【5】
(まだ、織原くんが来てない……)
今日は織原くん、遅いねって声をかける相手が見つからない。
まだ熱で暖められていない冷え切った教室で、私は織原くんの姿を探す。
「もう英語の予習しなくていいとか、最高っ!」
「さっさと卒業したいよね」
織原くんが教室を訪れるのが遅いからといって、それについて話す人は誰もいない。
誰かが欠けてしまったとしても、卒業間近の教室で織原くんについて話題にする人は見つからない。
私が余計なことを口にして、教室の空気を汚したくない。
そう思った私は、授業が始まるほんの少し前の時間を利用して屋上へと向かった。
「はぁ」
脱いだばかりのコートを再び来て、人がまばらな廊下を歩く。
人とすれ違うたびに織原くんの姿を探すけど、そんな都合のよい展開は訪れなかった。
新しい空気を取り込むときにマスクを外すと、吐き出す息の白さに包まれる。
そして、再び私はマスクの中へと自身の口を閉じ込めて屋上へと辿り着く。
(美術部でもないのに、迷惑かな……)
その、迷惑を問う相手はいない。
はずだった。
「あれ……藤島さん……?」
織原くんが、屋上にいた。
卒業式までにチョークアートを完成させなければいけない。
そんな責任感に駆られて屋上にいるのかと思ったけど、織原くんの手にチョークは握られていなかった。
「見られちゃったかー……」
もうすぐで12月がやって来るのに、織原くんは仰向けになって屋上のコンクリートの上へと寝転がっていた。
「今日、珍しく曇り空じゃないなーって思って」
屋上に寝転がったことなんてないから分からないけど、どんなに厚着をしていても織原くんの体温が下がっているって想像は間違いじゃないと思う。
「大丈夫だよ、絵のないところに寝転がってるからチョークは付かな……」
「大丈夫じゃないよ」
自分の声を、久しぶりに聞いたような気がする。
「風邪、引いちゃう……」
織原くんが、どういう進路を選んだのかは分からない。
もう既に受験を終えていて、風邪なんてものは引き放題なのかもしれない。
それでも私は、織原くんの体が心配になって織原くんのもとへと急いで駆け寄る。
「藤島さんの声、聞けた」
織原くんは、笑ってる。
その笑顔が、無理に笑っているように見えてしまった。
声にも、目元にも、いつもの穏やかさがない。
「私の声なんて、どうでもいいから……」
多分、織原くんは分かってる。
自分の体温が下がると分かっていながらも、コンクリートに体を預けている。
無理をしてでも、自分は屋上のコンクリートと接していたいんだってことが伝わってくる。
「ほら、仰向けになると、空がより広く見えるっていうか……」
織原くんはコートも着て、マフラーも巻いて、手袋もはめてっていう最低限の寒さ対策をしている。
それでも、織原くんの体を温めるための物を何も持っていないってことに、申し訳ないって気持ちが生まれてしまう。
それだけ、私には織原くんの顔色が悪く見えているのかもしれない。
「あ、でも、藤島さんは横にならないで。体、冷えるから」
私が仰向けになって空を見上げることのないように、彼の手が私の手に触れて制止の合図を送ってくる。
「寒いなら、教室戻ろう……?」
手袋をはめていても、どうしても指先が冷えてしまう。
お互いに、熱の引いた体。
ここに熱を持った何かは、秋の終わりを美しく輝かせるため顔を見せた太陽しか存在しない。
でも、太陽に手を伸ばしたところで、あたたかさを得ることができない。
「青春っぽいことがしたいなって」
「青春を感じる前に、織原くんの体が冷え切っちゃうから……」
こんなにも多くの言葉を発したのは、感染症が流行する前以来かもしれない。
自分の声が嫌いで、口の中に言葉を閉じ込めなければ生きていけないと思った。
でも、声を出さなきゃ、織原くんを校舎の中へと連れて行くことができない。
「体を温めたら、また戻ってこよう……?」
「でも、雲が出てきたら、青い空が見えなくなっちゃうなって」
彼に尋ねたいことが、たくさんある。
彼に言いたいことが、たくさんある。
だけど、それらすべてを片づけてしまったら、私と織原くんの関係が変わってしまいそうで怖くなった。
「灰色の空より、真っ暗な空より、青が映えた空が好きなんだ」
これからの学生生活も、何事も起こることなく平穏無事に終わらせたい。
「綺麗……」
ぼそっと呟かれた私の感想なんて無視されても当然のものなのに、彼は私の声を拾い上げてくれる。
何も面白いことなんて起きてもいない。言ってもいない。
それなのに、織原くんは楽しそうに笑ってくれた。
「青空なんて、見慣れてるはずなのに……」
仰向けに寝転がっている織原くんと、屋上で屈みこんだままの私では、空との距離が違うはず。
それなのに、織原くんと同じものをみているってだけで心が優しくなっていくのを感じる。
「綺麗……」
青空を綺麗と表現する人の気持ちが、よく分からなかった。
綺麗だとは思うけど、空は当たり前のように存在している。
曇りの日が続いたとしても、雨が続いたとしても、太陽の色と混ざり合った鮮やかな青はいつか必ず姿を見せる。
マスクの中に引きこもる私のままでいたいと思っているのは本心なのに、私は織原くんと一緒に空を見上げた。
織原くんと、同じものを視界に入れたくなった。
「藤島さんと、同じものを共有できて良かった」
日常の中に必ず存在する空。
欠けてしまうことも、消えてしまうこともないからこそ、青い空を綺麗と表現した自分が信じられない。
「この空、ずっと覚えてられるかな」
織原くんは、笑っていた。
ただ、空の色の話をしていただけなのに、織原くんは穏やかな笑みを浮かべながら私に声を送ってくれる。
「人と別れたときに、真っ先に記憶から失われるのって『声』なんだって」
「声……?」
「俺は藤島さんの声が好きだけど、卒業と同時に忘れちゃうのかな」
忘れちゃうと言葉にしたときだけ、織原くんから笑みが失われた。
織原くんの視線は真っすぐと、届くはずのない空へと向かっている。
「そんな、お別れみたいな言葉……言わないで」
私が声を発するだけで、それは言葉になった。
私が言葉を紡ぐと、織原くんは穏やかな笑みを浮かべてくれる。
「大丈夫な気がしてきた」
口を閉ざしていたことで、私は相手の瞳すら見えなくなっていたってことに気づかされる。
下へ下へと向けていた視線が、織原くんのおかげでようやく上を目指し始める。
「忘れない。この日見た青い空も、藤島さんの声も」
嘘でも、なんでもいい。
その言葉が、嬉しい。
彼の言葉が、この世に存在することが嬉しい。
「私も、忘れない」
卒業を待つ高校生にとっては、どんな言葉も涙を誘う力を持っている。
いちいち心を揺さぶられるような感覚に陥ってしまうから、心が痛みを訴えてくる。
「織原くんと一緒に見た空も、織原くんの声も」
心がぎゅっと締めつけているのも本当だけど、織原くんと言葉を交わし合うだけで心が温かくなるのも本当のことだった。
「ありがと、藤島さん」
織原くんの言葉を信じることのできる春を、織原くんと一緒に迎えたいと強く願った。