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第22回 最強の剣術家は誰か

 今回は、このテーマ。


 まあ、古くからよく議論される話ではありますが。

 つまり、「日本史歴代の剣豪が一堂に会したら、一番強いのは誰か?」というあり得ないテーマです。


 ただ、大真面目に考えてみると、なかなか興味深い物になります。


 では、私が考える「最強の剣士」を上げて行きましょう。


①宮本武蔵(1584~1645)


 日本人なら誰でも知ってると思います。二刀流(二天一流)の使い手で、生涯60回対戦して、一度も負けなかったとされています。


 ちなみに、武蔵が書いた有名な「五輪書ごりんのしょ」には、13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬たじま国(現在の兵庫県の一部)の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利したと記述されてます。


 もっとも、当時は「兵法者が名を上げて、仕官を探す」ために、法螺ほらを吹いた兵法者も多かったので、うがった味方をすれば、本当かどうかはわかりませんが。


 まあ、武蔵が強かったのは本当だと思います。ちなみに、武蔵は文武両道で、絵画に才能を発揮した他、武具や馬具の制作も頻繁にしていたそうです。


上泉かみいずみ信綱のぶつな(1508~1577)


 戦国時代、「剣聖」と呼ばれた剣豪の一人。上泉伊勢守(いせのかみ)とも。

 元は上野こうずけ国(現在の群馬県)の長野氏という戦国大名に仕えていたんですが、主君が武田氏に滅ぼされた後、剣術を広めるため、諸国に旅に出ます。


 信綱は陰流、神道流、念流を学んだとされ、後に「新陰しんかげ流」を創始。そうです。これが後に「柳生新陰流」となるので、ある意味、後の流派の「祖」みたいなところがある、すごい剣豪なのです。


 ちなみに門下生には、槍の達人の宝蔵院胤栄(いんえい)という坊さんもいるので、刀だけでなく、槍も出来たのかもしれません。


 信綱と言えば、色々なエピソードがあり、袋竹刀という、後の竹刀の原型を作ったと言われています。当時は、そんな物はないので、木刀で稽古していたらしいんですが、下手したら死にますからね、木刀だと。


 また、有名なのが次のエピソード。


 信綱一行が尾張国(現在の愛知県)のとある村を訪れた際、賊が村の子供を人質に立て篭もっている現場に遭遇したそうです。


 助けようにも近づけば興奮した賊に子供が殺されかねないため、手を出せずにいたところ、信綱は同じく現場に居合わせた僧侶から服を借り、頭髪をその場で丸めて坊主に変装。握り飯を持って賊に近づき、その姿に油断した賊が警戒を解いたところをすかさず取り押さえたと言われています。


 このエピソードは、後に映画『七人の侍』(監督:黒澤明)のネタに使われています。


 また、上泉信綱と言えば、「活人剣」という、「殺さずに勝つ」という精神で有名です。


③塚原卜伝(ぼくでん)(1489~1571)


 上泉信綱と並んで「剣聖」と言われる、戦国時代を代表する剣豪です。


 鹿島神宮の神官の子として生まれ、父から鹿島古流を学び、天真正伝香取神道流を修め、武者修行を続けて、数多くの剣士達に勝利したと言われています。


 鹿島新當(しんとう)流(新当流)を開き、将軍・足利義輝や細川藤孝、北畠具教(とものり)、山本勘助など著名な武将達に剣術を指南したことで知られています。


 「17歳で真剣勝負を始め、真剣での勝負が19回、37の戦に出て、一度も不覚を取らず、矢傷6か所のみだった」、「立ち合い(試合)では212人を討ち取った」と言われてますが、これは後世、彼の弟子たちが記した『卜伝遺訓抄(いくんしょう)』の後書が初出であり、卜伝の死後60年ほど経過してから世に出たものです。


 つまり「俺の爺さんの師匠は、すごかった」と誇張されてる可能性が高いので、結構眉唾物(まゆつばもの)だったりします。


柳生(やぎゅう)十兵衛(1607~1650)


 彼もまた小説や漫画などでよく描かれてきた有名な「隻眼」の剣術家ですが、実は十兵衛が隻眼だったという証拠がないのだとか。


 これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影つきかげ」の打太刀うちだちを習った時に父・宗矩むねのりの木剣が目に当たった、あるいは宗矩が十兵衛の技量を見極めるためにつぶてを投げつけて目に当たったためなどと言われていますが。


 しかし、肖像画とされる人物には両目が描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述はないのです。


 ただ、柳生新陰流の武術家の中では恐らく一番強かったのは間違いないと思われるほど、彼には多くのエピソードがあります。


 かなり多くのエピソードや真偽不明の話もあるので、ここでは割愛しますが、後に幕末に活躍した長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允(たかよし))や高杉晋作も柳生新陰流を学んでいたそうです。


 また、十兵衛は新陰流の刀法を応用した杖術と、それに用いるための特殊な杖の製法を考案したり、柳生新陰流の戦法を「先の先」から「後の先」に変化させたとも言われています。


⑤沖田総司(そうじ)(1842、あるいは1844~1868)

 

 彼も有名ですね。新選組一番隊組長にして、「天才剣士」と称された人物です。


 9歳で天然理心流の道場・試衛館に入門。若くして才能を見せ、塾頭を務めたとされるので10代ですでに「先生」と呼ばれる立場だったわけです。


 15歳の時、日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されています。つまり、早くから近藤勇は、沖田総司に跡を継がせることを考えていたのです。


 沖田家累代の墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されています。 同じく新選組の永倉新八は後年、「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」と語っています。


 しかし、天才にありがちなのですが、教えるのは下手で、稽古は相当厳しかったらしく、皆が嫌がったとか。


 つまり、「何でお前らこんな簡単なことが出来ないんだ?」と思ってしまうのでしょうね。


 沖田総司は、「三段突き」を得意としたそうですが、これは踏み込みが一度なのに、三回の突きを繰り出したとされてますが、真偽は不明です。

 ただ、剣術、剣道において「突き」は最も有効と言われ、真剣でも実は「斬る」より「突く」方が確実性が高いと聞いたことがあります。実戦剣法なのでしょう。


 なお、沖田総司は小説や漫画だと大抵、イケメンに描かれてますが、実は沖田総司より土方歳三の方がイケメン(写真も残ってます)で、土方は女にモテてモテて困る、という手紙を故郷に送っているほどなので、余程カッコよかったのでしょう。


 ただ、沖田総司は、性格が明るく、愛嬌があって、子供好きだったそうなので、その意味では、「女性受け」はする性格だったのは間違いないでしょう。


 ご存じのように当時、死の病だった、労咳ろうがい(結核)により、25歳とか27歳の若さで病死したのが惜しまれます。


榊原さかきばら健吉(けんきち)(1830~1894)


 いきなりマニアックになりましたが、通称「最後の剣客」と呼ばれる人物です。


 幕末期に男谷おたに信友から直心影じきしんかげ流男谷派剣術を習い、講武所剣術師範役、遊撃隊頭取を務めました。


 明治維新後は撃剣興行を主宰して困窮した士族を救済したことや、天覧兜割りの成功などで知られています。


 稽古では、長さ六尺(180cm)、重さ三貫(11kg)の振り棒を2000回も振ったと言われ、腕周りは55cmあったと言われているので、かなりゴツい人だったのは間違いないでしょう。


 明治20年(1887年)11月11日、天覧兜割りが行われ、当時57歳だった健吉も参加。出場者は警視庁撃剣世話(がかり)逸見へんみ宗助と、同じく上田馬之助、そして鍵吉でした。逸見、上田は失敗するも、鍵吉は名刀「同田貫どうたぬき」を用いて兜を斬り割ったと言われていますが、実はこの「兜割り」というのは剣術の達人でも難しいらしい(正確な角度で斬らないと刃が跳ね返るそうです)ので、それだけで健吉の腕が「達人級」なのはわかるわけです。


 健吉は、最期の最期まで髷を切らず、刀の代わりに「倭杖やまとづえ」と称する、帯に掛けるためのかぎが付いた木刀(※政府に遠慮してつえと称していた)と、脇差代わりの「頑固扇」と称する木製の扇を考案し、身に着けたと言われています。


 ということで、長くなりましたが、彼らが一堂に会する機会があったら、面白いだろうなあ、と思ったわけです。


 いつの時代も、「誰が最強か」というのは議論になるものです。

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