第51回 忍者について
今回は、どちらかというと、日本人より外国人、特に欧米人に好まれる「忍者」について。
忍者というのは、大体、室町時代から江戸時代に活躍した諜報・破壊・暗殺などを目的とした要はスパイ、ゲリラみたいなものですが。
いわゆる忍者が存在した時代には彼らは「忍び」と呼ばれていましたし、その他「乱破」、「素破」、「草」、「奪口」、「かまり」など各地域によって、呼び方が違ったそうです。
ちなみに、今はあまり使われませんが、新聞記者などで、「すっぱ抜く」という言葉が使われる(スクープとしてスキャンダルなどを報道する)ことがありますが、この語源が「素破」と言われています。
有名な忍者集団として、伊賀衆(現在の三重県伊賀市、名張市周辺に活躍)と甲賀衆(現在の滋賀県甲賀市周辺に活躍)がいますが、彼らは元々、その土地に土着していた土豪で、一種の傭兵集団だったと考えられています。
なお、「甲賀」は「こうが」ではなく「こうか」が正しいそうです。よく間違えられますが。
忍者は戦国時代に多く活躍しましたが、場所によっては、ほとんど野党くずれ、山賊くずれの人間が、武力頼みに「忍び」として雇われたところもあったとか。
ちなみに、「くノ一」と呼ばれる女忍者について、よく漫画などで出てきますが、もちろんほとんどが創作。
実際には、女忍者はいても、ほとんど裏方だったようです。
有名なのは、武田信玄に仕えた望月千代女という女性。彼女は「歩き巫女」という巫女に偽装した女性たちを束ねて、情報収集を行っていたそうです。
つまり、漫画などで出てくるような、忍装束を着て、前線で活躍するみたいな女忍者はほぼいなかったとみなされています。
元々、忍者の起源は、平安時代やその前の古代にさかのぼるとも言われていますが、本格的に活躍し始めたのは、室町・戦国時代頃。
一説には、聖徳太子が、大伴細人を「志能備」として用いたと伝えられる地域もあるようですが、『日本書紀』等にそのような記載はありません。
それでもいわゆる「スパイ」というのは、歴史的に見ても古くからいるので、古代からいたとしてもおかしくはありません。
有名な「服部半蔵」についてですが、彼らは代々「服部半蔵」を名乗っており、徳川家康に仕えて有名になったのは「服部半蔵正成」と言われています。しかも正成は、忍者としてより、どちらかというと「武士」として家康に仕えていた形跡があります。
その息子の正就、正重の時代になると、ほとんど官僚化しており、忍者としての活躍などほとんどなかったようで、それどころか配下の伊賀同心たちから「俺たちは服部家の家来ではない」と幕府に訴えられています。
江戸時代になると、八代将軍・徳川吉宗の頃に、「御庭番」というのが出てきますが、御庭番は忍者と思われがちですが、将軍・吉宗が紀州藩から連れて来た者を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎなかったため、忍者とは関わりがないそうです。逆に土地に残った伊賀衆や甲賀衆はそのまま百姓身分化したので、忍者自体が需要がなくなったのかもしれません。
日本史において、最後の忍者とされるのが、沢村保祐(甚三郎)で、彼は津藩・藤堂家に仕えていた忍者だったそうです。
沢村は、マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、調査のために船上パーティーに日本側随行員として参加し、パン、タバコ、蝋燭、便箋を持ち帰ったとされています。これがいわゆる忍者の活動の最後だったとされています。
明治維新期になると甲賀武士などは一転して倒幕派となり甲賀隊を結成して戊辰戦争に参加しましたが、忍術書に見られるような忍術は実戦では何の役にも立たなかったと言われています。
明治末期には立川文庫の作家たちによって、真田十勇士の猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博します。
また、映画の実用化により、特撮技術を用いた忍者ものが創作され、戦後には多くの映像作品が生まれました。
そんなわけで、今では海外にも広がり、忍者は世界的にも人気があるわけです。
ちなみに、よく言われる上忍・中忍・下忍という忍者の身分ですが、実際の『萬川集海』という忍術伝書の記述では、上忍とは「人の知る事なくして、巧者なる」者であり、必ずしも身分の上下を現すものではないようです。
ということで、まだまだ謎が多い忍者についてでした。




