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4‐2.

兄が絵本作家として出品した作品は、過去5年間で20冊に満たない。そのうち代表作のシリーズが15冊以上。他に主な収入源として、本の挿絵や、飲食店や美容院などの店内装飾用のアートなども手掛けていた。それから絵本を上回る大量の絵画。あの山荘にあった分も入れると、結構な量になる。

個展を開くギャラリーは確か都心の一等地。期間は三ヶ月ほどだったか。考えるうちに、汐屋のアパートに着いた。


いつものようにドアをノックする。寝ているかとも思ったが、例えそうでも汐屋が嫌な顔をしないだろうことはわかっていた。

まだ陸が兄と一緒に暮らしていた頃も、兄と汐屋は互いの家を深夜だろうと明け方だろうと構わず行き来していた。約束なんかしなくても好き勝手に訪ねていける関係を、陸は心底羨ましく思ったものだった。


汐屋は案の定、すぐに顔を出した。いらっしゃい、と言って陸を中に入れる。

リビングのテーブルの上にはノートパソコンと大量のノートが置かれていた。兄のノートだ。汐屋は兄の作品の記録を整理していたらしい。


「兄貴の最後の作品が見つからないんだって?」


汐屋が淹れてくれた紅茶を飲みながら、陸はたずねた。汐屋も陸があげた大ぶりのマグカップで紅茶を啜りながら、頷く。そして陸の前にノートの中の一冊を広げてみせる。


「ほら、ここ。この最後の作品ナンバー。これだけがどこにもないんだ」


タイトルも完成した日付もまだなく、そこにはただナンバーだけが書かれている。


「どんなやつ?」

「…淡い色彩の、なんてこない絵なんだけどね」


でも、正行の最後の作品だから。汐屋はひっそりと微笑む。

兄の死後、整理のために山荘へ行った時、部屋中をこまめに調べ、何も描かれていない真っ白なキャンバスからスケッチブック、紙の切れ端に至るまですべて収集しつくしていて、陸にも汐屋にも、もう手掛かりは思い当たらなかった。


「どこか別に倉庫とか持ってなかったの?」

「ううん、あの家とうちの会社の倉庫以外にはない」

「誰かにあげたとか、売ったとかは?」

「売ったものならちゃんとここに記録がある。誰かにあげたって話は聞いたことない」


淡々と、汐屋は語る。その目は何も映していない。広げたノートを引き寄せ、びっしりと几帳面に並んだ文字を眺める。兄の文字はずいぶんと達筆で、それ故に読みにくい。担当者だった汐屋にしか解読できないこともあり、この作業は汐屋に一任されているらしかった。


汐屋はあれからまた少し痩せた。拒食は確実に続いているようだ。劇的な変化ではなく、ゆっくりゆっくりと、内側から蝕まれていくような痩せ方だった。

以前の大輝康だった汐屋は、細身だけどしなやかな筋肉があって、体付きも柔らかく丸みがあった。今はどこもかしこも痛々しい。肉体そのものも、そして纏う空気も。


「……そんな風に無理して働いたって、兄貴は喜ばないよ」


口に出した瞬間、後悔した。汐屋の目が一回すばやく瞬きをした。


「どうして陸にそんなことがわかるの?」


返した汐屋の言葉は、責めるようには聞こえなかった。純粋に、単純に質問したかのようだった。けれど目は陸を注視している。揺るぎなく、じっと。


「正行の夢でも見たの?正行がそんなこと言ってよこした?」


少しおかしそうに笑いながら、汐屋は言う。


「おれも正行の夢が見たいな。それか、いっそ幽霊とか」


冗談じゃない。陸は身震いした。汐屋は構わず続ける。


「幽霊でもなんでもいいから、会いたいな。会って訊ければいいのにね。この作品はいったいどこに隠してあるのって」

「…シオくん」


もうやめようよ。そう言おうとした陸を、汐屋は涙を湛えた目で制した。会いたいんだ。ぽつりと、呟く。


「会いたい。ただ会いたいんだ。おれが死んで、それで正行に会えるなら喜んで死ねる。それくらい会いたいのに、どうしてそれが出来ないんだろう。それくらい真剣なのに、どうしてそれを神様は許してくれないんだろう。ねえ、それほど思い詰めてるのに、どうしたらいいのかな」


汐屋は陸の方を見ながら、言った。けれど、瞳の奥は陸よりもずっと遠くを見つめている。ずっと遠く。おそらくは、兄を。


「……兄貴は死んだんだよ」


やっと、言う。汐屋は聞こえなかった振りをして、またノートを捲り始める。その手を陸が掴んだ。


「兄貴は死んだの」

「……」

「死んだ人間には、いくら願っても会えないんだよっ!」


怒りに任せ、テーブルの上のノートを払い落とす。汐屋がびくっと肩を揺らす。


「…なんでおれがあの店で働いてるのか、うざいくらい髪を伸ばしてるのか、少しは考えたことないの?」


なぜ自分がこんなにも汐屋の元を訪れるのか。もし本当に一ミリグラムもそのことに考えが及ばなかったとしたら、汐屋は大バカだ、と陸は思う。これだけ一緒にいるのに。何の下心も損得もなく―むしろ2人でいればいるほど辛い思い出が蘇ってくるのに―傍に居続けられるほど、自分はお人好しじゃないと陸は自覚している。


「……おれがいるよ」


いつも傍にいる。一番近くに。兄ではなく、生きている人間がいま目の前にいる。汐屋もちゃんと生きている。そのことをわかって欲しかった。今はまだ辛くても悲しくても、自分たちには未来がある。生きていることを省みずに、過去に囚われている汐屋の生き方は納得できない。許せない。戻ってきて欲しい。自分を、見て欲しい。


「兄貴はもう死んだんだ!死んでるんだよ!!」

「やめて、陸」


頼むよ、何も考えたくないんだ。

汐屋は俯いて、最後まで陸の顔を見ようとはしなかった。膝を両腕で抱え込んで、顔を伏せる。


弱々しく震えるその肩を、兄が隣に座って抱き締めるのが見える。泣いている汐屋をあやす様に髪を撫で、耳元で優しい言葉を囁く。

幻影だ。だけど、目を擦っても何度瞬きしても消えない。他の誰でもない、自分自身が作り出している幻影だ。


ちくしょう、ちくしょう。死んだくせに、出てくるなよ。彼をこんなに悲しませているくせに。あんたはもういないんだ。何もできやしないんだ。だから、彼はもうおれにちょうだいよ。



シオくん、と呼びかける。汐屋の肩を抱く兄の腕を振り払い、無理にでも顔を上げさせて、陸は汐屋に向かい合った。乱暴に両肩を押さえ付け、半開きのまま震える唇へ、自分のそれを重ねる。ほとんど押し付けるようにした彼との初めてのキスは、涙の味がした。


汐屋はすぐに下を向いて、陸から顔を背けた。億劫そうに首を振り、また膝の上に顔を埋める。その簡単な仕種だけで、陸を全身で拒絶する。

彼と自分との間に、甘い口付けなんて存在しないのだと知った。陸は、それがますます悲しかった。




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