6‐3.
お疲れ様でした、と新米スタッフが陸に頭を下げる。はい、お疲れ様。陸も笑顔を返しながら、彼女がロッカールームへ向かう後姿を見送る。
午後10時過ぎ。店内には2組のカップルがいるだけで、やってくる客も少ない。こんな日は早めに店を閉めてしまいたいが、そんな権限がるはずもなく、陸はおとなしく明日のための下準備を始めた。
グラスを拭いている時、パンツの後ろポケットで携帯電話が震えた。見ると、汐屋からだった。驚いて息を呑む。汐屋から電話があったのは久しぶりだ。
陸は通話ボタンを押そうとしたが、その瞬間店のドアが開いて、客が入ってきてしまった。まだやってますか?たずねられ、はい、どうぞと急いで笑顔を作る。
汐屋から陸の携帯電話に着信があったのは、過去に一度だけ。兄が交通事故に遭ったという知らせを受けた、あの時だけだ。
嫌な予感が胸を過ぎる。忘れていた記憶がフラッシュバックするように、脳裏に次々と浮かぶ。
サーバーからビールを注ぎながら、陸の頭の中はすでに汐屋のことでいっぱいになっていた。
*
アパートの部屋にたどり着くと、汐屋は転がるようにベッドへ倒れこんだ。居酒屋で付いた酒と煙草と揚げ物の匂いが、ふっと漂う。
一呼吸して気を落ち着かせると、汐屋は起き上がり、ジャケットを脱いだ。薄いカットソーだけになると、途端に身震いする。寒いのか、それとも不快感からか、体の震えが止まらない。
「正行」
呆然と、名を呼んでみた。何の気配もない空っぽな部屋。
「正行」
もう一度、呼ぶ。今度はもっと強く。声は天井に吸い込まれていく。得体の知れない恐怖はまだやまない。
ここは安全な場所だったはずなのに。正行との思い出に溢れ、いつだって守られているはずだったのに。
どんなに悲しくても、死にたくなるほど恋しくても、この部屋にいる限りは正行の気配をまだ感じられていた。なのに今、震える体を抱きしめてくれる腕はない。優しい言葉を掛けてくれる声も聞こえない。
汐屋は開け放ったままだったカーテンを急いで閉めた。バスルームの小窓も、玄関からリビングに続く扉も閉めた。そうしなければ、正行の気配が完全にこの部屋から出て行ってしまうような気がした。
リビングに戻ると、部屋の中央に立ち竦み、汐屋はなおも正行の名を呼んだ。喉と目の奥が圧迫されて、苦しいようになってから、涙が滲んだ。それでも何度も名前を呼んだ。
正行、正行、正行。
しまいには「まぁあゆき」になった。子供が口にしたような、舌ったらずでか細い声だった。
まだ正行が近くにいた頃、真正面から名前を呼ぶことは難しかった。知り合った頃は「本田さん」「汐屋くん」と呼び合い、もっと近しい間柄になって、何度か体を重ねた後でようやく「正行」と呼べるようになった。それでも必要な時以外、何の用もなく名前を呼ぶことはできなかった。単純に恥ずかしかったのだ。
正行の方はいつも、軽々と汐屋の名前を呼んだ。低く、湿った声で。まひる。そのたった一言だけで、自分を呼び止め、容易に振り向かせることができた。
何、と答えると、「コーヒー淹れて」とか「この絵ちょっと見てみて」とか、他愛ない用事を言いつけた。
あるいは、正行はただ「まひる」とだけ言って、黙って微笑んだ。後に続く言葉を待って黙ったまま見つめ合っていると、汐屋の方がいつも根負けして、なんだよ、と苦笑しながら口を開く。呼ばれて嬉しいはずなのに、変に尖った声になった。名前を呼ばれただけで喜んでいるような自分を、正行に見透かされるのが癪だったのだ。
まひる。
誰かが言った。どうせ幻聴だと思って無視をした。
まひる。
もう一度、呼ばれた。今度ははっきり聞こえた上に、それが正行の声ではないこともわかった―実際、そんなわけはないのだけど―。
驚いて、体を硬くしたまま振り返る。
開け放たれたドアの向こう、ポケットに手を突っ込んで憮然とした表情で陸が立っていた。
*
やめろよ。もうやめろ。
そう思いながら、陸はドアを押して中へ入った。汐屋が今一番誰を必要としているかなんて、わかり切っていた。それでも構うもんか。怒りにも似た気持ちで、汐屋の背中を見つめた。
仕事の合間に、陸は汐屋に電話を掛けた。しかし、電話はいつまで経っても繋がらない。
まさか今度は汐屋が事故に?
嫌な想像を駆り立てられ、いてもたってもいられず、陸は店長に頼み込んで店を早退させてもらった。汐屋のアパートに向かって、がむしゃらに走る。
アパートの鍵は開いていた。玄関には見慣れた汐屋の靴がある。帰宅しているのなら、なぜ電話に出ないのだろう。胸騒ぎは治まらないまま、陸はゆっくり部屋へ上がった。
リビングへ続くドアの手前に立つと、奥から汐屋の声が聞こえてきた。耳をそばだてると、汐屋は兄の名を呼んでいた。何度も、何度も。声に出せば出すほど苦しそうに声が歪む。たまらない、と思った。
初めて下の名前で呼んだ。彼は驚いて、目を丸くしている。すでに涙目だ。
ここにいるのは、本当に汐屋だろうか。汐屋はまるで子供のように小さく、頼りなく見えた。
「なんで、呼ぶの?」
しばらく見つめ合った後、汐屋が強い口調で言った。
「なんで陸が呼ぶの!?」
「………」
「なんで陸が呼ぶんだよ!」
汐屋は怒っていた。おやつを取られた子供みたいに。顔を真っ赤にして、頬に流れる涙をそのままにして。ついにはしゃがみこんで、顔を伏せて大泣きし出した。
陸は傍にしゃがんで、肩を抱こうと腕を伸ばした。手を背中に回した時、汐屋は急に顔を上げ、陸の首に両腕を回して抱きついてきた。
苦しいよ、シオくん。
陸が言うと、汐屋はますます強く抱きついた。
苦しいって。
苦しい。
シオくん。
シオくん、と呼びかけながら、陸も汐屋の背中を強く抱きしめた。頭を引き寄せ、髪を撫でる。
「陸」
「……何?」
「陸」
「何?シオくん」
「…まひるって言って」
まひる。
うん。
まひる。
……うん。
陸だ。陸だね。
「ねえ、陸」
怖いよ。
陸の肩口に顔を押し付けたまま、汐屋は呟いた。聞き取れないほど小さな声で、陸はその声音を耳ではなく、体で感じ取った。
「何が怖いの?」
優しく、優しくたずねる。汐屋はぐずぐずと泣きながら、苦しそうに息をすると、やがて言った。
「…正行を忘れそうで」
怖いんだ。
抱きつく力がますます強くなる。震える汐屋の体を温めるように、陸も腕に力をこめた。
汐屋の体は、こんなにも細かっただろうか。こんなにも冷たかっただろうか。声は、匂いは、こんなに儚いものだっただろうか。
「…大丈夫。忘れないよ。絶対忘れない」
長く抱き合っている間、九州への転勤のことも、可愛い後輩のことも、兄のことも、すべてが自分から遠ざかっていくような気がした。
汐屋一人分の命の重みを、今自分が抱きしめている。そう思うだけで切なくて、どうしようもなく愛しくて、胸がいっぱいになった。
陸はいつまでもいつまでも、汐屋の背中を撫で続けた。