7‐1.
父親が店を出てから、陸は桐島に深く頭を下げ、書類を受け取った。兄貴の個展をどうかよろしくお願いします。そう言って、桐島とは店の前で別れた。
歩き出そうとすると、背後から汐屋に呼び止められた。振り返ると、悲しげに眉を下げた汐屋と目が合う。
「どうして言ってくれなかったの」
それは陸を非難するというより、むしろ陸以外の誰かに向かって「どうしてこんなことになったの」と言っているように聞こえた。悲しげで、そして深く絶望しているような声。
陸はごめん、と言ってから、汐屋に向き直った。
「ちゃんと決心してから言おうと思ってたんだけど…」
「おれに何も言わないで、勝手に決めちゃうつもりだったの?」
汐屋はさらに言い募る。陸はふっと笑った。そんな言い方はずるいよ、シオくん。自分だっておれに何も言ってくれやしないくせに。
「だってしょうがないよ。会社の決定だし」
言い訳のように言う。本当は陸が断れば、陸の代わりの人間がちゃんと収まるだろうけど、それはあえて言わなかった。
汐屋はまだ納得がいかないようだった。言いたいことがあるのにうまく口にできないようで、悔しそうに唇を噛んでいる。陸の目から見ても、明らかに汐屋は動揺していた。かわいそうに、と陸は思った。自分がそうさせているくせに、汐屋をかわいそうだと思った。でもこれ以上2人の距離が縮まらないのなら、陸はもう待てなかった。疲れていた。ひどく、疲れていた。
汐屋は目頭にぎゅうっと力をこめて、陸を見つめた。
「…ずっと一緒にいてくれるんじゃなかったの」
蚊の鳴くような声だったけど、陸の耳はきちんと汐屋の言葉を拾った。
その言葉の意味が脳に届いた時、陸は何だかおかしくて笑った。おかしくて、そして悲しかった。
「シオくんはおれをどうしたいの。おれにどうして欲しいの」
小さな子供に言い聞かせるように言う。
汐屋といると時々、陸は自分の方が年上のように思えることがある。汐屋が愛されて育った人間だからだろうか。暖かい家庭の中で育って、いつでも必ず自分の考えていることをどこかでわかってくれて、受け止めてくれた誰かがいたから。だから汐屋は無意識に甘えるし、無意識に残酷にもなれるのだ。
「シオくんは、おれとどうなりたいの」
もう一度、たずねる。汐屋はしばらく考えて、わかんない、と呟いた。
「わかんない、じゃダメだよ。ちゃんと言ってくれなくちゃ、おれだってわからない」
黙って見つめ合ったまま、どちらも視線を外さなかった。やがて汐屋が戸惑ったような表情で、口を開いた。
「…どうして今までとちがっちゃうの」
どうしてこのままじゃいられないの。
陸は答えなかった。このままっていったい何?そう思ったけど、言わずにおいた。こんな場所で、こんな状況で、いったい何をどう言えばいいというのだろう。
陸にはまだ先ほど父親から受けた言葉の棘が刺さっていて、うまく頭が働かなかった。
自分よりも汐屋の方がよっぽど現実の中にいる、と思う。陸本人でさえ考えあぐねていた転勤という将来が、汐屋の言葉によってどんどん現実味を帯びていく。
汐屋は突然くるりと背を向けた。そのまま一人で歩いていってしまう。追いかけてくるな、と背中全体が語っている。
陸はしばらくその場に立ち竦んでいたが、やがて汐屋とは正反対の方向へ歩き出した。これで最後か、という父親の言葉を思い出しながら、どこへ向かうでもなく、歩いた。
正行の山荘で過ごしていた時、仕事の邪魔をしてはいけないと思い、汐屋は陸と2人でよく近くの森へ散歩に出かけた。
夏にはコナラやクヌギの木でクワガタを見つけ、冬には積もった雪でいくつも雪だるまを作った。
あの家にいる時、正行と一緒にいる時間より、陸といる時間の方がよほど長かったように思う。幸福な時間は圧倒的に正行といる方だったけど、陸と過ごす時間もまた楽しくて、掛け替えのないもののように思っていた。
ある日、いつものように散歩をしていると、雑木林の中で、みぃみぃと鳴く小さな声を聞いた。声のする方を探してみると、大きな杉の木の根元に、子猫がいた。
陸は「おおっ」と嬉しそうな声を出した。寄っていって、胸に抱き上げる。子猫の傍には毛布の入ったダンボールが置いてあった。野良猫が産んだのではなく、飼い猫が産んだものを捨ててしまったのだろう。
本音を言うと汐屋は動物が苦手だったのだけど、陸の手前は平気な顔をしていた。
可愛いね。まだ小さい。置いてったらきっと死んじゃうよね。でも、飼えないよね。そう言い合いながら、結局陸は子猫を帽子に入れ、正行の山荘まで連れて帰った。
正行は、うちじゃ飼えないぞ、とすげなく言った。
―おれは仕事に没頭すると猫のことなんか構っていられなくなるし、おまえらもそうしょっちゅう来れるわけじゃないだろ?2人ともペット禁止のアパートだし、里親を探す他ない。
理路整然と言い渡され、陸は何も意見できなかった。何も言い返せなくて悔しい、というよりは悲しそうに、腕の中の子猫を見下ろしていた。その様子を見て、汐屋も悲しくなった。
子猫を飼うことができないのは、もちろん汐屋もわかっていた。けど、そういう常識や大人の規範というものが、陸と一緒にいるとなぜかいつもぼやけてしまうのだった。
叱られたわけではないのに、正行の信頼を失ったような気がして、2人して途方に暮れる。
正行の言葉は正しい。けれど、「正しい」ということは時に、非情なまでに人を打ちのめすのだった。
*
陸が自分に何も言わず、遠くへ行ってしまうと聞いた時、汐屋は体の芯から動揺した。現実を突きつけられ、鳩尾がひやりとした。
陸は本当に九州などへ行ってしまうのだろうか。もう自分を訪ねてきてくれることも、なくなるのだろうか。
くれる、くれないなどと考えている自分が、おかしかった。そんな関係だっただろうか、自分たちは。
汐屋は歩みに半ば怒りを込めながら、ずんずんと歩いた。商店街を抜けると、住宅街に出た。道端で立ち止まって井戸端会議をする主婦たち、その周りには子供たち。手ぶらのまま怖い顔をして歩く自分は、きっと夜が更ければ不審者として通報されてしまうだろうな、と思った。
汐屋は自分の顔がひどく強張っていることに気付いていた。仕事でもプライベートでも、いつでもどこでも笑顔を作れることが、自分の武器だった。でも今はうまく笑える自信がない。
わかっている。陸に傍にいて欲しいと願うのは、ただの自分の我侭だ。陸が自分に優しいのは、陸が善良な人間だからじゃない。わかっていた。本当はずっと前から、わかっていた。
正行と陸の父、本田氏が言った言葉は確かに子供を亡くしたとは思えないほど非情に思えた。けれど、そんな父親に真正面から啖呵を切った陸は頼もしかった。兄の絵を守っていくと宣言した陸は、すでにもう一人前の大人の顔をしていた。
九州への転勤だって、すばらしいことではないか。陸の歳で自分の店を持てるなんて、本当に恵まれている。喜ばしいことだ。でも。
こんなつもりではなかった。正行を失い、その上陸まで失うかもしれないなんて。こんな不当な仕打ちはないじゃないか。神様はなんて意地悪なんだろう。こんなのはひどい。本当にひどすぎる。
歩いても歩いても、どこにもたどり着けないのに、それでも歩いた。瞼が熱い。喉の奥が圧迫されたように苦しい。
自分に何も言わず遠くへ行こうとする陸が憎い。憎くて、怖くて、恨めしい。陸が恨めしい。
恨めしさはしかし長くは続かず、翻って、愛情になる。
憎い。
けど、陸が愛しい。
陸が、おれは愛しい。
空気を吸うように、自然に、そう思う。
切なさを湛えた陸の目を思い出す。汐屋は歩みを止めた。翻った心に従って、くるりと方向転換すると、汐屋は来た道を走り出した。