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6‐1.


汐屋が取材で各地を飛び回っていたその頃、陸は店のカウンターの向こうで、新米スタッフの子に丁寧に仕事を教えていた。


エスプレッソはこのデミタスカップね。それで挽豆をこのフィルターホルダーに入れて、マシンにセット。ここまで大丈夫?


陸の説明が終わるたび、「はい」と元気よく返事をするその子は、今年大学を卒業したばかりでこの店に入社した女の子だった。今は研修期間中で、陸がメンターを勤めている。

新人教育を任されるのはもちろん初めてだったが、先輩という立場のおかげで、普段は人見知りする陸も気負わず接することができた。

返事をするたび、短めのふわふわした髪が肩の上で揺れる。全体的に色素の薄い感じがする子だった。頼りなげ、というのだろうか。笑顔が可愛くて、きっとすぐにお客さんたちにも気に入られるだろう。


平日の昼間を過ぎた、比較的空いている時間帯。カウンターに2人で並びながら、ぽつりぽつりと話をする。こんな穏やかな時間をしばらく忘れていた気がする。女の子というのは、そこにいてくれるだけで周りの雰囲気を柔らかくできるものなんだな、と改めて思った。汐屋といる時とは違う、凪いでいる海のように平穏な気持ちでいられる。



陸にその話が持ち上がったのは、午後の休憩時間の時だった。


「陸、ちょっと来てくれないか」


今ではすっかり店のことを陸に任せきりにしている店長が、店の奥の事務所へ陸を呼び出した。年齢が2つしか離れていないこともあり、店長は陸を下の名前で気軽に呼ぶ。笑うと細い目尻に皺が寄り、目が見えなくなるくらいの笑顔になる、愛嬌があって世話好きなこの店長が陸は好きだった。


狭い事務所の中には小さな丸テーブルを囲うようにイスが3つあり、店長はその一つに腰掛けている。陸も斜めの席に腰を下ろすと、店長は珍しく神妙な表情を作って、言った。


「うちの会社のオーナー店制度って知ってるか?」


陸は首を横に振った。研修や定例会議にはきちんと出席しているけれど、現場のこと以外に興味が薄かった陸は、会社の方針や制度についてはいつも右から左に流していた。


「自分の店を持ちたいって人間に出資して、新しく店を開店させようってやつだよ。始めは借金を抱えることになるし、会社にも売り上げの2、3割は引かれるけど、でもその店の経営はぜんぶ自分で仕切れるんだ。もちろん店の名前から外装、従業員やメニューに至るまですべての決定権があるわけ。しかも借金を返し終わった後は、その店はもう自分のものにできる。まあいわゆるフランチャイズってやつだな」

「はあ」

「んで九州地区にそろそろそのオーナー店を出店しようってことになってるわけ」

「はあ」

「で、そこの支店の店長にな、おまえを推薦しようと思って」

「…はあ!?」


陸は目を丸くさせ、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。まさに寝耳に水だった。


「福岡に良い物件があるんだよ。うちもそろそろ全国展開しようって話が出て、それを機に、こいつはって思う人材を推薦してほしいって言われてさ」

「え、なんでおれ?だってあんたの方がよっぽどキャリアあるし…」

「おれにはこの店があるし、奥さんもいるし、もう腰を落ち着けようと思ってさ。それに比べたらほら、おまえはその……身軽だろ?」


少し遠慮がちに店長が言う。身軽。言われてみて、確かに自分ほど身軽な人間はいないだろうと思い至る。兄が亡くなり、結婚もしていない若い自分に白羽の矢が立つのは当然だった。


「まあそれだけじゃないけどな。おれはおまえの能力を高く評価してるわけ。特に最近は新人の教育にも力を入れてくれてるしさ」


ちょっと考えてみてよ。返事はもう少し待つから。

店長はそれだけ言うと席を立った。陸はイスに座ったまま、しばらく呆然として動けなかった。


九州。見知らぬ、遠い土地。一度行ったら、多分しばらくは戻ってこられないだろう。向こうで店を持つということは、そこに永住する覚悟を持つということだ。いつかはそこで家を買い、誰かと恋愛して、結婚して、家族のために働く。それが普通の人間が望む、普通の幸せというものだろう。

考えもしなかった。自分がそんな風に大人になっていくことなど。



ぼうっとしたまま、陸は煙草を吸いに外へ出た。日の照る時間帯に外へ出ると、驚くほど風が暖かい。遠くに見える街路樹の白木蓮がもうぽつぽつと花を咲かせている。

一服し、深く息を吐く。店の裏側には、従業員用の喫煙所がある。今にも壊れそうな古びたベンチとスタンド式の灰皿があるだけの空間。

両足を前へ放り投げ、大きく伸びをすると、陸は体を前へ倒した。革靴が少し汚れているのが目に入る。

今度磨かなくちゃ。そう思った時、目の前に影が出来た。顔を上げると、そこには大輝が立っていた。両手にアイスティーが入ったグラスを持ち、ん、と唇を尖らせて一つを陸に渡す。素直に受け取ると、大輝は隣に座った。


「…あの人でしょ?」


大輝は静かに口を開いた。去年からまともに口を利いたのはこれが初めてだ。


「よく、お兄さんと来てたもんね。…っていうか、今さら気付いたんだけど、いつも2人で来てたんだよね」


グラスを両手で持ち、その手元を見下ろしながら大輝が言った。陸の方を見ないけれど、全神経を右側に集中させているような、少し緊張した横顔。


「気付かないおれがバカでした。ごめん」

「何言ってんの、おまえ」

「…応援?」

「は?」

「応援、しようと思ってる。おれは、陸の気持ちを」


大輝の手の中でグラスが揺すられ、氷がぶつかってカランと涼しげな音を立てた。手元にあった視線を陸に移し、しっかり目を合わせる。


「あの人は陸のこと、ちゃんと陸として認識してると思うよ」


『恋人だった人の弟』じゃなく。


「この前、一人でウチに来たんだ」

「…え?」

「陸はいないのかって。ちょうど非番だった時だよ」

「え、なんで?何しに?」

「決まってるじゃん。陸に会いにだよ」


初耳だった。今まで陸が汐屋のアパートを訪ねることは何度もあったけど、汐屋の方から陸を訪ねてくることなんて、今まで一度もなかったのに。


「…なんて言ったらいいかわかんないけど、あの人ちゃんと陸を見てるよ。おれ一応顔見知りだったから、ちょっと話す機会があってさ」


―すみません、陸は今日非番で…。

―あ、そっか…いや、近くまで来たから何となく寄っちゃっただけなんだけど。


どうぞ入ってくださいと大輝が中へ促すと、汐屋はやんわり断った。


―陸がこの店で働いてる姿を見たかったんだ。


そう言って、どこか懐かしそうに目を細める。


―こんなの、おかしいよね。でも…陸がこの店にいてくれる、それだけで安心するんだ。

―…陸が、本田さんの弟だからですか?


大輝は遠慮がちに、でも少しだけ怒りを含めて汐屋にたずねた。―だって陸のこといったい何だと思ってるんだろうって、頭にきちゃったんだよ、と大輝は言った―汐屋は一瞬驚いた顔をして、それからおかしそうに笑った。


―それは違うよ。おれは一度も陸のことを正行の弟だなんて意識したことはないよ。だってあの2人、全然似てないんだもん。


「ああ、なんだこの人はちゃんと陸のこと見てるんだ、って。その時そう思った」


大輝がバカバカしいほど素直な響きを持った声で言った。陸に気を遣っているわけでもなく、ただ感じたありのままを。


「おれは陸とお兄さんは似てると思ってたけど、でもそうじゃないんだね。もっと深く知り合っていれば、当然ちがうもんだよね」


まして恋人同士ならさ。そう言って大輝はうんと一回大きく伸びをした。それから、綺麗な人だね、と付け足した。男だけど、でもなんか雰囲気が柔らかくて、綺麗な人だよね。


「もうおまえがゆりちゃんをフッたことも許すよ。あんな人が相手じゃ、並みの女の子じゃ太刀打ちできないもんな」


ため息と共に吐き出されたその言葉に、小さな違和感を覚える。


「おまえ、何?あの子のこと好きだったの?」

「…そんなんじゃないよ」


ただ、ちょっといいなって思ってただけ。大輝はどこかふて腐れたように唇を尖らせる。


「陸の方が大事だよ」


真面目な顔をして、大輝は陸を見つめながら言った。陸は面食らって、思わず泣きたいみたいな気持ちになる。


どうしてこいつはあっさりと、こんなことが言えるのだろう。大輝のその性質の良さを、陸は改めて羨ましく思った。自分もそうだったら良かった。汐屋に対して、ただ純粋に「大事だ」と言えていれば良かった。



「……りがと」

「はあ?なに?聞こえなーい」

「うるせーよ、バカじゃねえの?バーカ!」


陸は声を立てて笑った。笑い声と共に、体中の力が抜けていくような気がした。小さく硬く縮こまっていたものがふいにゆっくり解けて、手足の先から、頭のてっぺんから四散していく。



転勤の話、受けてみようかな、と思った。

汐屋に話したら、どう言ってくれるだろう。笑って「おめでとう」と言ってくれるかもしれない。その後で、少しだけ寂しそうな顔をしてくれるだろうか。それとも「行かないで」と引き止めてくれる?

陸は痛む胸を自覚して、苦笑いを浮かべた。自分に都合の良いことばかり。期待する気持ちが湧き上がるたびに、そんなことはありえない、と強く否定する自分がいる。


「本田さん、お店混んできましたよ」


後輩の女の子が陸を呼びに来る。今行くと答え、陸は腰を上げた。後輩はふわりと微笑み、陸が通るために道を空けてくれる。

自分が九州へ行くと言ったら、この子はきっと悲しんでくれるだろうな、と思う。大輝もきっと涙目になって抱きついてくるに違いない。想像すると、少しだけ胸があかるんだ。





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