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7‐2.

陸は銀行や商社のビルが立ち並ぶ通りを、ゆっくりゆっくり歩いていた。大通りは車が忙しなく走っていて、ファッションビルからは音楽や宣伝の文句がスピーカーで大きく響いてくる。


ふいに日差しが曇る。見上げると、上空に薄く雨雲が広がっていた。じきに、弱く雨が降ってくる。陸は城島から受け取った書類が入った封筒を、濡れないようTシャツの中に隠した。雨は次第に強くなっていった。通りを歩いていた人々も、小走りに陸を通り過ぎていく。


陸は走ろうとはしなかった。雨に打たれたまま、ただあてどなく歩いた。

この心細さは何事だろう。父親に絶縁を申し出たのは自分だったのに、親からはぐれて迷子になった子供のような、この心細さは。



フラフラと街をさまよう間、雨脚はさらに強くなっていった。陸は立体駐車場の入り口に逃げ込んだ。無人の駐車場で、車の出入りは頻繁にはなさそうだった。

壁に背を預けて座り込み、そこから街を眺める。急ぎ足で通り過ぎる人、色とりどりの傘、車の立てる水しぶき。雨で立ち上る空気はアスファルトとカビの匂い。真向かいにある工事中のビルでは、ぐっしょり濡れた青いビニールシートが、重々しい存在感を放っている。




どれくらいそこでそうしていただろう。

突然、ふと人影が陸の前で止まった。顔を上げると、そこにビニール傘をさした汐屋がいた。


「…やっと見つけた」


朗らかに、汐屋が言う。どうしてここにいるの、と訊けるほどの余裕はなかった。寒くもないのに唇が震えていて、声が出なかった。吐く息が生ぬるく顔に当たる。


「…急に降ってきたから、きっと陸が困ってると思って」


困ってる?確かにそうかもしれない。困ってるというより、戸惑っているような感じもする。

汐屋が傘を閉じて、陸にもっと近付いてきた。優しい汐屋の微笑み。薄暗い駐車場の中に、白い顔がふわりと浮かぶ。汐屋はまるで天使だ。


「……おれ…あの人が嫌いだった…おれの欲しいものぜんぶ持ってる、兄貴が大嫌いだったんだ」


陸は、俯きながら呟いた。

高い背と長い手足を持ち、煙草をふかす姿が映画のように様になって、ニヤリと笑う顔が憎たらしいほど決まっていた兄。将来有望な絵描きとしてデビューし、自分の家を持ち、汐屋まで手に入れていた兄。


「でも、さ。死んじゃったら文句も言えねえじゃん?ズリィよ…そんなのはさ」


羨ましかった。妬ましかった。何度も成り代わりたいと思った。


「…でも、親父が兄貴の絵を売るって言った時、自分でも信じられないくらい頭に来た。自分のことみたいに、頭に来たんだ」


おれ、本当は兄貴のこと、好きだったのかな。

そう呟いた陸の言葉に、汐屋は「そうだね」と静かに答えた。


「ねえ、陸。おれたちってさ…」

「……」

「おれたちって、まるで、正行に捨てられた子猫みたいだね」


顔を上げると、汐屋は笑っていた。余計なものを削ぎ落としたかのようにさっぱりと、それでいて目だけが意思的で悲しい笑顔だった。


「帰ろう?陸。帰って、2人であったかくなろう?」


汐屋が手を差し出す。青白い空気の中に、汐屋の右手はいっそう白く、掴んでも通り抜けてしまうのではと思った。立ち上がる気のない足に力を入れて、上体を伸ばし、その手を取った。力強く温かい汐屋の手は、しっかり陸の手を握り返した。










汐屋の部屋に上がると、2人は無言で寝室へ向かった。

口付けもそこそこに抱き合った素肌からは、微かな雨の匂いがした。緊張で指が震えることも、睦言を交わすこともなかった。兄に対する罪悪感は、もう感じない。ただ互いの体に溺れた。体を重ねたからと言って心が満たされるわけではなかったけれど、どうしても今、自分たちにはこれが必要なのだと思った。この夜が2人にとって大きな前進で、分岐点でもあることを、確かめるまでもなく知っていた。


汐屋の腰を抱き締め、丸い肩口に顔を埋めながら、陸は初めて汐屋の肌を感じながら眠った。降り止まない、雨の音を聞きながら。










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