3.
―光が強すぎるな。
正行が言った。凛として、そして厳しい声だった。
正行は絵本作家だけど、実は水彩や油彩で風景画を描くほうが好きだった。だから仕事と仕事のほんの少しの合間を見つけては、こうして家のベランダにイーゼルを出してきて、ここから見える山々の景色を小さなキャンバスに写し取っていく。
暮らすには不便なこんな山奥に家を建てたのは、身近に絵を描ける環境があるのを望んだからだ。汐屋は自分の住むアパートからここまで車で約一時間の道のりを、時々億劫に思ったものだけれど、こうして安らかな顔で絵を描く正行をすぐ隣で見ていると、そんなことはとても些細なことのように思えるのだった。
―いい天気じゃない。何がダメなの?
筆を握ったまま逡巡している正行に向かって、汐屋はたずねた。正行の端整な横顔がこちらを向く。
―晴れてたら、いけないんだよ。光が山の色を飛ばしてしまうから。
正行はそう言って、苦笑した。絵のことを何も知らない汐屋を、愛おしげに見つめながら。
繊細なんだね。
汐屋が感心したように言うと、うん、まあ些細なことだけどな、と正行はどこか照れ臭そうに俯いて笑った。長めの前髪が引き上がった頬を隠す。
繊細なのは山や天気そのものではなく、移り変わる季節の一々を目に留め、キャンバスへ写し取ろうとする正行のその心の方だと汐屋は思う。初めて見た時から惹かれた正行の絵には、そんな彼自身の緻密な心模様が見え隠れしていた。そして当然のように、彼自身とその絵をも汐屋は愛した。
―今日は山は止めて、人物画にするか。
―え?
―まひる、そこに座ってこっち向いて。
―やだよ、恥ずかしいよ。
―いいじゃんかよーキレイに描いてやるから。
正行は子供のように笑い、汐屋を真正面から見据えた。筆を置き、木炭に持ち変えると、真っ直ぐ汐屋へ視線を向ける。本格的に人物画を描くことにしたようだ。
―ほら、笑えって。
正行がふざけて汐屋をせっつく。汐屋は曖昧に笑って、たまらず下を向いた。自分を見つめる正行の優しすぎる瞳が、時折いたずらなまでに汐屋を苦しませるのだった。