第37回 日本遊女史
今回は、ちょっとしたタブーというか、あまり語られない遊女について。
世界で最も古い職業、それが「売春婦」だと言われています。
では、日本においてはどうだったかというと。
古代には、神社の巫女がその役割を果たしたそうです。巫女は神に仕えながら、歌や踊りを担当していましたが、後に神社から諸国を放浪し、宿場町や港で歌や踊りを披露しながらも、性を売っていたと考えられます。
有名なのは、白拍子と呼ばれる、流浪の巫女で、これは平家物語にも出てくるので、平安時代にはいたようです。
白拍子は、中世(主に鎌倉時代)を通じていたそうですが、江戸時代になると、本格的な遊女屋が始まります。
これは、大体3つのパターンに分かれており、遊郭などで働く者、飲食店や旅籠(旅館)で個人的な点前で客を取った者(飯盛女とも)、個人的な娼婦に分かれるそうです。
江戸時代以降、有名な江戸の吉原を始め、大坂の新町遊郭、京都の島原遊郭、長崎の丸山遊郭などが登場。
遊郭というのは、ただ単にエロを主としたわけではなく、遊女は文化・文芸にも長じており、江戸時代の庶民文化を形成していたことでも有名ですが。
一応、ランクがあったようです。
上から順番に以下のようだったようです。
・高級遊女
太夫と呼ばれる、最上位の女郎や、格子女郎と呼ばれる、太夫に準じる高位の遊女がいたそうです。
・中級遊女
座敷持と呼ばれる、居住用の自室とは別に接客用の専用座敷が与えられている遊女。部屋持と呼ばれる、廓内に自室が与えられている遊女などがいたそうです。
・下級遊女
送り込みではなく、職住一体の居稼ぎで、小見世や長屋形式の切見世に居住し、客を取っていたそうです。
・新造
13~17歳の遊女候補生や、不人気だった格下遊女など。
・禿
廓に売られてきた12歳以下の童女。いわゆる「見習い」としての付き人や雑用を務めたそうです。
当時は、遊女の平均的な年齢が大体15~25歳くらいで、25歳くらいまでに身請けと呼ばれる、客と仲良くなって結婚、あるいは愛人として囲われるケースが多かったそうですが、そうでない者は、遊女の指導的立場になったそうです。
ちなみに、現代でも風俗嬢に使われる「源氏名」という、仮名は、元々はその名の通り、「源氏物語」から取っており、つまり源氏物語に登場する巻名や登場人物にちなんでつけられたそうです。
(例: 野分、桐壺、若紫など)
もっとも、今ではまったく関係なく、適当につけられているようですが。
明治時代に入っても、各地にこうした遊郭は残っていましたが、西洋人から「人身売買だ」と非難され、表向きには解放令が出されましたが、結局は、娼婦が自由意志で客を取っているという建前になり、存続してます。
大正時代に入ると、世界20数か国において、公娼制度がありましたが、法律で娼妓の自由な外出を禁じているのは、日本だけだったそうです。
太平洋戦争になると、軍属や軍人を相手にする、いわゆる慰安婦が、中国・満州(中国東北部)・東南アジアなど日本の支配地域一帯で働いていたとされています。
戦後の昭和21年(1946年)、GHQの指令により、遊郭は廃止され、赤線に変わりますが、これも昭和33年(1958年)の売春禁止法により、いったんは消滅。
その後は、トルコ風呂を経て、現在のようなソープランド(一応、風呂という名目で本番あり)、ヘルス、デリヘル、ピンサロ(本番なし)などに変わります。
なお、東京の南千住に、浄閑寺という寺があり、昔、行ったことがあります。
通称、「投げ込み寺」とも呼ばれ、吉原の遊女、約11000人が埋葬されているそうです。
当時、遊郭の女性の地位は、相当低かったため、ある意味、人権がなく、すごくかわいそうな感情を抱いてしまう、寂しいところですが、一見の価値はあります。
蛇足ですが、琉球(沖縄)にも、尾類と呼ばれる技芸を身に着けた女性がいて、冊封使(中国の使者)や首里の貴人などをもてなす、実質上の遊女だったようです。彼女たちは、売春以外に、歌や踊りの接待もしていたそうなので、日本の遊女と同じような役割を果たしていたそうです。




