5‐3.
ほとんどの民宿は釣り客で埋まっていた。みんな前日から泊り込んで朝早く釣りに出かけるそうだ。やっと一部屋空いているという旅館にたどり着いた頃には、もう日はとっくに暮れていた。
歩き回ってへとへとになった体を、豪華な食事が出迎えてくれた。汐屋はここでもほとんど料理を口にしなかった。旬のタコや地魚の刺身を一口だけ租借し、美味しい、と呟くだけ。陸は何も言わなかった。陸自身もあまり食欲がなく、豪華な料理は半分以上が手付かずのまま残ってしまっている。
重苦しい倦怠感が2人を包んでいるのを感じる。体の芯から疲弊して、自分の体重が何倍以上にもなったみたいに重だるい。
恋人同士であれば、苦労を苦労とも思わないでいられる。でも自分たちはそうではないから、ただひたすら苦しさで胸が塞がれる。そうすると、食欲はなくなる。陸にとって初めての経験だった。
風呂に入り、用意された浴衣を着ると、もうすることがなくなった。部屋にはすでに布団が延べてある。朝の早い釣り客はもうとっくに寝入っているのだろう。旅館の中はしんと静まり返り、海から届く波音だけが深くゆっくり響いてくる。
汐屋はテーブルの上に2通の書類を広げて眺めていた。散骨報告書と散骨証明書というもので、葬式業者からもらった。出航から帰港まで間違いなく実施し、散骨したという証。
「参拝できる場所もちゃんとあるみたいだね」
書面を見ながら汐屋が言う。陸が覗き込むと、業者側が用意してくれる参拝場所の説明があった。陸はそこからすぐに視線を外し、汐屋の顔を見た。汐屋の丸い目。くっきりした二重瞼。まっすぐな鼻筋、小さめの唇。ふいにその唇が開いた。もう寝ようか。
それで明かりを消し、2人は布団に入った。
夜は長かった。海の音が近すぎて落ち着かない。
昼間、兄を海に還したのに、とても現実のこととは思えなかった。兄は本当にこれでもう手の届かないところへ行ってしまった。でも、初めから陸にとっては遠い人だったような気もする。
汐屋はどうだろう。きちんと現実へ帰ってきているのだろうか。陸は不安に思った。
暗がりに浮かんだ汐屋の白い喉仏を見つめた。汐屋が飲み込んだのは、兄のどの部分だったのだろう。形の良い頭か、絵を描く右手か、それとも長い足だろうか。
そんなことを考えていると、その突起が緩く上下に動いた。汐屋が何か言い出すかと待ち構えたが、思い過ごしであったらしい。汐屋の瞼は降りている。しかし寝息は聞こえてこない。
以前兄から、汐屋の寝息がうるさいのと、時々寝言を言うのだということを聞いたことがある。だから確信はないけれど、陸には汐屋がまだ眠っているようには思えなかった。
ふと汐屋の目が開いた。陸が息を呑むと、汐屋はゆっくりこちらを向いた。
「……こっちに来る?」
「え?」
「眠れないんだろ?おれも寝付けないみたいだからさ。一緒に寝ようよ」
何を言い出すのだろう、この人は。陸は信じられない気持ちで汐屋を見つめた。
「言ってる意味わかってる?」
低い声で、静かにたずねる。汐屋は何も答えない。そのことが答えになった。
ただ黙って自分を見つめる汐屋の目線に耐え切れず、陸は乱暴に布団を剥いだ。そして汐屋の布団も剥ぐと、横向きになった汐屋の上に跨り、浴衣の襟に手をかけて肩口を大きく開く。
「陸」
短く自分を呼ぶ汐屋の声は平坦で、何の感情も窺えない。暗闇の中でさあっと白く浮かび上がった汐屋の肌は、まるで作り物みたいに硬い印象を受けた。馬乗りされたまま汐屋が身を捩り、正面を向く。陸は無言のまま、汐屋の浴衣の帯を解いた。その一連の流れを、汐屋もまた黙ったまま見守る。布団の上に所在無さげに放り出された汐屋の手を取り、空いた方の手を頬に添え、そっと顔を近付けた。唇が触れ合う直前、汐屋が目を閉じたのがわかった。
唇は温かかった。握り締めた手のひらと同じ程度には。
「…なんで抵抗しないの?」
触れていただけの唇を離し、鼻先が触れ合うギリギリの位置で陸は汐屋を見据えた。汐屋は目を開け、その瞳に陸の姿をきれいそのまま映した。
「…できないじゃん」
「あ?」
「できっこないよ。陸は」
強く確信に満ちた声で汐屋は言う。牽制しているわけではなく、ただ事実を述べているような口調で。
「…何でそんなこと言えるんだよ」
「見ればわかるよ。迷ってるって」
正行も同じだった。そう汐屋は呟いた。
「初めてしようとした時、勢いに任せておれを抱こうとした。できるわけないのに。抱いてあげなきゃおれがかわいそうだって思って、自分を押し込めるようにしておれのこと抱こうとした」
嘘だ、と思った。でも汐屋の目は当時を思い出しているのか、悲しそうに細められ、揺れている。
「普通ね、男同士が何の準備も知識もなくセックスするなんてありえないんだよ。本能に沿った行動じゃないんだ。おれは正行にちゃんと説明したよ。想像してるよりずっとリスクが伴うことだからね」
「……」
「でも正行はまじめで几帳面だから、ひとつひとつ手順を踏んで、きちんとおれのこと抱いてくれた。慣れるまでずいぶん時間は掛かったけどね」
ね、陸は知ってる?どうやってするのか。結構えぐいんだよ。漫画とか映画みたいに、キレイなものじゃあないんだよ。
汐屋は淡々と話した。そう言えば自分が臆すると思って。
陸は汐屋の肌蹴た体を見つめた。痩せてしまって、あばら骨が少し浮き出ている。痛々しい。それでもさっきまで陸は確実に欲情していた。気持ちが高ぶり、興奮した。なのに、さっきまで熱を持っていたはずの指先も、胸の鼓動も、逸る気持ちも何もかもが、今は嘘のように遠くへ過ぎ去ってしまっていた。
過去に一度だけ、ベッドに横たわる汐屋の姿を見たことがある。
店に出る前、陸は汐屋のアパートを訪ねた。何度ノックをしても出てきてくれない汐屋に痺れを切らし、ドアノブを回すと扉は簡単に開いた。声を掛けても汐屋が出てくる様子はなかった。寝ているのかと思うと、その通り汐屋は寝室でまだ横になっていた。
兄が来ていたのだとすぐに気付いたのは、寝室に残った煙草の匂いのせいだ。案の定、ベッドの上では布団からはみ出た汐屋の白く丸い素肌の肩口が見えた。
正行?と寝惚けた低めの声が囁いて、陸は体を震わせた。陸の存在にすぐに気付いた汐屋は、驚いたように飛び起き、慌てて笑顔を作った。
―あれ?どうした?陸。何か用事?
借りてたDVDを返しに、とほとんど言い訳のように呟いた自分の声は、ずいぶん情けなく響いた。
ああそっか。ごめん、寝坊しちゃってさ。そう言った汐屋の方もどこか言い訳らしい響きを持っていたが、陸は柔らかく笑う汐屋から目が離せなかった。
兄に抱かれた後の潤いある充足感と溢れ出る幸福感が、汐屋の微笑みの中に、まだ漂っていた。
汐屋の肌。汐屋の匂い。その温もり。
あの時あれほど手に入れたいと思ったものが今まさに目の前にあるのに、指先一つ動かすことができない。ぼうっと白い光を放つ汐屋の吸い込まれそうな肌を目の前にして、陸は泣きそうな気持ちになった。瞼の裏が熱くなり、先ほどとは違う熱で体中が焼けそうだ。
そこには、兄がいた。汐屋の白い肌の表面に。髪の影が落ちる、骨ばった頬に。
どこを探してもいなかった兄が。振り返っても、気配だけ残して消えてしまっていた兄が。
陸は汐屋の上から体を退けた。喉から嗚咽が漏れたが、それが自分の声だと気付くのに時間が掛かった。いつの間にか涙が溢れていて、夜の空気が陸の頬を冷たくなぶった。
「陸」
汐屋が自分を呼ぶ。それでも顔を上げられず、ひたすらしゃくり上げる。泣き止もうとすればするほど、気持ちを裏切って涙は溢れた。悲しいのか悔しいのか、自分で自分の感情がまったくわからない。
この人が欲しいと心から思った。
今なら自分のものにできると期待したはずが、昂った気持ちは情けないほどしぼんでしまった。
自分のものになど、できるはずがない。汐屋はまだ兄に属しているのだ。本人にその自覚があろうとなかろうと、それは確かだった。その汐屋を抱こうとすれば、確実に兄と対面する。
兄の思い出と現実に正面きって立ち向かい、そこから汐屋を連れ出すことなど、できるはずもない。そうするには、陸はまだ勇気も自信も足りないのだった。
ふわり、と汐屋の腕に抱きとめられ、陸は目の前の胸に縋った。浴衣の襟元はきちんと合わさっていたけれど、汐屋の肌の温もりは充分すぎるほど伝わってくる。陸は無我夢中で、汐屋の背中に腕を回して、掻き抱いた。子供が母親に縋るようなみっともないやり方で、そして子供以上に心細い思いで。
「ごめんな」
汐屋が言う。汐屋にはきっとこうなることがわかっていたんだろう。初めから。
その晩、汐屋はずっと陸の手を握っていてくれた。誰かと一緒に眠ったのは久しぶりだった。泣きすぎて瞼が熱く、体も火照っていてなかなか寝付けなかった。夜と明け方の境目に、カモメの鳴く声を聞いた気がした。