表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/39

1.

懐古的な趣きの金属で出来たアパートのドアの前に立ち、りくはインターフォンを鳴らすべきか否か、悩んでいた。この部屋の合鍵は兄の遺品で唯一陸が譲り受けたもので、いつも陸の財布の中に大事にしまい込まれていたが、それを出すつもりは初めからない。

一縷の望みを託し、ドアノブを回してみた。するとドアノブはくる、と滑らかな感触を手に伝え、軽い音を立てながらいとも簡単に陸を中へと誘った。


暗い玄関へ上がると、1LDKの小奇麗な室内は玄関のトーンに繋がったまま、奥まで暗雲が立ち込めているかのように薄暗かった。まだ昼の2時を過ぎたばかりなのに、カーテンを閉め切った部屋に太陽の光は欠片も入ってきていない。


部屋の主である汐屋しおやは、リビングにいた。寝間着姿のまま片膝を抱いて、ソファに背をもたれながらフローリングの床に座っている。暗くて表情は見えないが、眠っているようではなさそうだ。


シオくん、と呼び掛けると、ゆらりと首を回してこちらを振り向いた。陸を見止める目は、誰が自分に声を掛けてきたのか理解できずにいるように、暗闇の中でゆっくり数回瞬いた。汐屋に意識があるのを確認すると、陸は被っていたキャップを外し、ソファへ放り投げた。

窓辺へ寄ってぴったりと閉じられたカーテンを、勢いよく左右に引き開ける。途端、壁一面の窓からさあっと陽の光が入り込み、部屋中の輪郭を露にした。窓を開けると、今度はキッチンへ行って換気扇を点ける。すっかり秋の気配が立ち込めるようになった外界から、少し肌寒い風が部屋の中を通過していく。

明るくなった室内を見渡すと、脱ぎ散らかした服や、空になった缶にペットボトル、ゴミ箱に溢れるティッシュの山などが目に付いた。自分のテリトリーはきちんと整理整頓するはずの汐屋の部屋がこんな惨状になるなんて思いもせず、もっと早く来ればよかったと、陸は下唇を噛んだ。


「水ばっか飲んでるの?今日、飯は食った?」


立てた片膝に顔を埋める汐屋の前にしゃがみ、たずねるけれど、汐屋は顔を上げずに緩く首を振るだけだった。

少しは食べないと、倒れちゃうよ。

優しい声で言ってみても、反応はない。陸は伏せられた汐屋の頭に根気強く視線を注ぎ、相手が自分を省みてくれるのをひたすらに待った。汐屋が自分を無視し続けることはありえないということを、陸は当たり前に知っていた。


「仕事はいつまで休み?」

「……今週末まで」


有休ぜんぶ使っちゃった、とぽつり、呟く。

やっと出た言葉に少しほっとはするものの、ひどく掠れた汐屋の声は良い健康状態とはとても言えそうにない。

冷たい空気に晒される汐屋のために、何か羽織るものを持ってこようと陸は寝室へ向かった。

ダブルベッドがやっと入るだけの寝室。ベッドを跨ぎ、奥のクローゼットを開けようとしたが、それは必要なかった。

クローゼットはすでに開かれてあり、その前には数冊のアルバムが出しっ放しにされていた。紙製表紙のポケットアルバムから、布製のしっかりした大型のものまで、数は多くはないが、一枚一枚の写真が大事にしまわれていたのだろうとわかる。引っ張り出して見ている内に辛くなったのだろうか。何枚かの写真がアルバムから外され、ぐしゃぐしゃに潰され、またキレイに引き伸ばされて床に放置されていた。

今は亡き兄がこちらを見て、気味悪いほど爽やかに微笑んでいる。陸はそれを見て見ない振りをして、クローゼットからグレーの厚手のパーカーを選び、寝室を後にした。


汐屋はまだ膝を抱いて蹲っていた。丸くなった背中にそっとパーカーを掛けてやり、何も口にしていない汐屋のために、紅茶を淹れてやろうとキッチンへ向かう。しかし、紅茶を入れるためのマグカップが見つからない。汐屋が愛用しているそれは、キッチンカウンターにいつも2つ揃って並んでいるはずだった。白い地に青い模様が描かれただけのシンプルなマグカップ。汐屋と、そして兄の分と。

仕方なく食器棚から普段使われない来客用のティーカップを取り出す―ここには陸専用のマグもある。まっ黄色で無地の、子供が使うような軽い素材のものだ―。しかし、いざ紅茶を淹れようとキッチンの括り付けの棚から茶葉のストックがある缶を下ろすと、思いの外軽く、中身は空だった。紅茶しか飲めない汐屋が茶葉を切らすなんて。ため息を吐き、缶を元に戻した。


抜け殻になってしまっている汐屋の代わりに甲斐甲斐しく働く陸を、第三者が見れば、同情から行動しているのだろうと思うだろう。掃除なんて自分の部屋すら滅多にしないくせに、散乱しているゴミを拾い、点々と散らばる洗濯物を集め、ついでだからと布団のシーツまで腕に抱え込む。陸はそんな自分が滑稽に思えて苦笑した。

仕方ないのだ。悲しみに沈む汐屋と同じように、こうしていなければ目の前の現実と向かい合えない。


洗濯物を両腕に山ほど抱えて、洗濯機のある風呂場に向かった。風呂の残り湯を使えないかと風呂場の扉を開けた時、すぐに異変に気付いて、陸は思わず声を上げそうになった。

タイルの床に、何か白い硬質な物の破片が無数に散らばっている。一瞬窓ガラスが割れたのかと思ったが、突き上げ式の小さな窓の磨りガラスには一筋のひび割れもなく、ぴったり窓枠に収まっている。

破片の一つを手に取る。つるつるとした感触。クリーム色の破片の隅には、薄く青い筋が掃かれている。あの陶器のマグだ、と陸はすぐに気が付いた。ここに兄が来た時にだけ使う、いつもテーブルに仲良く並んだお揃いの。

陸は足元から得体の知れない寒さがざわざわと立ち上ってくるような気がした。2つ分のマグの破片たちは、タイルの冷たく乾いた床に、モザイクを描くように無造作に散らばっている。


なにしてるの。

不意に背後から声が聞こえ、振り返ると、開いた扉にもたれながら汐屋が立っていた。薄っすら笑みを作ってはいるが、アーモンド型に弧を描いた優しげな目は虚ろに陸を映すだけで、そのせいか汐屋の表情は能面のように張り付いたものにしか見えない。

光の下で久しぶりに見る汐屋の顔はげっそりと頬がこけ、目は充血して落ち窪んでいた。もともと白い肌からは血の気が失せ、青白く、病人のようだ。緩くパーマの掛かった髪は寝癖のまま、顔に暗い影を落とす。左目の下の特徴的な泣きぼくろまで、今は表情を重たくしている。

陸が言い淀み、目線を下にさまよわせると、汐屋の方が先にそのことを口にした。


「ああ、それ…今朝、割っちゃったみたい」


ごめんね、後でちゃんと自分で片付けるから。

曖昧に微笑む汐屋の口調は、掠れた声と相まって安定感がなかった。汐屋を取り巻く空気は、プールで泳いだ後の気だるい倦怠感に似ている。割っちゃったみたい、なんて。きっと衝動的に行動してしまって、自分でも覚えていないのだろう。


「もう仕事の時間じゃないの?おれは大丈夫だから、行っておいで」


口篭る陸を優しい笑みで見つめながら、汐屋はいつもの口調に戻って、言った。そして洗濯物を陸から引き継ぎ、洗濯機に無造作に放り込んだ。水を貯め、洗剤を手に取り、じっと洗濯層の中を覗く目は、やはり虚ろなまま。

このアパートから陸の勤め先までは、徒歩で10分掛からない。仕事の時間までまだあと2時間以上あるが、これ以上ここに自分がいてもどうしようもないこともわかっていた。

陸はリビングに戻り、ソファに放っておいたキャップを被り直すと、辺りを見渡した。部屋の中は片付いたが、汐屋には余計なことだったかも知れない。キレイに片付いて閑散としすぎたこの空間は、寂しさを助長するだけのような気がした。

柔らかな色合いの丸い木製テーブルで兄と汐屋が向かい合って座り、あの揃いのマグで朝食やティータイムを楽しんでいるのを、陸はまるで今目の前で起こっている出来事のように、ありありと思い描くことができる。風呂場で洗濯をしている汐屋を、コーヒーを飲みながら待つ兄の姿が、目に見えるようだった。


「じゃあ、行くね」


陸は呟いたが、洗濯機の前に立ち、ぼうっとしている汐屋の耳には入っていないようだった。玄関で靴を履き、ドアノブを握る手に力がこもる。陸は奥歯を噛み締め、そっと音を立てないようにドアを押した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ