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第23回 江戸の凄さとは

 今回は、首都東京の歴史の一部をご紹介します。なので、東京周辺に住んでない人には馴染みのない話になります。


 さて江戸、つまり現在の東京ですが。


 実は江戸という街は、世界史的に見てもかなり発展した一大都市だったことがわかっています。


 江戸時代に、江戸の人口が100万人を超えたのが、18世紀初頭と言われています。ちなみに、1801年のデータで、ロンドンの人口が約86万人、パリの人口が約54万人と言われています。


 江戸の歴史をたどると、戦国時代初期に太田道灌(どうかん)が江戸城を築いたことで知られてますが、その時代は、ほとんど寒村に過ぎず、江戸の周辺は湿地帯と雑木林だらけ、今のように埋め立てもなく、海は現在よりもっと内側にありました。


 その江戸に徳川家康が、豊臣秀吉の命令で入府したのが、天正18年(1590)ですが、それからおよそ45年後の寛永12年(1635年)には、江戸の人口は約28万人にもなり、これは同時期の大坂、京都の人口よりも多かったと言われています。


 そこからさらに発展し、前述したようにやがて100万人を超えますが、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった町人人口のみであり、人口100万人とは、幕府による調査が行われていない武家や神官・僧侶などの寺社(がた)、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値と言われています。


 ちなみに、「江戸」の範囲を最盛期からざっくりと割り出して見ると。


 北は現在の浅草寺せんそうじがある浅草、上野、本郷あたりまで。南はせいぜい三田から高輪たかなわあたり(品川は品川宿という別の街)まで、東は現在の江東区に当たる本所ほんじょ深川ふかがわあたりまで。西は小石川こいしかわ牛込うしごめ四谷よつや、赤坂、麻布あざぶあたりまでだったと言われています。


 つまり、現在、東京都心でも一等地と言える、繁華街の新宿、渋谷、池袋などの街は、当時は全然発展してなかったわけです。


 あくまでも江戸の中心部は、江戸城であり、江戸城を中心として円状に発展したので、江戸城の東側の神田、日本橋あたりは町人街、逆に西側の麹町こうじまちや赤坂あたりは武家屋敷が多く建ち並ぶ武家街だったことがわかってます。


 私は、東京生まれではないですが、仕事で東京に通ったり、住んでいたことが長いので、大体の地理はわかりますが、住んだことがない人には馴染みがないかもしれません。


 ちなみに、現在の、というより明治時代以降に国の中枢として発展した、いわゆる政治の中心地、永田町は完全に武家屋敷だったわけです。


 なお、今ではビルだらけで高低差もよくわからなくなっている東京ですが、元々は高低差があり、坂の多い街でした。


 有名なのは、神楽坂、けやき坂、昌平しょうへい坂などですが、当時、高い建物がなかったわけで、どこからでも富士山が見れたとか。江戸時代は幕府から許可されないとそもそも高い建物が建てられなかったのと、将軍が住むところ、つまり江戸城より高い建物を建てる=将軍を見下ろすことになるから、タブーだったわけです。


 では、江戸で一番見晴らしが良かった場所はどこかと言うと、それが愛宕山あたごやまです。

 それってどこって人のために説明すると、現在の港区愛宕。「出世の石段」と呼ばれる長い石段が愛宕神社まで続いていることで知られてますが、標高はたったの25.7m。それでも東京23区内では最高峰になります。


 幕末の慶応元年(1865)、フェリーチェ・ベアトというイギリスの写真家が、この愛宕山の頂上から撮影したパノラマ写真が残っています。


 それと、江戸(東京)では、昔は今ほど温暖化してなかったので、しょっちゅう雪が降ったそうです。


 そして、雪が降る日に起こった有名な出来事が三つあります。


 元禄15年(1702)12月14日の赤穂浪士の討ち入り、安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変、そして昭和11年(1936)の二・二六事件です。


 いずれも雪が降っている日に、これら大事件が起こっているのも不思議な物です。


 なお、同時期のロンドン、パリなどは道端に糞が落ちているような汚い街だったそうですが、江戸は清潔で、上下水道が完備。二ヶにかりょう用水、玉川上水という水路から水を引いていたそうです。


 昔から日本人は綺麗好きだったということですね。


 食文化では、現在に繋がる「寿司、天ぷら、うなぎ蒲焼かばやき、蕎麦」が江戸時代にはポピュラーになったことがわかっています。


 そして、あまり知られてないことですが、江戸では「独身男性」が非常に多かったとか。


 これは武家の長男以外が多く、跡継ぎである長男以外の次男、三男以下は部屋住みの奉公をしていて結婚する相手がいなかったり、町人や商人や農民も結婚できなかったり、となんだかんだで何と男性の約半数が未婚だったというデータもあります。


 現代社会も真っ青なソロ社会ですが、その代わり彼らは後世に残るような文化、芸術を残しています。


 そんなわけで、男性が「余っていた」こともあり、有名な遊郭の吉原よしわらが発展したと言われています。


 なお、吉原は元々は日本橋(現在の中央区日本橋人形町)の近くにあったのですが、明暦の大火以後は、浅草寺裏の日本堤(現在の台東区千束(せんぞく))に移り、「新吉原」と言われますが、一般的には、この新吉原のイメージが強く、現在もソープランドが多数ある街です。


 というわけで、江戸の歴史でした。太田道灌以前は、正直、よくわからないというか、そもそも人がほとんど住んでなかったので、割愛で。


 鎌倉時代くらいには「坂東ばんどう」と呼ばれ、坂東=田舎と、中央(京都)からバカにされていたそうです。今では信じられないくらい発展してます。

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