第43回 デストロイヤーと呼ばれた男
このタイトルで、ピンと来た人は、恐らくなかなかの軍事マニアです(笑)
「撃墜王」と呼ばれた人物は、太平洋戦争の日本にも、有名な「大空のサムライ」、坂井三郎をはじめ、数多くいましたが。今回は彼らとは違う、一風変わった人物。
今回の主人公、それは菅野直(1921~1945)。
そう。わずか23年の生涯を終えた、早すぎる死。
しかし、その短い生涯で、彼はものすごく濃密な時間を送っているので、人間の一生とはまさに「何を成したか」というのがわかるのです。
まあ、細かい説明は、Wikipediaを見ていただいた方が速いのですが、ざっくりと説明します。
大正10年(1921年)、警察署長だった父の赴任先である、竜口(現在の北朝鮮平壌近郊)で生まれ、宮城県の現在で言うと、角田市で育ってます。
その菅野、小さい頃から「ガキ大将」的な少年で、7、8歳の時に、近所の野犬と格闘し、ナイフで突き殺したと言われています。
ただ、同時に勉学にも励み、クラスでトップクラスの成績だったと言うので、まさに文武両道だったらしいです。
陸軍士官学校と海軍兵学校を受験するも、陸士は身長不足のため不合格。海軍に入ります。
飛行学生の頃、訓練中に教科書を読んで、勝手に宙返りを覚え、射撃の成績も優秀だったので、標的ギリギリまで接近して射撃する、という技術を覚えます。これが後に生かされます。
さらに、危険なため、着陸禁止になっていた滑走路に勝手に着陸し、機体が転覆して大破する事故を度々起こし、それでいて咄嗟の判断で頭部を守って脱出、大きな怪我もしなかったとか。
結局、菅野は学生のうちに、4、5機は飛行機を壊したと言われる、破天荒ぶりを発揮。ついたあだ名が「菅野デストロイヤー」だったそうです。
ちなみに、菅野自身が、残している飛行学生時代の写真の裏に「stantハ終ワッタ」と書いてあるので、恐らく本人は飛行学生時代に、飛行機の性能について、限界ギリギリまでテストする気でいたのでしょう。その経験が確実に後に生かされます。
そんな彼が大活躍したのは、昭和19年(1944年)から。第343海軍航空隊に配属され、隼部隊の分隊長を命じられてからです。
部隊は、パラオで大型爆撃機を迎撃する日々を送り、その中で菅野は独自の対大型爆撃機戦法を編み出します。
これは直上方から大型爆撃機を攻撃する戦法で、前方高度差を1000メートル以上取り、背転して真っ逆さまに垂直で敵の編隊に突っ込み、死角となる真上から攻める、というものですが。
常識的に考えてあり得ない戦法で、これは下手をすると機体がぶつかってしまうわけです。
なので、これには高い反射神経と恐怖に打ち勝つ強い精神力が必要とされます。
ところが、この方法で菅野は何度も敵機を落とし、菅野の機体についていた黄色いストライプの模様から米軍は彼を「イエローファイター」と呼んで恐れたそうです。
もっとも、この菅野の戦法を真似できる同僚は一人もいなかったそうですが。
同年12月、第343海軍航空隊(通称・剣部隊)の戦闘301飛行隊(新選組)隊長に着任。
菅野は自分の機体、紫電改に黄色のストライプ模様を描いたそうです。
その菅野の才能を見出したのが、この第343海軍航空隊司令の源田実。後に航空自衛隊の育ての親として、現在に続くブルーインパルスを創設した男ですが。
源田が言うには、「菅野は勇猛果敢で戦術眼もあり、戦闘技量も抜群」だったそうです。
その反面、ある同僚が「菅野には既存の秩序に逆らってそれを打ち破ろうとしていたようなところがあった。だから規則にうるさい上司だったら、菅野は秩序を乱す不届き者と見られ、彼自身腐ってしまったかもしれない。源田さんはその辺を見抜き、とにかく戦闘に勝ってくれればよしとして細かいことは一切言わなかった」とのことなので、菅野は源田に心酔していたそうです。
この辺、現在のサラリーマンにも通じますね。確かに破天荒な奴というのはいます。
昭和20年(1945年)、8月1日。
九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、菅野以下の紫電改20数機は九州の大村基地を出撃。
屋久島近くで、B-24の一団を発見し、敵上方から急降下に入ります。この時、菅野はいつもの愛機「343-A15」ではなく、「343-A-01」に搭乗していたそうです。
この戦闘で、菅野から戦闘301飛行隊所属で彼の二番機・堀光雄飛曹長の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電が入ります。
堀が、菅野の機体に寄ると、左翼日の丸の右脇に大きな破孔(穴)を見つけます。堀が菅野を護衛しようとするも、菅野が敵の攻撃に向かうように指示したため、堀はやむなく離れます。
その後、菅野から「空戦ヤメ。アツマレ」と入電があったため、堀が菅野がいると思われる空域に行くも、菅野機は空のどこにも見つからなかったそうです。
この日の戦闘では、菅野を含む3機が未帰還となっています。
菅野は、終戦後の9月20日。源田実によって、二階級特進とされ、8月1日に戦死と公式に認定され、中佐に昇進。
現在、愛媛県南宇和郡愛南町に、「紫電改展示館」というのがあり、そこに引き上げられた紫電改が展示されています。この機体は菅野とは関係ないですが、現在、日本に現存する唯一の紫電改だそうです。一見の価値はあります。
私もこれ目当てで四国まで行きました。
坂井三郎のような派手な活躍はなくとも、記憶に残るような、破天荒な短い人生を送った人物、菅野直。もっと人々に知られてほしいと思ってます。




