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第28回 真田幸村の謎

 ということで、今回は、日本人の間では有名で、人気も高い戦国武将、真田幸村について。


 今や小説、漫画、アニメ、ゲームなどで大活躍の真田幸村ですが。


 元々、「幸村」という名前自体が、江戸時代の書物に書かれた「作り物」の名前で、本名は「真田信繁(のぶしげ)」。恐らく「幸」の字が真田家の通字(代々、名前につける文字)だったことから発想されたのでしょう。


 では、真田氏を知るため、彼の祖父から見ていきましょう。


 真田幸村の祖父は、真田幸隆(ゆきたか)幸綱ゆきつなとも)と言い、信濃しなの国(現在の長野県)真田庄の小さな領主に過ぎませんでした。


 時は戦国時代。弱小勢力に過ぎない真田氏は、武田信玄の父、信虎のぶとらに攻められて本拠地を失い(諸説あり)、上野こうずけ国(現在の群馬県)の長野氏に仕えたと言われています。


 しかし、生き延びるために、彼は大きな勢力に属することになりますが。


 それが、有名な甲斐かい国(現在の山梨県)の大名、武田信玄。

 幸隆は、この領地を奪った武田氏の息子に仕えることになります。


 そこで活躍して、旧領地を回復。特に難攻不落の戸石といし城攻めで活躍したと言われています。有名な川中島の戦いでも活躍。


 その子、長男・信綱のぶつな、次男・昌輝まさてる、三男・昌幸まさゆき

 いずれも優秀で、特に長男の信綱は、「武田二十四将」に数えられるくらいだったわけです。


 当然ながら、武士の習いとして、「長男が跡を継ぐ」ことを期待されますが、なんと信綱も昌輝も、長篠の戦いで討ち死に。


 そして、回ってきたのが三男・昌幸。


 武家において、三男が活躍することは珍しいのです。これも「運」でしょうが、もし信綱が長篠で死なず、跡を継いでいたら、真田幸村は今ほど有名になってないでしょう。


 昌幸については、詳細は有名なので、省きますが、実は武田信玄からも認められ、豊臣秀吉からは「表裏比興(ひきょう)の者」と言われたという有名な話があります。これは「くわせもの」、「老獪ろうかい」と言った意味の、誉め言葉ですね。


 とにかく、弱小勢力の真田氏は、本能寺の変の後、巨大勢力の上杉氏、北条氏、徳川氏の間を行ったり来たりと、上手く渡り合い生き延びます。


 特に、徳川の軍を寡兵で打ち破った「第一次上田城の戦い」が有名です。


 では、その息子たちは。

 長男・信幸(信之)。次男・幸村(信繁)。


 ちなみに、信繁の名前の由来は、武田信玄の弟、武田信繁から。この信繁、兄に隠れてますが、ものすごく優秀だったので、昌幸はそれに倣ってつけたと言われています。


 問題は、この真田幸村の謎。


 謎と言うのは、「彼の若い頃」にあります。

 正直、何をやっていたのか、よくわからない部分があるそうです。


 若い頃には、上杉家に人質として行ったりしてました。

 その後、豊臣秀吉の元に人質として行きますが、その時代の幸村の動向については、史料が残ってないらしく。実はよくわかっていません。というのが「真田幸村の謎」なわけですが。


 もっとも近年の研究の結果、幸村は豊臣秀吉の馬廻衆うままわりしゅうになっており、昌幸とは別に1万9000石の知行ちぎょうを有していたとされているので、それなりの地位にはあったようです。


 ちなみに、馬廻衆というのは、大名の側近のエリートで、親衛隊みたいな物です。


 そして、有名な関ヶ原の戦い前夜の「犬伏の別れ」。これによって、真田家は、徳川方につく信之、豊臣方につく昌幸・幸村に別れます。


 これは「どっちが勝っても真田が生き延びる」という昌幸の計算があったとも言われますが、単に信之の奥さんが、徳川家の重臣の本多忠勝の娘だったから自然な流れで、とも考えられます。


 そして、第二次上田城の戦いで、今度は徳川家康の子、秀忠の3万8000人の兵力を、わずか3000人ほどで、昌幸と共に破ったとされています。


 ところが、実は世間では、「真田幸村」の名前は全然有名ではなかったとか。


 実際、関ヶ原の戦い後に、紀伊きい国(現在の和歌山県)の九度山くどやまに父・昌幸と共に流刑にされ、14年後の大坂の陣で、幸村は大坂城に入りますが。


 「真田」が大坂城に入ったと聞いた徳川家康は、「昌幸か?」と部下に尋ね、「いえ、その息子です」と返答されると、安堵したと言われています。


 徳川に「二度も勝った」のは昌幸なので、幸村自体は全然有名ではなかったので、家康が恐れていたのは、昌幸だったのです。


 それが、ご存じのように、幸村は大坂夏の陣で、徳川家康を追い詰めるほどの大活躍。


 人生50年と言われた、戦国時代において、49歳で亡くなった幸村は、人生の最期の最期で、壮烈な「花」を咲かせたような物。


 それが見る人にとって、感激したのかもしれません。「真田日の本一のつわもの」と言われ、それが江戸時代に講談を通して有名になり、後に「真田十勇士」を生み出すわけです。


 では、同時代の人は、真田幸村をどう見ていたか。


 面白いことに、彼の兄である信之は、信繁の人柄について、「柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことはない」という、およそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものだったそうです。


 源義経に代表されるように、日本人は「判官びいき」というのがありますからね。実は真田幸村にも「生き延びた」伝説があるほどです。


 日本人に今でも愛される戦国武将、真田幸村。

 どこか不思議な魅力を持った人物です。

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