7.
兄の山荘に遊びに行くと、汐屋はいつも「おかえり」と言って出迎えてくれた。ここは兄の持ち家で、陸は兄弟とはいえただのゲストだ。なのに汐屋はいつも必ずそう要って陸を出迎えてくれた。その柔らかく暖かい笑顔を見ると、無条件に陸も笑顔になった。
兄と別々に暮らし始めてから、兄弟の絆は薄れていったけれど、それでも幾度となくあの山荘を訪れたのは、その一言と笑顔をもらいたかったから。
だけど本当は。陸は思う。
疲れて帰ってきたものをいたわり迎えて、そして言う「おかえり」を、何よりも欲していたのは汐屋だったのではないかと。
汐屋にも少し歳の離れた兄と姉がいた。仲が良かったと言う。兄曰く『汐屋家はみんな優しい』そうで。
「お母さん、お兄ちゃん」などという気恥ずかしい響きを持つ言葉を、何の衒いもなく口に出せる汐屋だからこそ、兄は大事にしていたのだと思う。日向くさい幸せを汐屋に求めていたのだと、兄は照れたように笑って、自分に告白した。厳しい顔が常だった兄が初めて見せた、「明るい未来への展望」という期待に満ちた表情。子供っぽいと笑ったが、また妙に身にも沁みて、忘れずにいた。
汐屋はいつか兄とこの山荘で暮らすのだろうと思っていた。兄の仕事がもっと安定して、汐屋も今の仕事を辞めて、世間からはぐれるように2人きりで、ひっそりと。
それはきっと嫌になるくらい平穏で、幸せな空気に満ち溢れた暮らしになったことだろう。けれどその時、自分はいったいどんな顔をしてこの家を訪れたらいいのか、陸にはわからなかった。
今となってはそれももう、夢のような話だけれど。
企画部の桐島から陸と汐屋に呼び出しがあったのは、兄の二回忌をそろそろ迎える、晩夏の頃だった。
2人は初めて陸が桐島と顔を合わせた商店街の一角にある喫茶店で、桐島を待っていた。あれからもうすぐ一年にもなろうとしている。時の流れは残酷なほど速い。
兄の個展については、もうとっくに汐屋の手を離れ、桐島に一任されているらしかった。今日は詳しい日取りや展示方法などについて報告したいという桐島の申し出で、ここに呼び出されている。
「お待たせしました」
喫茶店のドアが開くと同時に、桐島の声が聞こえた。顔を上げて、陸は息を呑んだ。本当に、息が止まった。
桐島はもう一人と連れ立って現れた。仕立ての良さそうな濃紺のスーツを着て、白髪混じりではあるが豊かで整った髪をした紳士。陸の、そして正行の父親その人だった。
「なんで…」
「桐島さんからお電話を頂いたんだ。ちょうどこっちに戻ってきていたから、そのついでだ。おまえには何度か手紙を出しただろう?読んでもらってないみたいだが」
元気そうだなと言う父親の声が、ちっとも懐かしそうではないことに、心ならずも傷付いた。いつもそうだった。実際に血が繋がっているはずなのに、この人とはまるで養父と義理の息子のような距離を感じる。
「あの、初めまして。僕は正行の学生時代からの友人で、担当編集でもあった汐屋と申します」
汐屋もまさか兄の父親とこんなところで会うとは思ってもいなかったようで、いつもより少しだけ硬くなりながら挨拶をする。父親の方は「どうも、本田です」と簡単に返しただけで、汐屋にはそれ以上興味がないようだった。
「突然お呼び立てしてすみません。早速ですが、正行氏の個展について詳細が決まりましたので、まずはこちらの資料を…」
桐島は父子の関わりなど気にも留めず、書類をテーブルに広げ、つらつらと説明を始めた。陸はその内容の半分も聞いていなかった。なんで今さら現れるんだよ、と怒りで心を震わせる。
この人は無関係です、と桐島に叫びたかった。それでも何とか思い留まり、コーヒーを流し込みながらじっと桐島の口元を見つめる。
「…ということで、今回は入場料などは一切とりません。その代わり正行氏の絵本を販売し、その売り
上げのほとんどは児童福祉施設に寄付するという形で…」
「正行の絵画の方はどうなるんです?」
父親が口を開いた。桐島は一瞬ぽかんとして、慌てて説明を再開する。
「彼の作品はすべて、個展が終わった後も弊社の倉庫で大切に保管させていただきます」
「いや、その必要はありませんよ」
売ればいいじゃないですか。そう父親は言った。事も無げに。陸は怒りで目の前が真っ赤になったような気がした。隣で汐屋も息を呑んだのがわかった。
「欲しいと言って下さる方がいれば、その展示会で販売すればいいでしょう。その方が絵も無駄にならない」
「…無駄ってなんだよ」
陸は静かに口を開いた。我慢の限界だった。俯いていた顔を上げ、まっすぐ父親を睨み付ける。
「兄貴の絵を売る?あんた兄貴の何をわかっててそんなこと言えるんだよ」
「…落ち着きなさい、陸。私はただ、正行の絵が今よりもっと世に出るために、それなりの方法で絵の価値を高めた方がいいと言ってるんだ」
「あの、確かにただ絵を保管しておくよりは、欲しいと言って下さる方に売るのはいいと思います。でも正行本人の承諾を得ていないのに勝手に絵を売るというのは…」
陸をフォローするように汐屋が言う。しかし父親はじろりと汐屋を見遣り、「本人は亡くなっているのだから承諾も何もないでしょう」とピシャリと言い放った。汐屋もそれ以上は言い返す余地がなく、黙り込んでしまう。
重い沈黙が流れた。陸は膝の上で拳を握り締める。
沈黙を破ったのは、桐島だった。
「とりあえず、そのお話はいずれまた…私の一存では何とも言いかねますし…」
「決まったら一応また連絡をください。もし絵画を売るとしたら相当な金額になるでしょうし、そうしたらこの子に管理できる問題ではなくなってくるので」
「なんだよ、それ…おれが兄貴の絵を売った金で生活するとでも思ってのかよ!?」
思わず、大きな声が出た。父親が眉をひそめる。店内にいる客の視線がこちらに集中している。でも構ってなどいられなかった。
「兄貴は自分の作品を簡単に売ったりしなかったんだよ!大事な人にだけ、元も取れないような値段であげてたんだ!なのに、亡くなった途端にぜんぶ売り払うなんて、そんなことおれが絶対に許さねえ!」
陸は立ち上がると、父親の手から書類を奪った。
「帰れよ。あんたとおれたちはもう他人だ。おれはもう大人だし、あんたなんかに頼らずに一人でやっていける。だから、もう帰ってくれよ」
「一人でやっていける?おまえが?どうやって」
バカにしたような口調と、見下げる態度。陸はたまらず、怒りに任せて言った。
「今度カフェの支店を任されることになったんだ。将来的には自分の店が持てるんだよ。立派な自立だ」
「えっ…なに、それ」
陸の言葉に反応したのは父親ではなく、汐屋の方だった。陸はハッとしたが、言ってしまったものは仕方ない。
「…こないだ店長から話があってさ。オーナー店を持たないかって…その、九州の方で」
「九州!?」
汐屋は絶句し、陸を見つめる。こんな状況で打ち明けることになるなんて。陸は唇を噛んだ。そしてますます父親を恨んだ。
「とにかく、もう帰ってくれよ。兄貴の作品もぜんぶおれが守っていく。だからもうこれ以上おれたちに関わらないで」
怒りは、いつしか悲しみになっていた。自分はこの人のことを理解できないし、理解してももらえない。親子なのに。今やたった2人きりになってしまった家族なのに、これほどまでに遠ざかってしまった。そのことがただ悲しかった。
父親は黙って立ち上がり、桐島に軽く頭を下げた。それから、陸を振り返った。
「…これで、最後か」
陸を見つめる目は平淡だった。それは可愛い息子を見るというより、自分には手に余る若者を見るような目だった。
「誤解されているようだが、おまえたちのことはちゃんとそれなりに愛してはいたんだ。ただやり方がわからなかった」
父親は寂しそうに、そう言った。陸はこの時、父親のことを初めてかわいそうな人だと思った。仕事の鬼で、母と不仲で、子供に愛されなかったかわいそうな父親。彼は家庭の中に居場所が見つからなかっただけかもしれない。でも、それを改善しようという努力もまた、できない人だったのだ。
「…さよなら、親父。もう2度と会えないだろうけど、元気で」
最後に一瞬だけ、陸は父親に笑顔を向け、そう言った。




