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第71回 織田信長と豊臣秀吉の誠と嘘

 今年も大河ドラマが始まる季節になりました。


 今年は、「豊臣兄弟」。豊臣秀吉と、その弟、豊臣秀長の兄弟を描くようで、1話を早速見ました。まあ、「どうする家康」が相当ひどかったので、それよりは面白そうだな、と感じたのと、久しぶりに戦国時代が舞台だから、とりあえず見ますが。


 やはり、かなり「美化」はされてますね。


 ここで、一般的に描く、織田信長と豊臣秀吉のイメージを書きましょう。


 織田信長に関しては、有能だけど怒りっぽく、残忍というイメージがすでにあります。

 対して、豊臣秀吉の場合、若い頃は明るくて、人たらしで、立身出世を果たしたけど、天下を取った後の晩年に急に残忍になったイメージがあると思います。


 実は、ここに大いなる「嘘」があったりします。


 まず第一に、織田信長。

 歴史とは特に「勝者の歴史」になり、歴史の勝者は簡単に記録を「改ざん」して、自分の都合のいいように書くことがありますが。


 ところが、織田信長に関してはそういう「改ざん」されたような記述がほとんどないのだとか。

 同時代の信長の家臣、太田牛一(ぎゅういち)が書いた「信長公記しんちょうこうき」や宣教師ルイス・フロイスの「日本史」によると、信長の数々の行いは、ほとんどが真実であるということです。


 つまり、若い頃の「うつけ」的な振る舞いも、伊勢長島の一向一揆攻めも、比叡山延暦寺焼き討ちも、それほど脚色されたことではなかったらしいです。


 ところが、豊臣秀吉の場合、これがかなり違ってきて、後世に脚色されて、大袈裟に描かれたものが多いらしいです。

 一例として、有名な備中高松城水攻めがありますが。


 近年の研究によると、今、語られているような大規模な水攻めはなかったのではないか、と言われていますし、墨俣すのまた一夜城伝説にしても、かなり眉唾というか脚色されてます。


 というより、豊臣秀吉は、自らの出自が貧しかったこともあり、天下を取った後に、相当自分を「持ち上げる」ように指図した節があります。


 なので、そのイメージが現代にも伝わっているんですが。


 では、実際の秀吉はどうだったかというと、これがとても「大河ドラマでは描けない」ような残虐なことを平気でやってます。それも晩年ではなく、若いうちからやっていることがわかってます。


 例を挙げましょう。

上月こうづき城落城後の対応

 天正五年(1577年)、秀吉は信長から毛利家が支配する中国地方の攻略を任され、播磨はりま国(現在の兵庫県)の上月城を攻めます。


 ここを攻めるにあたり、秀吉が国元の家来に宛てた書状が残されています。城を包囲した秀吉軍は、籠城側の水の手を絶ち、籠城側は降伏を訴えたそうですが、秀吉はこれを拒否。


 その上で、あらゆる場所から攻撃を仕掛け、12月3日、城に攻め込んだ秀吉軍は敵兵の首をことごとくはねた、とあります。


 さらに、これだけで終わらず、城内にいた女・子供ばかり200人以上を連行し、子供は串刺し、女ははりつけにして虐殺したそうです。


②三木の干殺ひごろ

 天正六年(1578年)、秀吉は今度は同じ播磨国の三木城を攻めます。


 この時、籠城をした別所べっしょ側は、兵士だけでなく、家族や浄土真宗の門徒も含む「諸籠もろごもり」を決行し、約7500人が籠城します。


 秀吉は補給路を絶つため、周辺の支城を次々に落とし、城内の食糧は枯渇。鶏・牛・馬・犬などを食し、それも尽きると人肉を食べるという究極的な飢餓状態になります。


 1年10か月後、追いつめられた城主、別所長治(ながはる)は、城兵の命と引き換えに自ら命を絶ちますが、秀吉はその約束を反故にし、城兵はことごとく殺されたそうです。


③鳥取のかつえ殺し

 天正九年(1581年)、続いて、秀吉は鳥取城に攻め込みます。城主は、毛利家の吉川きっかわ経家(つねいえ)


 秀吉は、事前に商人に命じて、米を高値で買い占め、米価を釣り上げて、鳥取城内では兵糧米の横流しが行われます。


 秀吉は、城の周辺に数十の砦を築き、補給路を完全に遮断。

 籠城側は、わずか1か月で兵糧が尽きます。

 三木城の時と同じく、城内では人肉を食するほどの飢餓に陥ったと言われます。


 確かに、怖い上司、織田信長の命令に従った、という理由はあるかもしれません。

 ただ、それでも同じ戦国時代で、ここまで残虐に城攻めをしたという武将は、実は多くないのだそうです。


 戦国時代とはいえ、城攻めにもある程度に「暗黙のルール」みたいのがあり、通常は女や子供は逃がすのが珍しくなかったのです。


 ルイス・フロイスの著書「日本史」においても、秀吉の残虐性は目立っています。


 天正十五年(1587年)、秀吉は自らの出生地である尾張おわり国(現在の愛知県)に、血縁関係にある貧しい姉妹がいることを聞きつけます。

 貧しい農民だった彼女たちを秀吉は「彼女らを姉妹として認め、然るべき待遇をしよう」と姉妹に伝達。

 強引に都に呼び出し、彼女たちは都に行きますが、京に入るとすぐに、この姉妹は捕縛され、首を斬られたそうです。


 また、有名なのが「女好き」で、50歳を過ぎても城内に300人以上の娘を囲っており、諸国を訪問して、「女狩り」をしていたとまで言われています。


 以上のことから、私個人としては、豊臣秀吉は好きではなかったりします。


 ちなみに、織田信長は確かに残虐なことを数多く行っています。

 ただ、その反面、一部の女性に優しかったという記述もあるので、彼にも二面性はあると思っています。


 ということで、戦国時代の「英雄」とされている二人について。


 徳川家康については、また別の機会で書こうと思います。

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