【8】
「ご卒業おめでとうございます」
織原くんと仲が良かったと嘘を吐いて、私は先生から一足早く卒業を前に織原くんの死を聞かせてもらった。
現実を受け入れるのは難しかったけど、先生がまだ受験を終えていない私のことを気遣ってくれたおかげで震える足をなんとか鼓舞することができた。
「心からお祝いを申し上げます」
織原くんは、ずっと闘病生活を続けてきたらしい。
人よりも免疫が落ちているから、感染症に気をつけるためのマスク。
でも、病気と闘ってきたことを誰かに気づかれたくなかった織原くんは、マスクの向こう側でも笑顔を伝えることができるように努力をしてきた。
体育の授業に参加できなかった日も、通院で授業に遅れてきた日も、柔らかな笑顔を浮かべて、いつもの日常を送るために学校へと足を運んだ。
「これから続く未来でも、どうか自分の頑張りを認めてあげてください」
織原くんは長きに渡る闘病生活をクラスメイトたちに知られることなく終えるっていう、理想を実現することができた。
最後の最期に、織原くんは夢を叶えることができた。
織原くんの両親が担任の先生に話してくれたことを、担任は私たちに包み隠すことなくそのまま伝えてくれた。
「卒業生全員の未来が幸多からんことを」
生徒に何か不幸があったとき、机の上に一輪の花を飾ることになっているらしい。
ドラマか何かで見たことがあるようなワンシーンが私たちの日常に加わりそうになったけど、織原くんが『いつも通り』を望んでいたことを思い出した。
その一輪花を飾ること自体をやめよう。
織原くんは亡くなったのではなく、織原くんは卒業式を休んだだけ。
私たちはいつも通りを送るために、織原くんの机は織原くんが勉強に使っていたままの状態にしておこうと決めた。
「最後は屋上で記念撮影! 移動してー!」
織原くんは、いつも笑顔でいようって癖をつけていたのかもしれない。
そんな癖は、今を生きる私たちが明日を生きていくための勇気へと変わっていく。
「今年、どんなチョークアートかな」
「楽しみすぎる!」
高校を卒業する直前で、私の日常には変化が訪れた。
昼休みと放課後に、普段踏み入れたことのない屋上へと向かう。
私を迎え入れてくれた織原くんとチョークアートの制作に取り組みながら、織原くんの話を聞くという新しい日々が始まった。
「うわぁ」
「すごっ」
でも、屋上に織原くんの姿は見当たらない。
でも、屋上では歓声が沸き上がっている。
織原くんが亡くなったことで静まっていた空気に、いつもらしさが戻って正直ほっとした。
(私たち、ちゃんといつも通りだよ)
私たちの高校の屋上はコンクリートの色ではなく、コンクリートに緑色の塗料が塗られている。
この緑色はなんのために塗られた色なのか考えたこともなくて、私の高校の屋上は緑の色が広がっているって事実が当たり前のように溶け込んでいた。
(そっか……)
でも、今日、高校三年間を終える最後の最後に、屋上が緑色で塗られていることの意味を実感することができた。
この緑色は、織原くんたち美術部部員がチョークアートを完成させるために存在していた色。
(緑は、今日の日のためにあったんだね)
屋上に描かれたチョークアートは、桜の花びらが舞う草原が舞台。
もともと存在していた緑は、草原。
そこに桜の花びらが咲き誇って、卒業生たちの門出を祝福する。
そして、1匹の強大な鯨が夢や希望を運ぶために草原を飛び回っている。
誰も夢や希望を運ぶためなんて説明をしてはいないのに、私にはそんな風に感じられた。
この鯨は、卒業生たちのために駆けつけてくれたんだってことを強く実感できる。
「撮影準備が整うまで、少し待ってて」
この、チョークアートのデザインは誰が描いたものですか。
美術部の人に聞けば、きっとその答えをくれる。
(でも、私は織原くんの声で聞きたかった)
それは叶わぬ夢となってしまったけど、織原くんがいないのなら答えを知らないまま卒業をしようと意を決する。
「屋上の上から、なんか叫んでみる?」
「えー、恥ずかしくない?」
「でも、今日が最後だよ?」
深い付き合いはなかったけど、三年生になった私を迎え入れてくれたクラスメイトの後に続く。
フェンスがなかったら落ちてしまうってところまで近づくと、足元に私と織原くんが描いた桜の花びらが落ちていることに気づく。
「藤島さんも、どう?」
「藤島さんは、そういうタイプじゃないから」
苦笑いを浮かべながら、私は遠慮するって表情をクラスメイトの二人に向ける。
「ほら、藤島さんは真面目……」
可哀想という、言葉の意味が分からなかった。
純粋という、言葉の意味がよく分からなかった。
でも、今なら、なんとなく、その意味が分かるような気がする。
「二人の叫び、聞かせて」
今日の私は、マスクをつけていない。
卒業式と教室ではつけていたけど、屋上に来たと同時にマスクを外した。
私は自分の声で、自分の言葉で、私と一年という時間を過ごしてくれたクラスメイトに青春の叫びを促す。
すると、彼女たちよりも早く、卒業生たちは最後の叫びを屋上へと響かせ始める。
「え、告白する人とか、本当にいるんだ……」
「さすがに告白は……やっちゃう?」
撮影までの待機時間は、高校生たちにとって自由を謳歌する絶好の機会。
三年間通った高校の校舎と別れを告げるために、限られた時間の中での青春らしさを見つけていく。
(私は……)
織原くんが亡くなったからって、自分の声を好きになるという奇跡は起こらない。
でも、私は声を出してみたいって思った。
周りに感化されすぎたのかもしれない。
でも、感化されたとしても、それでいい。
それが私らしさに繋がるなら、何も気にすることはない。
「織原くん」
今日も私の声は、周囲の騒がしさに負けてしまうけれど。
今日も私の声は、周囲の賑やかさにかき消されてしまうけれど。
その中に紛れることができるから、こんなにもか細い声で良かったのかもしれない。
「織原くん……」
私の小さくて弱い声を拾ってくれて、ありがとう。
いつ消えても分からないような小さな存在を見つけてくれて、本当にありがとう。
「織原くん」
彼のことを呼ぶたびに視界が滲み始めて、私の日常が日常ではなくなっていく。
溢れそうになる涙を堪えきれなくなりそうなとき、また足元の桜の花びらが視界に映り込んだ。
(今日も織原くんは)
私が赤いチョークを塗るという作業を淡々と続けていても、いつまで経っても花に暖かさや花の生命を感じることができなかった。
そこに、色を足してくれたのが織原くん。
黄色のチョークと赤が合わさることで、花びらは花びらの生を全うできるように美しく生まれ変わった。
(私のことを励ましてくれるんだね)
いつもの私に戻れるように、織原くんの声が私の心を優しく叩きに現れる。
「撮影するから、好きなとこに散らばってー」
織原くんの声が、草原を飛び立って空に向かっていく鯨を先導する。
(いつか、いつか、織原くんの声を忘れてしまう日が訪れるかもしれない)
ただでさえ、入院生活を余儀なくされた織原くんと会うことができなくなったときに私は織原くんの声を忘れかけていた。
たった数日会えないだけで、そんな感じだった。
声っていうのは、最も脆い記憶だってことに気づかされた。
「藤島さん、行こう」
「うん」
織原くんの声が、言葉が、この世界で息をしていたってことは忘れることができない。忘れることができなくなった。
「織原くん」
フェンス越しに見える、のどかな青を描く空に向けて私の声を送る。
「大好きだったよ」
だった、っていう過去形の言葉を届ける私は、やっぱり今日も意気地なしだと思う。
「ドローンのカメラに注目して!」
こんなにも穏やかに晴れた日に、私たちは卒業を迎えることができた。
最後に織原くんの大好きな青い空に出会えるなんて、緑に描かれた鯨は奇跡の生き物なのかもしれない。
「大好きだったよ……!」
鯨と桜の花びらは私たちの未来を乗せて、青い空へと旅立って行った。