【6】
「12月から卒業式までは、自由登校になります」
翌日、織原くんは学校に来なかった。
その次の日も、その次の日も、織原くんは学校を休んだ。
小学生の頃くらいまでは誰かが休むと、その理由を知っている誰かが現れた。
近所に住んでいる者同士が集まる小学校とは違って、高校生でクラスメイトの休んでいる理由を把握している人はなかなか現れない。
「学校には先生たちがいるから、これから試験を控えている人たちは遠慮しないで登校してね」
織原くんの休んだ理由を知らないまま、私たち高校三年生はもうすぐで12月を迎える。
県内でも最も遅い卒業式を迎える私たちは、高校三年生でいられる時間が少し長い。
既に進路を決めている人にとっては迷惑な話かもしれないけど、三月の卒業式は私にとってのほんの少しの希望。
(もう少しだけ、もう少しだけ、織原くんとクラスメイトでいられる……)
その、肝心の織原くんは11月の最後の日に学校に来てくれなかったけど。
私が、自分の声を出して話したいと思っている彼は、11月29日を最後に会えなくなったけれど。
(チョークアートが完成する、その日までは……)
たとえ織原くんの進路先が決まっていたとしても、織原くんは屋上チョークアートを完成させるために学校に来る。
そんな確信と自信は、まだ進路の決まっていない私の足を動かす手助けをしてくれた。
(今日も、いない……)
翌日から、自由登校という言葉の意味を知る。
これから受験を控えている人たちはみんなが学校に来るものだと思っていたけど、家で勉強している人たちもいるとクラスの人たちが話していた。
進路が決まった人たちだけでなく、家での勉強が集中できる人たちはもう学校自体に来なくなるということを教えてもらう。
(織原くんも、受験が終わるまでは来ないのかな……)
チャイムの合図と共に行動する。
私は三年間積み重ねてきた行動と、同じ行動を繰り返していく。
クラスの人たちは、午前中だけ学校で勉強する人。お弁当を食べてから家に帰る人。
私と同じで、午後もチャイムと一緒に行動する人たちに分かれた。
(屋上……誰かいるかな……)
進路が決まっている美術部やボランティアの人たちは、自由登校になった今も学校に通っているはず。
いつもと同じ学校生活を送っている私は、昼休みに厚手のコートを着て屋上へと向かった。
「はぁ」
マスクを外して、新鮮な空気を取り入れる。
屋上に敷かれた青いビニールシートが真っ先に視界に映って、その景色の中に何人かの生徒が屋上に別の色を加えていた。
(織原くんは……)
屋上に行けば、必ず織原くんが私を迎え入れてくれた。
それなのに、私を迎えてくれるはずの織原くんの姿は存在しない。
「…………」
コートを着て、マフラーを巻いて、手袋をつけて。
チョークアートを手伝うための格好をしているのはいつも通りなのに、いつも通りの景色に織原くんは映らない。
(ちゃんと大学に合格して、早くみんなの手伝いをしなきゃ……)
たった数日、美術部員の卒業制作に参加しただけ。
それなのに、春が咲く瞬間に私も立ち合いたい。
込み上げてくる願いを胸に、私は再び教室へと戻った。
(織原くんの連絡先、教えてもらえば良かった……)
今日も、屋上のチョークアートは完成していない。
だから、私も織原くんも、進路さえ決まれば屋上で再会できると信じていた。
チャイムが鳴って、勉強していた手を止めて。
昼休みと放課後が訪れたときだけ、屋上に顔を見せて。
そんな毎日を繰り返していくけど、今日も私は織原くんに会うことはできない。
『藤島さん』
織原くんの、私を呼ぶ声が記憶の中から薄れていく。
織原くんに呼んでもらえることを嬉しいと思っていたのに、その、大好きな人の声が記憶の中から失われていく。
『人と別れたときに、真っ先に記憶から失われるのって『声』なんだって』
この言葉を織原くんに言われたのは、つい最近のことのはずなのに。
この言葉を届けてくれた、織原くんの声を思い出そうって意気込まなきゃいけない日々が続いていた。
(忘れないって言ったのに……)
織原くんが言っていた言葉は、本当だった。
織原くんとの思い出はたくさん甦ってくるのに、私は織原くんの声だけを忘れてしまいそうになっている。
「……だって」
「嘘……」
今日のお昼休みも、屋上には誰かの存在があった。
屋上と校舎を繋ぐ扉の向こうから、美術部員かボランティアの人の声が聞こえてくる。
(挨拶だけでも……)
屋上に繋がる扉へと手をかける。
いつも屋上に案内してくれるのは織原くんだけど、今は自分の手で扉を開くことができるようになった。今日もいつも通り、私は自分の手で屋上へと向かう。
「亡くなったって……」
はずだった。
「まだ誰にも言わないで、受験終わってない人がいるから……」
足も、手も、動かなくなった。
「先生が、卒業式に話すって……」
屋上に向かうはずの足も、手も、冬の寒さに負けてしまったかのように凍りついてしまった。
「え、でも、だって、あんなに元気に……」
「無理してでも、学校に行きたいって言ってたみたいで……」
この声は、一年生のときに同じクラスだった女の子の声。
織原くんが私を屋上へと案内してくれたときに、私の苗字を呼んでくれた人たちの声。
それは理解できているのに、私は二人の会話の内容を理解することができない。
「っ、嘘でしょ」
「先生が嘘なんて言わないよ……」
混乱していく思考。
頭の中が、ごちゃごちゃしてきた。
「織原くんが亡くなったなんて」
それでも、頭の中をかすめていく記憶がある。
「……っぁ……」
私の中に、残っている記憶がある。
「私は……」
嘘でも、夢でも、妄想でもない。
「私は……」
織原くんと、同じ時間を共有してきた。
美しすぎる彼の声と、穏やかな彼の笑顔に、毎日のように会っていた。
「覚えてるよ……」
その、毎日が亡くなった。
彼は、笑顔を見せてくれない。
「まだ、覚えてるよ……」
二人の会話を理解しようと混乱を整えていく中で、訴えかけてくる記憶がある。
『藤島さん』
織原くんが、私の苗字を呼んでくれたときの声。
私が正気を取り戻すように、織原くんは記憶の中で私に優しく呼びかけてくれる。
薄れていくだけだった記憶が、鮮明に甦ってくる。
(それを、奇跡って言うのかな)
そんな問いかけに、答えを返してくれる人は隣にいない。
「織原く……」
マスクを外す。
大きく深呼吸をしながら、今日の空の色は何色だったってことを思い返す。
「今日の空」
校舎の中から、空を見上げることはできない。
それでも、校舎の中に差し込んでくる太陽の光は空の色を私たちに教えてくれた。
「凄く綺麗だよ」
大切なものを大切だと気づいた瞬間には、すべてのことは終わっている。
取り返しができないところまで物事は進んでいて、息を吸い込むことも吐き出すことも難しくなっている。
でも、私は生きているから。
生きているから、今日も織原くんがいなくなった世界で息を吸う。息を吐き出すを、繰り返していく。