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3‐4.

バカなことをしている、という自覚はあった。上司がいいというのに無理やり会社に残って残業をし、深夜近くになって帰路に着いた。

電車に揺られながら、ふと空腹だったことに気付き、何の考えもないまま途中下車した。人並みに押されながらも、足は勝手に進んだ。通り慣れた道は、犬の帰省本能のように自然と体が覚えている。

大通りを外れて、細道に入ってすぐのところで汐屋は立ち止まった。


ここだよ、と正行は言った。

得意満面の笑みで、少し後ろを付いて来た汐屋を振り返りながら。

知り合いに聞いたんだ。おまえ好みなんじゃないかって。


スイーツ好きな汐屋のために正行が連れてきてくれたその店は、確かに汐屋の好みの味だった。素朴ながらも味わい深く、どこか一ひねりした工夫があるケーキや焼き菓子の数々は、多くのスイーツ店を制覇してきた汐屋にとっても、上位にランクする味だ。

仕事帰りに寄れるだろ?そう言って正行が笑った。その笑顔は今でもありありと思い出せる。胸に込み上げてくるものがあり、汐屋はその場から一歩も動けなかった。腹は減っているのに、甘い香りが鼻先を掠めるのに、どうしても一歩が踏み出せない。


何人かの客が自分の前を行き来した。入っていく覚悟もないくせに、引き返すこともできない。何分かそうしていて、とうとう諦めた。大好きなスイーツを目の前にしても、どうせ食指は動かない。汐屋はため息をついて、踵を返した。



最近は、スイーツ一つも食べられない。食欲が湧かない訳ではない。しかし、きちんと自宅で調理しても、テーブルに並べていざ食べようと思ったところで箸がピタッと止まる。

湯気の出ている炊き立てのご飯。好物のおかず。それらを前にして、汐屋は途方に暮れてしまう。腹は減っているのに体が食べることを拒否してしまい、そうして途方に暮れている間に料理はどんどん冷めていく。

結局何も口にしないまま、料理を冷蔵庫にしまう。お湯をたっぷり沸かし、大振りのティーポットに注ぐ。紅茶が好きというより、コーヒーが苦手だから紅茶ばかりになってしまっている。戸棚から紅茶の缶を下ろす。紅茶は意外とギフトで貰うことが多く、キッチンの戸棚には、お中元やお土産など折々の機に貰った様々な銘柄の缶が並んでいる。けれど最近はもっぱら、陸が誕生日にくれた紅茶ばかり中身を補充しながら飲み続けている。


充分温まったポットから湯を捨てて茶葉を落とし、また湯を注ぐ。ティーコゼーを被せて、何も考えずに数分待つ。用意したのは白磁のマグカップ。つい先日、いつものように現れた陸が突然プレゼントしてくれた。大きくてどっしりと重く、汐屋は自分でも「これはおれ用だな」と思った。


紅茶にたっぷりのミルクを入れて、それを飲み干して眠る。朝目が覚めると、意識しないでもキッチンに立って湯を沸かしてしまう。朝晩、毎日それを繰り返している。煙草が習慣になってしまっている人がいるけれど、自分は差し詰め紅茶中毒だなと思う。全身を紅茶で出来た血液が流れているように感じた。


朝、身支度をしてアパートを出る。少し足元がフラついたように感じたけど、汐屋は気にしないことにした。




*




もうあの人のとこ行ってないの?


エスプレッソメーカーの掃除をしながら、大輝がたずねてきた。陸はカウンターテーブルを拭いていた手を止め、大輝を見上げる。


「最近、陸ずっと店に出ずっぱりでしょ?さすがにそうちょくちょく訪ねていけないもんね」


陸の返答を待つことなく、大輝が呟く。陸は曖昧に頷いた。

確かにここのところ店が忙しく、汐屋のアパートを訪ねていない。この秋から陸はフロアスタッフからフロアのチーフマネージャーへ昇格が決まり、朝から晩まで店に出ている。店長からの薦めで昇格できたのは嬉しかったけれど、正直、忙殺されるのではないかとも思うほど忙しい。


「休みもほとんどないもんね。まあ今が頑張りどころだからしょうがないけど」


続く大輝の呟きに、陸はまたしても生返事で答え、せっせとテーブルを磨きにかかる。何も考えていられない今の状況が有難いのも事実だった。


汐屋はちゃんと仕事に行っているらしく、たまにメールをすると返事はたいてい明るいものだった。「休んでた分溜まってた仕事をこなすのが大変だ」とか、「近所の猫が最近子供を産んでうるさくて眠れない」とか。


陸はふと手を休め、店の外へ目を向ける。店の前の通りには様々な人が行き交っている。これから会社へ行くビジネスマン、外回りの営業マン、それからバギーを引いて散歩している主婦の軍団、老夫婦。店内から眺める窓の外の景色は、まるでそれ自体が一枚の絵画のようだ。通り過ぎていく人々を、陸は取り残された気分でぼんやりと眺める。カフェの中の時間は停滞している。

 

ヴヴヴ、とポケットの中の携帯電話が震えた。陸は店の奥の事務所へ行き、液晶画面を開いた。そこには汐屋の会社の電話番号が表示されていた。急いで通話ボタンを押す。


「はい、もしもし?」

『・・・・あ、もしもし。坂本さんですか?私、松涛館書店企画担当の桐島です』


陸は、ああ、と息を吐いた。先日、兄の個展を開きたいと申し出てきたあの担当者だ。


『お忙しいとは思ったんですが、ちょっと今お話してもいいでしょうか?』

「あ、はい。なんですか?」

『あの、坂本さん、あ、お兄さんの方の…その個展の件なんですが、今坂本さんが所有されていた絵の原画を集める作業をしているんですが、どうしても一点だけ見つからない物がありまして』


彼曰く、兄は几帳面な性格で、自分が今まで手掛けた作品すべてに年号とタイトル、作品ナンバーを付けていて、またその記録もきちんとノートにまとめていたという。そのノートとつき合わせて作品を収集していたのだが、その中の1つがどうしても見当たらないのだそうだ。


『ご遺族の方から受け取った作品も、弊社に保存してあった作品も、すべて調べ尽くしたのですが…』

「兄貴の山荘にあった物は?」

『そちらもすべて弊社で引き取らせて頂きました。担当編集の汐屋にも訊いてみたんですが、心当たりがないらしくて』


汐屋。そうか、そう言えば兄の担当は汐屋だった。その汐屋も知らないとなると、紛失してしまった可能性が高いだろう。


『うちとしてはその作品抜きでの個展も考えているのですが、汐屋が、全部揃えるまで個展は開かない方がいい、と申しまして』

「えっ…シオくんが?」

『ええ、そうなんです。あの作品は坂本さんにとっても重要な一点だから、それ抜きでの個展は考えられない、と…』


そんなことを汐屋が言っていたなんて。ではその大切な一枚は、一体どこへ紛失してしまったのだろう。


「あの、今そこにシオく…汐屋さんいますか?」

『え、ああ、はい。ちょっと待ってください…え?早退した?』


すみません、体調が悪いので早退したそうです。

そう城島が答えると、陸はすぐさま携帯を切った。なぜか嫌な予感がした。


「大輝、おれ早退する!」

「はあっ!?何言ってんの、陸」

「あ、いや、ちょっと抜ける!ほんのちょっと!頼む!」


陸は勢いよく大輝に頭を下げると、エプロンを外し、大慌てで店を出た。とりあえず汐屋の携帯電話を呼び出してみる。コールはなかなか止まない。足早に歩きながら、陸は汐屋のアパートの方を目指した。何度も携帯を切っては掛け、切っては掛ける。


 ようやく電話が繋がったのは、店を出てから20分後。陸はすでに汐屋のアパートの前にいた。


『……もしもし?』

「シオくん?会社早退したって聞いて…大丈夫なの?」

『えっ、どうしてそれを…』

「今どこにいるの?」


汐屋は受話器の向こうで言い淀んだ。シオくん、と陸が焦れて呼びかけると、ようやく一言口にした。


『…南北病院』




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