眺めた。
オープンテラスは明るく暖かく、開放的な光に満ちていた。陸のいる店内は逆に、照明を落とし、薄暗くひんやりとしていた。
兄の隣で汐屋は穏やかに微笑み、人が行くのを見たり、紅茶を味わったり、兄の真剣な横顔を眺めたりしていた。そして時折、店内に陸の姿を探して、目が合うとにっこり笑ってくれた。兄は絶対に自分の方を見なかったけれど、照れ臭いものがあったのはお互い様だ。
兄がカフェからの景色を写し取ったのは、その一つの季節だけだった。
ふと、青年が絵から目を逸らし、俯いた。右手で目元を覆っている。陸は驚いて、つい近くへ寄って行った。青年はまだ目元を手で拭っている。
「あの…大丈夫ですか?」
「え?あ、ああ…すみません。大丈夫、何でもないです」
陸の声に驚いて青年はパッと顔を上げた。その目には、薄っすら涙の膜が張っている。
「…あの、この絵がどうかしたんですか?」
「え?」
「あ、別に怪しいものじゃないです。…その、おれ弟なんすよ。本田の」
「ええ!?マジっすか?」
青年はパッと目を輝かせ、陸を見つめた。
「その…ご愁傷さまです」
「あ、どうも」
青年は丁寧にお辞儀をして、顔を上げると恥ずかしそうに笑った。
「…おれ、本田さんの大ファンだったんですよ。彼がまだ絵本を手掛ける前、グループ展で見て以来ずっと」
もう10年くらい前です、と彼は言い、プロのカメラマンを目指していることも話してくれた。
そう言えば兄は大学の時の仲間と、一度だけグループ展を開いたことがある。兄が参加したのは最初で最後。彼は家族と東京に遊びに来ていた時、偶然その展示を見たらしい。
「その時見たのが、この絵だったんです」
衝撃を受けたなあ。自分はカメラマン志望だったけど、こんな写真が撮りたい、と思ったんです。
まるで当時を追体験しているような遠い目をして、彼はまた少し目元を手で覆った。
「…亡くなったって聞いて、居ても立ってもいられなくて上京してきたんです。いつかおれの撮った写真を彼に見てもらうことが、おれの夢だったんで」
あ、すみません。辛気臭くしちゃって。と、彼は急に取り繕ったような笑顔を浮かべて、陸を見た。目の周りは赤くなり、潤んでいる。
「…そぉかあ、弟さん……じゃあ、あのきょうりゅうライダーのモデルの方ですね」
「へ?なにそれ」
「え?知らなかったんですか?」
きょうりゅうライダーなら陸ももちろん知っていた。兄の絵本の中でも一番の人気を誇るキャラクターで、出世作でもある。サングラスを掛けてバイクに跨る恐竜のキャラクターだ。その姿は厳ついくせにどこかユーモラスで、やんちゃな子供のような性格をしていながら、悪事を許さない子供たちのヒーローだ。
青年は「ほら、これ!」と、カバンから一冊の雑誌を取り出して陸に差し出してきた。
まるで自分だけが素晴らしい秘密を知っていると言いたげな、子供のような笑顔をして彼が見せたページには、大きく『本田正行』の文字があった。
「これ、本田さんが一度だけ受けたインタビューなんだけど、ほらここ、ここに書いてあるでしょ?」
彼はさっきまで泣いていたとは思えないほど嬉々と目を輝かせ、陸にそれを読ませてみせた。興奮してタメ口になってしまっている。
彼からその一文を指で差されると、陸は思わず雑誌を彼から奪って目の前に引き寄せた。
『きょうりゅうライダーにはモデルがいるんですよ。あいつは絶対こういう雑誌は読まないだろうから言っちゃうけど。実はね、おれの弟』
陸は自分の目を疑った。
本田正行の特集は、3ページに渡って掲載されていた。内2ページが作品の紹介、最後の1ページに今のインタビュー記事が載っている。そこには小さく写真も出ていた。髪色を少し明るくして、長かった襟足も短く切り揃えられている。
この頃は兄が生涯で一番忙しかった時期だ。陸にも覚えがある。疲れ切った青い顔をして、陸や汐屋に当たることも度々あった。
兄はよく自分のことを『自由お気楽な身分でいいな』と言って羨ましがった。あれはいつのことだっただろう。
山荘のアトリエから兄が出てきたので、ちょうど遊びに来ていた陸はコーヒーを淹れてやった。開かれたアトリエの扉から、中に篭った煙草の煙が逃げ場を求めて廊下へ漂ってきていた。陸は少しだけ窓を開けた。汐屋も来るはずだったのに急な仕事で来られなくなったため、兄の機嫌はますます急降下し、汐屋なしでは兄とどう対話していいかわからなくなっていた陸は、兄を宥める術を知らなかった。
兄はコーヒーを飲み終わると、ソファへ横になった。絵が完成したのだろうか。それともただの休憩なのか、陸にはわからない。
胸ポケットから煙草を取り出し、兄は寝そべりながら煙草を吸った。仰向けになり、虚ろな目のまま定期的に吐き出す煙は程なく間延びし始め、途絶えがちになった。瞼も降りた。緩慢な動作で煙草を揉み消すと、ぼやけた声で言うのだった。
―・・・・おまえはいいな。
それが自分に向けられた言葉だとすぐに気付いたが、陸は何も言わなかった。疲れ切ってそんなことを言う兄が、陸には無償に腹立たしく思えたのだった。
『強くて優しくて、でも結構小心者で感動屋さんなの。こんなこと言ったらあれだけど、ほんと、我が弟ながらすげえいい奴』
今さら、だ。本当に。そんなことを今さら言って、何になるというのだ。生きている内に言ってくれなきゃ意味がない。自分が目を通すはずもない雑誌なんかにそんなことを載せて、どうすると言うのだ。あんたはもういないのに。何も言っちゃくれないのに。
視界がぼやけてくるのを感じ、陸は雑誌を閉じた。
「ちょっと、え…どうしたんすか。大丈夫?」
青年がオロオロとうろたえ始めた。陸は雑誌を丸めて両手に握り締めた。顔中に血液が集まってきたみたいに、熱く感じる。たまらず下を向くと、涙が自分のスニーカーの上に落ちた。
汐屋に会いたい、と思った。汐屋に会って、この話をしたい。無性に、そう思った。