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第44回 瀬戸内のジャンヌ・ダルク

 今回は、わかる人はわかる話ですが。


 戦国時代、伊予いよ国(現在の愛媛県)にいたとされる、伝承上の人物が主人公。


 大祝おおほうりつる(1526~1543)


 通称「鶴姫」。

 鶴姫は、瀬戸内海の大三島おおみしまにある、大山祇おおやまづみ神社の大祝職(大宮司)であった、大祝安用(やすもち)の娘で、兄には安舎やすおく安房やすふさがいたとされています。


 彼女の生涯は、小説やドラマなどで有名になりましたが、たびたび大三島に侵攻してきた周防すおう国(現在の山口県)の戦国大名、大内氏の軍勢に対し、兵を率いて立ち向かい、何度も撃退するも、最期は戦死した恋人・越智おち安成やすなりの後を追って自殺したという、いわば「鶴姫伝説」として知られています。


 また、彼女が着ていたとされる、紺糸こんいと裾素懸すそすがけ威胴丸おどしどうまるという鎧が残っており、これが胸の部分が膨らんでおり、腰に向かって細くなっていることから、「女性用の鎧」と言われたことが、余計に煽っている気がしますが。


 実は、この鎧自体、「女性用の鎧」ではないという指摘があります。そもそも戦国時代には様々な鎧が開発されてきましたが、鎧を着用した将兵の活動や歩行の便を図るため、胴の胸周りを大きめに張り出して呼吸を楽にしたり、胴の裾を腰骨に乗せるように細く絞ったことで、肩にかかる胴の重量を分散させ、長時間の装着の疲労を下げる目的があったそうです。


 もっとも、現在でも一応、女性用とされる鎧自体は残っていますが。


 また、そもそもこの「鶴姫」の伝説自体が、眉唾物まゆぶばもので、当時の一次史料には、彼女の名前すら出てこないそうです。


 鶴姫伝説が広まったきっかけとなった小説「海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク」(1966年)の作者、三島安精が下敷きにしたという、「大祝家記」は、大祝家が、江戸時代の1761年(宝暦11年)に記録や口伝をまとめた「門外不出」の家記とされていますが、大山祇神社は「大祝家記」の所在を確認していないので、現在は行方不明だそうです。


 一方、大祝家(現在は三島家)に伝来した「三島家文書」には大三島合戦の記述もありますが、その中に鶴姫もしくは女性が合戦に加わって、水軍を率いて大内軍と戦ったという記述が見当たりません。そもそもここで描かれた合戦は、1541年6月の物だそうです。


 つまり、鶴姫が最後に戦ったとされる、1543年6月の合戦については、明確な一次史料自体が存在しない上に、その時期の大内氏は第一月山富田(がっさんとだ)城の戦いで、出雲いずも国(現在の島根県)の尼子あまご氏に敗北し、当主の義隆の養子・晴持はるもちが死亡した直後であり、大内氏が伊予まで戦線を広げる余裕がなかったとされています。


 まあ、早い話が伝説が独り歩きして、祭り上げられたという感じですが、現在の大三島では、鶴姫自体を観光資源にして、色々と展開しているようです。


 それ自体は、別に悪いことではないと思いますし、否定するつもりはありません。


 実際、私も大三島に行って、大山祇神社に行ったことがあります。


 鶴姫の信ぴょう性については、置いておいても、この神社にある宝物館は、かなり貴重な甲冑などが置いてあり、一見の価値があります。

 なんと、全国の国宝・重要文化財の武具類の約8割がここにあるそうで、源頼朝や義経の鎧などもあるそうです。


 ということで、瀬戸内にロマンを感じるような人は、行ってみてはいかがでしょうか。

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