4.
従業員用のロッカーのある狭い室内で、陸はソムリエエプロンを丁寧に腰に巻き、長い後ろ髪を一つにまとめた。気合入れのために両頬をびしっと叩く。
先日汐屋の件で店を開けてしまった分、スタッフに示しがつかないと、陸はあれから休みなく働き続けている。店長は厳しく陸を説教したが、その後の頑張りを見てすぐに機嫌を直してくれた。自分の若さに感謝しつつ、いつバッタリ倒れる羽目になるのかと不安にもなりながら、今日も忙しく動き回る。
汐屋のことが気にならない日はない。陸の前で汐屋はちゃんとヨーグルトを食べて見せたが、その手は微かに震えていた。食べるのが怖いのだ。食べて、その後吐き出すだろうことがわかっているから。
汐屋は嘘をつくのが下手だ。言葉と表情は操れても、体の反応までは自分の意思でどうにかできるものではない。
あの日、汐屋は初めて陸を引き止めた。泊まっていけとも言った。初めてのことだ。2人きり、なんて。そんな甘い響きは期待できやしないのに。
まるで追いすがるような寂しそうな目をして、自分を引き止めた汐屋。
ズルイよ、シオくん。そんな顔をするのはズルイ。手を差し伸べようとすればするりとかわして、何事もなかったかのように前を向くくせに。「大丈夫」と言って、隙を見せず笑うくせに。人を安心させるための嘘なら、いくらでもついていいと思っている、残酷なシオくん。
「あれ、陸?もう来てたの?今日遅番でしょ?」
ドアが開いて、大輝が入ってきた。
「おう。ちょっと仕入れのことで店長に呼び出されててさ」
「ええ?今度は仕入れまで担当するの?働くねーチーフマネ!」
面白そうにからかって、大輝は自分のロッカーを開く。大輝の今日のシフトは早番だから、もう終わりの時間だ。
「……あ!」
陸が通り過ぎようとした時、大輝は小さく声を上げた。
「陸、これ」
「ん?…なに?」
大輝は自分のロッカーから一通の封筒を取り出し、陸に差し出した。淡いピンク色の封筒だった。受け取ると、大輝は言った。
「あの子から渡してって頼まれた」
「あの子?」
「昼バイトのゆりちゃん。短大生のカデオーナー志望」
ラブレターだよ、と大輝は言った。その顔は少し憮然としている。陸はふうん、とつまらなそうに呟いて、手紙を自分のロッカーの中へ無造作に放り込んだ。それを見て大輝が驚く。
「読んであげないの?」
「めんどくせえ」
「……やっぱりね」
ロッカーの扉を乱暴に閉めて、大輝は陸を見つめた。睨んだ、と言った方がいい。
「陸さ、やっぱりあの人のこと好きなんだろ?」
腕を組み、ロッカーに肩を預け。陸に向き直ると、大輝は言った。
あの人――確かめるまでもない。汐屋のことだろう。
好きなんだろ。単純だけど鋭い言葉が胸に刺さる。普段の大輝が可愛らしい様子だからこそ、余計その声には迫力が感じられた。
いつかは言及されると思っていた。大輝ははじめから汐屋と自分の関係を「危険だ」と言っていたから。
けれど陸は答えなかった。答える必要はないと思った。大輝とは長い付き合いになるけれど、だからといって何でも話せるわけじゃない。
大輝がため息をつく。それから陸のロッカーを勝手に開けて、放り込まれた手紙を拾い、陸の胸に押し付けた。
「今すぐ読めよ。そんでちゃんと返事しろ。おれ、そういうことに無神経な奴って大嫌いなんだ」
強い口調で言われ、仕方なく押し付けられた手紙を手に取る。しかし陸は手紙を読むつもりはなかった。わずらわしかった。他人からの勝手な好意というものが。
でも。それは自分も同じではないか、とふと思い直した。汐屋の家に勝手に押しかけ、世話をして、いつも気にしている。汐屋は一度だって迷惑そうな顔をしたことはないけれど、心の中まではわからない。
いつまでも手紙を読もうとしない陸の腕を、大輝が掴んだ。こっちを向かせるように引っ張る。黒く円らな瞳と目が合う。
「…陸、最近おかしいよ。朝から晩まで働いたと思ったら、急に仕事ほっぽりだしてどっか行っちゃうし、付き合いも悪くなったし、いつもどっか上の空だし」
それって、やっぱりあの人のせいなんだろ?
強気だった瞳が、ふいに心配そうな色になる。八の字に眉が垂れる。掴まれた腕が熱い。まっすぐ向かってくる大輝の感情に、逃げ場を失いそうになる。
「いい加減白状しろよ。好きなんだろ?」
「…そんなんじゃねえよ」
「嘘だ。絶対好きだよ」
「違うんだよ」
「違わない!どうして否定するの?おれ別に陸のこと軽蔑したりしないよ?お兄さんの恋人だったからって遠慮なんか、」
「――男なんだよっ!」
男なんだ。
ため息を吐くように、言った。諦念の混ざった弱く小さな声で。言ってしまった。
え、と呟いた大輝の声は力なく響き、それだけにやけにリアルで、陸は顔を上げられなかった。