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6‐2.


コピーライターの仕事は順調だった。2ヶ月も経たないうちに、汐屋はもう営業とタッグを組むこともなくなり、一人で取材まで任されるようになっていた。汐屋が密かに「ブランド」と呼んでいる営業の男は、今は別の特集ページを任されているらしい。そう言えば春は昇進の季節でもあるんだなと、遠ざかった会社の組織というものを懐かしく思った。


春はまた、新入社員を迎える季節でもある。この日、汐屋は取材を一つ終えると、夜から新人の歓迎会に招かれている。汐屋は会社自体には属していないが、外部スタッフとして紹介したいと言われ、付き合いの一環として参加せざるを得なかったのだ。


仕事終わりに一息いれていたカフェから出ると、空はどんよりと曇っていた。汐屋はこれからのことを思うと憂鬱で、ため息をついた。仕方ない。これも社会人としての勤めだ。そう自分に言い聞かせ、足を動かす。

約束の時間まで後10分、というところで宴会場となる店の前に着いた。深呼吸し、身だしなみを整えると、汐屋は仕事用の笑顔を作る。




新人歓迎会には総勢15名ほどが集まった。居酒屋の奥の座敷で、部長だか課長だかのお決まりの挨拶があり、それから新入社員4名が意気込みを語る。

汐屋は乾杯の一杯だけビールをもらい、後はウーロン茶をひたすら飲み干した。騒がしい場のおかげで、汐屋がどの料理にも箸を付けないでいることを気にする者はほとんどいなかった。ほとんど。つまり、ブランド以外は。


「汐屋くん、酒ダメだんだっけ?じゃあもっと飯食いなよ」


そう言って汐屋の肩を馴れ馴れしく抱く。厚く、がっしりした手だった。吐き出す息はすでに酒臭い。何だってこの人はこんなに近くで話すのだろう。


汐屋の学生時代の友人たちの中にも、こんな風に酔っ払うと汐屋の肩を抱いて、楽しげに揺する人間がいたけれど、それは仲間内だから笑って許せる範囲の行動だ。営業という職業柄なのか、ブランドの横柄な態度はどうしても気に障る。


午後10時を回った頃、汐屋はそろそろ義理は果たしたと思い、腰を上げた。


「おれ、そろそろ失礼しますね」


そう言った瞬間、ブランドは驚いて顔を上げた。


「もう帰るの?」

「はい、すみません。明日ちょっと予定があって」

 

口からでまかせだったが、そう言えばまず引き止められることはないと心得ている。ブランドはがっかりした表情を浮かべたが、次の瞬間にはもうニヤリとして、おれもちょっとそこまで行くよ、と腰を上げた。煙草切れちゃったから、と言い訳のように付け足す。汐屋にとってはどうでもいいことだったが、後を付いて来られるのは何となく不気味だった。


煙草の自販機は店の出入り口にあった。汐屋は振り返って軽く会釈し、ドアに手を掛ける。その瞬間、背後から呼び止められた。


「汐屋くんさ、本田正行と恋人同士だったんだって?」


背中がひやりとした。注意深く息を吐き、汐屋はゆっくり振り返る。


「それが、何か?」

「別に。ただちょっと興味深いと思って」


残念だったよね、彼。これからって時だったのに。そんなことを言う男の顔は、どこか楽しそうですらあった。不快感と嫌悪が湧き上がってくる。


「なんか影があるなと思ってたんだけど、そういうわけだったんだ」

「何が言いたいんですか?」

「汐屋くんさ、これからちょっと飲み直さない?2人でさ」


汐屋の問いには答えず、ブランドは顔を寄せてくる。正行と陸以外、他人にここまで近付かれた経験はない。汐屋は恐怖を感じ、思わず俯いた。目の前の男がふっと笑う気配を感じる。


「汐屋くんて、なんか艶があるよね。雰囲気も柔らかくて丸いし、話す声も可愛い」


褒められているようには聞こえなかった。酒臭い息が気持ち悪い。目を合わせることも怖くて、汐屋は足元だけを見つめる。

何も言い返せないでいると、頬に手のひらが伸びてきて、汐屋はそこでようやく顔を上げた。


「用があるので、失礼します」


慌ててそれだけ言うと、後は逃げるように店を後にした。




わかる人にはわかってしまう。自分が男と付き合っていた人間だと。今までにも何度かそういうことはあった。街で突然声を掛けられたり、取引先の上役から仕事とは無関係の席へ誘われたりもした。でもその時は、汐屋は強い意志ですべて撥ね退けられていた。正行がいたから、何があっても怖くなかった。

今日上司からセクハラ紛いのこと言われたよ。そう言って笑って話せていたし、正行もちょっと心配そうにしながら、気を付けろよと言って優しく抱きしめてくれた。自分には正行がいるから、どんな誘惑にも負けないし、屈辱にも耐えられる。そう思うだけで心強かった。正行がいた頃ならば。



シャッターが閉まった店の軒先に入り、汐屋は携帯電話を取り出した。電話帳から陸の番号を呼び出す。まだ陸は働いている時間だ。わかっていても、今どうしても陸の声が聞きたかった。ボタンを押す指先が震えていることに、自分で驚く。恐怖は、後から後から溢れてくる。

数回コールが続き、留守電に繋がった。それもそうだと落胆しながら、汐屋はまだ諦められず、陸の勤め先のカフェにまで電話をしようとして、何とか踏み止まった。自分がひどく滑稽に思えた。


陸。陸。助けて。携帯電話を握り締め、強く願う。

ふいに汐屋の前を人影が過ぎった。あの男が追ってきたのかと一瞬身を硬くしたが、見知らぬ人だった。ほっと息をつく。バカバカしい。いい歳をした男が、こんなに怯えているなんて。


汐屋は片手に携帯電話を握り締めたまま、追ってくる恐怖に身を竦めながら、暗闇の中を走って行った。





































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