第30回 本能寺の変について
「邪馬台国論争」、「坂本龍馬暗殺犯の真相」に続いて、日本史三大ミステリーと言われている、本能寺の変について。
ようやく取り上げます。
これについては、古くから色んな説が言われてきましたので、以下に記載します。
簡単に概要を書きます。
天正10年(1582年)6月2日。毛利軍に苦戦していた羽柴秀吉の救援として、織田信長が明智光秀を中国地方に派遣しており、京都の本能寺におよそ100名程度の少人数で滞在。
そこを急襲した光秀によって敗れ、殺されたという有名な事件ですね。
以下に、有名ないくつかの説を挙げます。
①怨恨説
これは古くから言われてました。つまり、江戸時代から明治時代頃まではこの説が主流でした。
光秀は信長によって、領地を取り上げられ、まだ毛利領だった土地を与えられたとか、徳川家康の饗応(=もてなしのこと)に失敗して叱責されたとか言われてますが、実はいずれも信憑性が高くはないとか。
そもそも明智光秀はすごく優秀な人物で、信長にも一目を置かれていたはずなので。それにそんな単純な理由で謀反するとは考えにくいというのもあります。
②野望説
単純に、「天下を取れる機会」だったから、光秀が裏切ったというもの。ただ、それにしては謀反が成功した後の光秀の動きは奇妙です。
頭脳明晰のはずの光秀が、変の後、まるで「何かを待っている」かのように動かず、その間に、中国大返しをしてきた羽柴秀吉によって、山崎の戦いで負けます。
とすると、計画性がなく、突発的に裏切ったとも言えます。
「忠臣」という考え方自体、実は江戸時代に作られた価値観で、戦国時代には忠義という考え方ももちろんありましたが、「有利な状況で、自分を生かす」という考え方もあったとか。
③羽柴(豊臣)秀吉説
犯罪心理学では、「被害者が死んで一番得をした人物が犯人」と考えることが多いとか。その観点から見れば、一番得をしたのは、もちろん秀吉。
しかも、中国大返しがあまりにも「速すぎる」のです。
そう。まるで「知っていた」かのように速いのが怪しいですし、通説では本能寺の変を知らせる毛利家の使者が、間違って羽柴の陣に入って、捕まえて聞いたとかだったはずですが、それが「間違って」ではなく、最初から羽柴の使者だったと考えると納得できます。
ちなみに、秀吉の軍師、黒田官兵衛がこの時、秀吉に「御運が開けましたな」と言ったというエピソードもあります。
裏で秀吉が、光秀をけしかけた、としても不思議ではありません。
④徳川家康説
これも一応ありますが、信憑性は薄いと思ってます。つまり、家康はなんだかんだで息子の信康を信長の命令で殺されて、信長を恨んでいた、という説です。ただ、家康の性格を考えると、そんな危険な冒険を侵す、とは考えにくいですし、伊賀越えでわかるように、相当慌てて、三河(現在の愛知県の一部)に帰ったことから考えても個人的には違うかな、とは思ってます。
⑤長宗我部元親説
最近出てきた説です。元親の妻が、明智光秀の家臣、斎藤利三の妹だった関係から、明智光秀と親しかったため、共謀したという説です。信長は四国征伐を考えていた節があるので、それを避けようとしたとも言われていますが、今のところ根拠は薄いです。
⑥朝廷黒幕説
これも結構昔から言われてますね。つまり、信長による、暦改訂問題、正親町天皇の譲位問題、三職推任問題などで、信長と朝廷との間には緊張状態があったということが前提。
朝廷が光秀に信長を抹殺させたという説です。この説の中心となる黒幕の想定を、正親町天皇、その子の誠仁親王、あるいは近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見らなどの公家衆、または複数などと、意見は分かれるものの、信長が朝廷を滅ぼす意思を持っていた、あるいは持っているのではないかと彼ら朝廷側が思っていたということから成り立つ説ですが。
実はこれも仮説の域を出ません。
⑦足利義昭黒幕説
信長によって、京都を追われ、毛利氏に庇護されて備後国(現在の広島県)に鞆幕府を開いた、室町幕府最後の将軍、足利義昭がその権力を奪い返すために黒幕となって旧家臣である光秀に信長を倒すように命じたとする説。
実際に、義昭は手紙を多数送っており、最後まで自らの復権を願っていたとも言われています。
ただ、すでに将軍ではなくなっており、権力がない義昭にそこまで出来るのか、という疑問はつきます。
実は調べてみると、これ以外にもかなりたくさんの説があり、キリがないのでこの辺りで辞めておきます。
結局のところ、証拠となる史料でも出てこない限り、真相は闇の中という気はしますね。
ただ、「信長」のような一種の天才的な革命家が亡くなったことで、日本史が大きく変わったのは間違いないです。
ある意味、こういう「出る杭は打たれる」的なところが日本的だとも言えますが。




