【4】
「昨日は、本当にごめん!」
織原くんと再会した翌日。
織原くんは、これでもかっていうくらい深く頭を下げて私に謝罪した。
「織原くんが元気になったなら、それで……」
私が織原くんのことを保健室まで送り届けたのは間違いないけれど、織原くんの体調が回復してくれたら何も言うことはない。
それなのに、織原くんは何度も何度も謝罪の言葉を告げてくる。
「あー……藤島さんとの会話、記憶に留めておきたかった」
「たいしたこと……話してないよ」
赤いチョークがすり減って、屋上を赤で染めることはできなくなってしまった。
チョークの箱から、新しいチョークを取り出す。
長さを取り戻した赤は、早く黄色と出会うのを待ちわびているようにも思えた。
「言葉を交わし合うって、奇跡と奇跡の積み重ねだなって」
私が、赤を塗る。
織原くんが、黄色を加える。
赤と黄色が混ざり合って、新しい色が生まれる。
「あ、真面目すぎとか思った? 俺は、本気なんだけどな」
単色だった色同士が混ざり合って、卒業を迎える三年生を祝福するための準備を整えていく。
「ひとつひとつの言葉の重なりが、俺を作ってくれてる」
雨は降らないけど、空が暗い。
織原くんは前向きな言葉を紡いでくれているのに、雲は太陽の存在を隠してしまった。
「藤島さんも、だよ」
私との会話が、織原くんという人を作り上げている。
織原くんは、そう言いたいのだと思う。
けど、私は織原くんの話の聞き役でしかない。
そんなに凄いことはできていないのに、織原くんは物語に出てくるような綺麗な表現をしてくれる。
「……卒業っぽいね」
物語を読み終わるときの寂しさのようなものが渦巻いていく。
「あ、藤島さんが返してくれた」
言葉を返しただけで、織原くんは嬉しそうに笑ってくれる。
それだけ自分が、マスクの中に自分の声を閉じ込めているってことを自覚する。
「もっと早く、藤島さんに話しかければ良かった」
もっと早く出会っていたら、私はもっと早く声を出すことができたかもしれない。
自分の声を閉じ込めることなく、クラスメイトと話ができるようになっていたかもしれない。
でも、もっと早くって言葉は妄想するだけで、現実の私たちは過去へ戻る術を持たない。
「あ、でも、未来に希望を抱いてもいいのか」
未来に夢見るだけなら、いくらでもできるはず。
それなのに、私だけは悲観的になってしまっていた。
卒業したら、もう二度と織原くんに会うことができないと思い込んでいた。
卒業したら、もう二度と織原くんと言葉を交わすことができないと思い込んでいた。
未来に希望を抱くなんてことはできないと思い込んでいた私に対して、織原くんは未来への希望をくれる。
「卒業したあとも、藤島さんと話がしたい」
私は、もっと彼と話をしてみたい。
私は、もっと彼の話を聞いてみたい。
そんな感情が生まれてくるけど、言葉を返すことができない。
私が話すことをやめてしまったら、織原くんとの言葉を交わす時間が終わってしまうと分かっているのに声が出てこない。
「織原くん、病み上がりだから……」
自分の気持ちを伝えることなく、別の話題を振る。
自分の声が嫌い。
自分の声が、綺麗に聞こえない。
「普段以上に、あったかくしてね」
自分の声が大嫌いな私は、自分の世界を狭めていくことしかできない。
私に織原くんのような綺麗な未来を描くことはできないけど、織原くんの体調を気遣うことくらいならできる。
あまりにも小さな声で何を言っているか聞き取れないかもしれないけど、織原くんの元に使い捨てカイロを持って行く。
「無理してない……?」
「うん、大丈夫」
使い捨てカイロを手渡すときだけ、織原くんは手袋を外した。
手袋同士でやりとりするのは礼儀がなっていないのかなと心配になって、私も一緒に手袋を外す。
「今日だけじゃなくて、明日も明後日も寒いから……」
「お互いに気をつけないとだね」
使い捨てカイロを手渡す際に、織原くんの指に触れた。
どっちの指も涙が出そうなくらい冷え切っていて、二人で急いで手袋をはめた。
「もっと保温性のある手袋欲しいー!」
屋上に、織原くんの声が響く。
チョークアートの作業をしている人たちが織原くんの方を振り向いて、みんなが織原くんの一言に笑顔を浮かべた。
そして再び、それぞれの作業へと戻っていく。
「さて、今日も花びら担当、頑張りますかっ」
手を取られる。
今日はどこの花びらを塗るか説明を受けていて、織原くんに屋上を案内してもらう必要はない。
それなのに、私たちは手を繋いだ。
「ありがと、藤島さん」
織原くんの手袋と、私の手袋が触れ合う。
互いの温もりなんて感じるはずがないのに、繋ぎ合った手にあたたかさを感じた。
「……織原くん」
「ん?」
彼の温もりに触れた瞬間、泣きたくなった。
自分の中で、どんな感情が湧き上がったのかは分からない。
自分で、自分のことが分からない。
でも、織原くんと過ごす一秒一秒が、とても大切な時間のように感じられた。
「藤島さん、泣かないで」
泣いている子どもをあやすかのような、そんな優しい声色で織原くんは私に話しかける。
「笑顔は隠すことができても、涙は隠すことができないから」
織原くんは、いつから私のことを気にかけてくれていたのか。
三年生になって、同じクラスになったときから?
それとも卒業間近になって、クラスメイトのことをよく知りたいと思ってくれたから?
「その涙、拭いたくなっちゃうから」
その答えを知りたいのかもしれないけど、その答えすら知らないままでもいいと思えた。
「俺ね、毎日、泣いてばっかなんだ」
「毎日……?」
「そう、毎日っ」
織原くんと過ごす、このかけがえのない一秒一秒があれば。
私は、この幸福感に溺れることができる。
ほんの少し、ほんの少しだけ、言葉を交わすために声を出してみようっていう勇気が生まれてくる。
「高校が大好きすぎるみたいで、卒業式が近づくたびに涙腺大崩壊。らしくないよね」
私は、もっと織原くんと話がしたい。
「そんなこと……ない……そんなことない、よ……」
それなのに、もうすぐで私たち三年生は卒業を迎えてしまう。
「ありがと、藤島さん」
織原くんは卒業したあとも私と話がしたいと言ってくれた。
けど、クラスメイトの関係が途絶える私たちが、未来で言葉を交わし合うことは難しくなっていく。
「いい卒業式、迎えたいね」
こんなにも近くに織原くんがいるのに、彼の声が遠くで聞こえるような感覚。
彼は、もうすぐで私の前からいなくなってしまうからかもしれない。
もうすぐ、彼は私のクラスメイトではなくなってしまうからかもしれない。
「お互い笑顔で、ね」
高校から卒業するって、そういうこと。
「うん、私も一緒に笑いたい」
別れの日が近づいているって、そういうこと。