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8.

『売却予定地』というプレートが下がったチェーンは、家の周りをぐるりと一周していた。かつて正行が住んだこの山荘は、売りに出されてしばらく経つのに、まだ買い手の予定は付かないようだった。


陸を部屋に残し、汐屋はその足でまっすぐここへ向かった。ふもとのスーパーでは食料を買い込んだ。ある目的を果たすために。



少し斜面になった駐車スペースに車を停め、汐屋は降り立った。見慣れたシックな外壁。木でできた「HONDA」の表札。

山に住みたいと言い出した張本人は、実は大の虫嫌いで、野趣溢れるログハウス風の家などはごめんだと言い張った。それで山中には相応しくない近代的な家を建ててしまった。夏も冬も関係なく害虫予防の薬剤を撒いた。今では雑草が生い茂り、虫たちも居つき放題だ。正行が見たら悲鳴を上げて逃げ出すかもしれない。汐屋は、ふっと笑った。


家の中は定期的に不動産屋の手が入っているようで、荒れている様子はない。汐屋は部屋の真ん中に立ち、飾りのないがらんどうな四方を見渡した。落ち着いたベージュ色のカーテンも、長い毛足の柔らかなカーペットも、2人が愛を確かめ合ったダブルベッドも、もうない。

ところどころ雨漏りした染みの後が天井を彩る以外、人が住んでいたとは思えないような、生活感のない家になってしまった。実際、正行がここで過ごしたのはほんの2、3年という短い期間ではあったけれど。


それでもやはり絵の具の匂いというものはキツイもののようで、アトリエから流れてくる馴染みがないくせにどこか懐かしく心を揺さぶる独特なその匂いは、汐屋の鼻腔の奥までをツンと刺激した。今となっては、この油絵の具の匂いだけが、正行がここに生きていたことを証明する唯一の証のように思えた。


汐屋はアイランド式のキッチンカウンターに、自宅から持ってきた電気コンロやフライパンなどを並べた。そして買ってきた食糧を袋から取り出すと、順に調理していった。





*





陸はその絵をひっくり返して見た。キャンバスの裏には、兄の名前と絵のタイトルが必ず記されていたはずだ。

兄の達筆な文字で、キャンパスのザラついた裏地にサインペンで書かれていたのは、『Masayuki』のサイン。そしてその横には、『ブルーナ』とあった。

これがタイトルであることは間違いない。けれど、なぜ汐屋が描かれている作品のタイトルが『ブルーナ』なのか、陸には見当も付かなかった。


まじまじと、その絵を見る。ひっくり返したり、縦に見たり、横に見たり。それでも小さなキャンバスは、陸に何も語りかけてはこない。考えても答えは出ず、陸は出版社に電話をしてみることにした。芸術家の考えることは、その道のプロに聞くのが一番だ。


陸は財布の中にしまわれた一枚の名刺を取り出した。兄の個展を開く際にもらった、桐島の名刺。携帯電話を取り出し、出版社の番号を手早く押す。

コールして、3回。女性の柔らかい、けれど事務的な声が、出版社の名を告げた。




*




汐屋は厳かな儀式を行うように、一つ一つの動作をじっくり噛み締めながら、一人分の食事をカウンターに並べた。久しぶりに作ったせいか、卵焼きは焦げ、アジの干物はパリパリ、味噌汁と白米だけが何とか見れる程度に仕上がった。


いただきます、と両手を目の前で合わせ、箸を握る。けれど、そこからなかなか先に進まない。


ずっと喉を通らずにいたものを、いざ口にするとなると、また前のようにすべて吐いてしまうんじゃないかという予感もした。苦しくて、食欲でも何でもいいから満たしたくて無理やり摂った食事は、汐屋をただの一瞬現実へ戻しただけだった。結局吐いて、胃は前より空っぽになり、痛むばかり。

でも、このままではいられない。汐屋は覚悟を決め、恐る恐る白米を口に運んだ。ふっくらした米の食感と、鼻を通る懐かしい匂い。恐れていたことは起きず、ほっと息を吐き、汐屋は口を動かした。


しかし、ゆっくり咀嚼した時、別のことが起こった。

それはふいに汐屋の体の奥深くに現れた。

 

胃から込み上げてくる吐き気のようでいて、それとは違う、水の流れのようなものが全身を取り巻く。ゆっくり数回咀嚼し、喉の奥に飲み込むと、それはますます強くなっていった。目の前の光景が歪み、喉の奥から焼け付いた何かが込み上げてくる。


手に握られたまま宙に浮いている箸。焼き魚に、端の焦げた卵焼き、2つの茶碗。

視野に入るそのすべてを超えて、汐屋の目の前には正行の姿があった。



片肘をテーブルに突いて、正行は穏やかな表情でこちらを見ている。



―早く食えよ。冷めちまうぞ。



そう言って、汐屋に優しく微笑む。そして汐屋が一口目を頬張り、「おいしい」と言うのを、ひたすら笑顔で待っている。2人で食事をする時はいつも、そうだったように。


汐屋は、さっきから自分を取り巻いているものの正体に、この時初めて気付いた。それと同時に、塞き止めていた堤防が崩れるように、涙が後から後から頬を伝った。



正行。


正行。


優しくて、優柔不断で、びっくりするくらいキレイな声をした正行。

長い手足をいつも持て余していた。繊細な指先で絵を描き、自分に触れた。




「…ごめんね?」


目の前の幻の正行に向かって、汐屋は呟く。


「…いつまでも縛り付けておいて、ごめん」


おれがいつまでもこんなだから、心配して。いてもたってもいられなくなって、出てきてくれたんだね。



きっと正行はおれに伝えたかったんだよね。


強く生きろ。また人を好きになれ、って。



だからあのメッセージを、おれに残したんだね――。


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