【1】
「大学、受かった~!」
「いいなぁ、国公立の結果なんて卒業したあとだよ?」
三年前は高校に入学できるか不安で堪らなかったはずなのに、今では高校を卒業したあとの進路に恐怖と不安を抱いている。
中学を卒業するときは、ほとんどの人たちが高校の進学を目指していた。
でも、高校を卒業したら、思っていた以上に世界が広がるってことを知った。
「今から、私立にしようかな……」
「合格すれば、もう遊んでられるからねー」
大学に進学する人もいれば、専門学校に進む人もいる。
就職する人もいて、高校を卒業したらすぐに海外に旅立つ人もいる。
みんながみんな、ばらばらになっていく。
暦上では秋が終わりへと向かい、もうすぐ冬が訪れる頃。
ただでさえ肌寒いのに、みんながそれぞれの人生を形成している途中だと告げられる毎日は更に心身を震えさせる。
「藤島さん」
クラスメイトの声に耳を澄ませていたら、左隣の席から声が届けられる。
「目つきが険しいよ」
マスク越しの、その声の主は織原くん。
くぐもっているはずなのに、私は彼の声に気を引かれた。
「先に進路が決まる人が出てくると、焦っちゃうよね」
小学生の頃までは、隣の人と机がくっついていた。
でも、中学になると、隣の人は隣の人ではなくなった。
くっついていたはずの机が離れて、みんなが孤立して授業を受けるようになった。
「気持ちはわかるけど、生きてる限りなんでもできるんだから」
小学生の頃までは、机をくっつけてのグループ活動が多かった。
みんなで話し合う機会が多かったけど、年齢を重ねれば重ねるほど、隣の席の人は他人だと感じるようになった。
クラスメイトでも仲間でもなんでもなく、隣の席に座る人は他人。
「笑ってみてよ、藤島さん」
私が中学二年のとき、とある感染症が流行した。
私たちは感染症を予防するために、普段からマスクをつけることになった。
新しいクラスで友達を作りたいと思っていたけど、初めてのマスク生活は私の声を閉じ込めてしまった。
「マスクしてるから……笑顔とか、関係ないと思う……」
もちろん、まったくしゃべらないわけじゃない。
でも、自分の声が、そんなに好きじゃないって気づいた。
自分の声で話すことが、恥ずかしくなってしまった。
「口元……見えないから……」
自分の声に自信がない。
自分の声で話すのが恥ずかしい。
そんな私は、高校三年になってもマスクを外すことができない。
「藤島さん」
マスクをつけるのは自由ですよって、先生は言ってくれた。
でも、自分の声が好きじゃない私は、今日もマスクを外したくない。
マスクは、私の声をはっきりと伝えないでくれるから。
マスクは、私の声を隠してくれるから。
だから、感染症が流行してもしなくても、私はマスクを外したくない。
私の声は、ずっとマスクの中に閉じ込めていたい。
「ありがと、言葉を返してくれて」
織原くんの声は澄んでいて、男性特有の低音とはまた違う響きを持っている。
そんな彼から送られる『ありがとう』の言葉を、ずっと記憶に留めておきたい。
他人だった織原くんの声を覚えておきたいなんて、可笑しな気持ちが動き始める。
「藤島さんの、それって」
織原くんが、自分のつけているマスクを指差す。
「インフルエンザとか、感染症対策?」
大抵の人は感染症対策でマスクをつけていると考えるはずなのに、それ以外にマスクをつける理由があることを織原くんは知っているみたいだった。
「たまには大きく息を吸い込んでみたいよね」
私の場合は、自分の声を聞かれたくないっていう防御的な意味も込められている。
でも、それらを素直に伝えていいのか戸惑う。
「…………」
織原くんも、私と同じマスク仲間。
受験生で溢れ返るクラスの中では、マスクをつけていない人の方が珍しい。
それでも、マスクを着用することを選べるようになった私たち。
だんだんとマスクからの卒業を選択して、見慣れたマスクだらけの教室に少しずつ変化をもたらしていく。
(織原くんは、私にとっての他人……)
他人に、自分の声が嫌いと告白したところで理解してもらえるわけがない。
高校生にもなれば、声が嫌いってことをからかってくる人もいないとは思う。
でも、躊躇う。
それでも、自分の事情を曝け出すのは躊躇ってしまう。
「藤島さん」
適当に相槌を打って会話を終わらせてしまえば良かったのに、それをしなかった私は織原くんに不信感を与えてしまった。
顔を上げて、どんな言葉を返されるのか覚悟を決める。
すると、待っていたのは織原くんの怒った表情ではなかった。
私を待っていたのは、織原くんが普段使用しているノート。
『藤島さんの声が好きだから』
ノートの中には、織原くんの文字が綴られていた。
「マスクつけてんの、寂しいなーって」
マスクをつけている私たちは顔の半分以上が覆われていて、お互いの表情を確認することができない。
目と声でしか相手の機嫌を感じ取ることができないのに、織原くんは笑っているって確信が持つことができた。