5‐1.
いつから絵が好きだったの。
汐屋は正行の指先を見ながらたずねた。え、と正行が顔を上げる。絵を描くことに集中していたから聞き取れなかったようだ。
―絵を描くこと、いつから好きだったの。
もう一度たずねる。正行は汐屋を見つめて模写している。山荘のベランダはひさしのおかげで明るい日差しから免れているけれど、薄いモヘアのセーターを着た体はぽかぽかと暖められ、何か話していなければつい眠ってしまいそうになる。
―小学生の頃からかな。もうよく覚えてない。
正行の口調はそっけない。汐屋を邪険にしているのではなく、ただ真剣に絵に向かっているのだ。
正行は汐屋に向かい合ってあぐらをかいている。汐屋は長時間じっとしていることに慣れず、脚を組み直したり、ベランダから突き出してブラブラさせたりする。そのたび、動くなよ、と正行は咎めた。くしゃっと笑って、しょうがねえなあ、と呟いて。
*
なぜ、あんなにも幸福であり続けられたのだろう。汐屋は今でも不思議に思う。正行を疎ましく思うことも、いっそ嫌いだと思うこともあった。ケンカをして悔し涙を浮かべたことも。なのに思い出の中の自分たちは、いつもとても幸福そうに微笑んでいる。
電車に乗って少し遠出をした。三が日を過ぎた午後の電車は空いていた。終点まで行き、そこから電車を乗り継いで、見知らぬ駅で降りた。緑が多く見える。高い建物は見当たらない。冷たい風が吹いて、汐屋はコートの襟元を合わせた。とりあえず、あてもなく歩く。
先日、陸から久しぶりに電話があった。あけましておめでとう、と律儀に挨拶した後で、兄貴の散骨の日取りが決まった、と告げた。千葉県の港町から船は出て、東京湾の中心へ向かい、そこで遺灰を撒くそうだ。
乗船する遺族は陸と汐屋だけ。親戚には遠慮してもらった、と陸は言った。もともと付き合いも薄くなっていたので、親戚方もそれで異存はないようだった。
うん、わかった。その日でいいよ。電話越しで、汐屋は答えた。
海はきっとすごく寒いだろうね、と言うと、陸はうんと頷いた。厚着してきてねと陸が言い、今度は汐屋がうんと答える。久しぶりの会話は5分にも満たなかったけれど、陸が元気そうだということがわかって、汐屋は満足した。
陸はいつもふいに汐屋の近くに降り立つ。びっくりするような登場の仕方は絶対にしない。正行のように、突然ふっといなくなったりもしない。まだ、今のところは。
歩いているうちに商店街に出た。立ち並ぶ店の半分はシャッターが閉まっている。こんな寂れた一角でみんなどうやって生活しているのだろうかと、ひやかしながら通り過ぎた。どこからか良い匂いが漂ってくる。多分おだんごだかたい焼きだかを焼いているのだろう。
正行も陸も、甘いものは好かなかった。姿かたちは似ていなくても、育った環境のせいか、味覚だけは似ている兄弟だった。汐屋は甘いものも好きだし、コーヒーより紅茶派で、酒も煙草もやらない。
商店街を抜けてからも、汐屋はあてどなく歩いた。アパートに一人きりでいてもつまらないし、かと言って用もなく陸を訪ねていったら迷惑だろうと思った。
一人になってみてわかったことは、24時間は思っているよりずっと長い、ということ。仕事がなければ特に一日は過ぎるのが遅い。
専業主婦はいったいどうやって時間を潰しているのだろうか。掃除や洗濯や料理は、大家族でもない限り、一日がかりでやる仕事ではない。
子供がいれば別なのかもしれない。自分より弱く小さなものを守るためなら、いくらでも時間を使えるのかもしれない。子供。汐屋がとっくの昔に持つことを諦めた、その存在。
家族には、戻ってくればと言われた。年末に実家へ帰った時、母親が優しい労わるような声でそう言った。こっちで仕事を見つけて、結婚して子供を育てて。そういう当たり前のことを、そろそろ考えてみてもいいなじゃない、と。
汐屋は少し笑って、でも真剣に首を振った。ごめんね、まだ無理そうだよ。
実家で振舞われたおせち料理は美味しかった。懐かしい母の味だった。でも夜中にこっそり起き出して、やっぱり吐いた。最近はそれでもパンを一切れとか、プリンを一口とか頑張って食べるようにはしている。食事と呼べるような量は無理でも、生きるためにギリギリの摂取はしている。そうしなければ陸が心配するから。正行もきっと天国で怒っているだろうから。
正行のことを思い出す時、えぐられるような寂しさに行き着くこともあれば、ただポカリと涙が浮かぶだけの時もある。涙は一粒流れ落ち、すぐに乾いてなくなる。ただそれだけのことで、後には何も残さない。
正行を思い出しても、その後で気持ちの持って行き場所がわからなくなる。悲しいなら悲しい、寂しいなら寂しいでいいのに、その後でどこにもたどり着かなくて、途方に暮れてしまう。まるで迷子になったみたい。もういい大人なのに。陸より7つも年上のくせに。
陸は今頃何をしているだろう。もうさっそく仕事に出ているかもしれない。エプロンを腰に巻き、颯爽と給仕する姿が浮かぶ。陸は愛想のいい方ではなかったけれど、いつも俯き加減で寡黙なその様子が少し寂しそうにも見えて、ギャルソン姿が様になった。口数が少なく、でも笑うと高い声が出る。大人っぽい顔付きをした陸。びっくりするくらい優しいと思ったら、突然感情的になって自分の唇に触れた陸。
正行を好きになりそう、と思った時、汐屋はその感情をただ素直に受け止めた。このままだったら、この人のことを好きになるかもしれない。ならば、好きになろうと決めた。そんなことはいけない、と止める声が心の奥から聞こえないでもなかったけれど、でもそれよりももっと強い何かが自分を突き動かした。心の強い部分も弱い部分も、すべてが正行に向かって流れていった。止めようがなかった。
陸もそうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。常識的に考えてみて、同性を好きになることなんてそう簡単には起こらない。陸は間近に自分たちを見てきたから、勘違いしてしまっているのかもしれない。もしそうだったらかわいそうだ。陸はきっとモテるだろうから。可愛くてステキな女の子と恋をするチャンスを、自分のせいでふいにして欲しくない。
そう思う一方ではまた、陸がこのまま自分の傍にいてくれたらいいのにとも思う。この距離を保ったまま、付かず離れず、安定した優しさで自分を包んでくれたらいいのに、と。
陸は、遠いけれど近い。けど正行ほどには近くない。正行には前触れもなしに肩や腕に触れることができた。陸にはできない。触れられない。
今まで正行に流れ込んでいた心は、今は宙ぶらりんになっている。どこにも行き着かず、ぼんやりと汐屋の周りを漂っている。
夕暮れが近付いてきて、辺りが黄金色に輝く。このままどこにも帰らないで済んだらいいのに、と思う。
どこからか民謡が聞こえてきた。子供たちに帰宅を促すチャイムだ。汐屋は先へ進むべきかどうか迷ったが、結局は来た道を引き返し、駅へ向かった。
どちらにしろ、帰る場所は実家でも、正行の山荘でもない。そして陸のいるあの店でもない。正行との思い出が溢れる、古びたあのアパートしかない。




