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第20回 幕末の女剣士たち

 幕末が魅力的な時代で、魅力的な多くの志士がいたという話を以前書きましたが、女性たちにも魅力的な人物がいました。


 中でも、まるで小説か漫画の主人公かヒロインのような女性たちがいました。

 恐らく幕末に詳しい人なら、知っているでしょう。


 今回は三人、紹介します。


 千葉佐那(さな)(1838~1896)


 名前は「佐奈」とも「さな子」とも。

 坂本龍馬の婚約者、恋人とも言われて、小説などでも有名ですね。ちなみに漫画「るろうに剣心」の作者は、作中のヒロイン、神谷薫のモデルが千葉佐那だと言っていたような。


 彼女の父は、千葉定吉(さだきち)。兄は千葉重太郎。定吉は北辰一刀流を創設した、幕末の剣豪、千葉周作(しゅうさく)の弟なので、佐那は周作の姪ということになります。

 つまり幼い頃から剣術の英才教育を受けた、ある意味、「剣術界のサラブレッド」だったわけです。


 おまけに美人だったため、「千葉の鬼小町」と言われて、恐れられたとか。


 結局、龍馬は京都に出て、楢崎龍ならさきりょう、いわゆる「お龍」と結婚したので、佐那の恋は実らなかったのですが、彼女は龍馬の死後も彼のことを想い続け、生涯独身だったと言われています。


 しかし、実は元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年(1874年)に結婚したとする明治の新聞記事が2010年に発見されました。その記事では、山口菊次郎とは数年で離婚、その後は独身で過ごしたとされています。


 では、佐那はどれくらい強かったのでしょうか。


 彼女は小太刀に優れ、10代の頃にすでに免許皆伝の腕前に達したそうです。佐那が19歳の安政3年(1856年)に佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(むねのり)(当時27歳)と立ち会って勝ったことが書物に記されています。


 宗徳は、佐那のことを「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つある江戸の伊達屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)と書いてあるので、やはり美人だったのでしょう。


 ちなみに、千葉佐那の写真は残ってないので、実際のところはわかりません。


 二人目。

 昔はあまり有名ではなかったんですが、最近は小説やアニメなどの影響で、有名になってきた女性です。


 中沢琴(1839~1927)


 上野こうずけ国(現在の群馬県)利根村の生まれ。


 幼少から剣術、とくに長刀(薙刀)に優れ、文久3年(1863年)、浪士組に参加する兄に従い男装して京へ上り、のち新徴組しんちょうぐみに参加、各地を転戦したとされています。


 ちなみに、新徴組というのは、いわゆる浪士組が分裂した物で、京都に残ったのが有名な「新選組」でした。それに対して、江戸に帰還した後、浪士組を仕切っていた清河八郎が殺されたので、幕臣の山岡鉄舟と高橋泥舟(でいしゅう)が再組織した、幕府側の治安維持組織が「新徴組」で、江戸を警備してました。


 新選組のような、派手な羽織はなかったようで、指揮権も実質、庄内藩が担当していたそうですが、警察官的な役割を果たしています。


 この中沢琴は、身長が170センチもあったそうです。

 当時の日本人の平均身長は、男子でも150センチ台だったので、とんでもない高身長で、今で言えば大谷翔平みたいなものですが、中沢琴は写真も残ってます。


 凛々しいというか、カッコいい顔立ちですね。


 実際、女性の格好をすれば、男性から言い寄られ、男装すれば、女性から言い寄られたそうです。


 彼女は、千葉佐那とは別の意味で結婚しなかったんですが、自分より強い者と結婚すると決めていたので、結局現れなかったため生涯独身で過ごしたと言われています。


 まあ、これには3つの推測が立つと思いますが。

①中沢琴が本当に強すぎたため、男を撃退した

②中沢琴は強かったけど、男が遠慮して勝たなかった

③そもそも対戦者が現れなかった


 本当のところはどれなのでしょうね。


 最後の一人は、悲劇の女性です。


 中野竹子(たけこ)(1847、あるいは1850~1868)


 会津藩の中野平内(へいない)の長女として、江戸で生まれました。彼女は、幼少から聡明で、5~6歳の頃に小倉百人一首を暗誦して一字も誤ることがなかったそうです。


 容姿端麗、男勝りとして知られ、その妹・中野優子も評判の美人だったそうなので、美人姉妹だったようです。


 平内は書道の達人で、溺愛する娘の教育に熱心だったようです。同藩士・赤岡大助(忠良ただよし)が文武に秀で、品性方正という評判だったので、竹子を門下に入れて学ばせました。大助は竹子の利発さに驚き、平内に願い、養女に迎え入れたそうです。


 竹子は14~15歳で経書や史書を修め詩文や和歌をたしなむまでになります。成長すると、薙刀術と短刀術を学び、薙刀は免許皆伝の腕前だったそうです。


 慶応4年(1868年)8月23日、いわゆる会津戦争で、新政府軍が城下に侵攻した際に照姫てるひめ(会津藩主・松平容保(かたもり)の義理の姉)を会津坂下(ばんげ)で捜索していたことから、相津若松城へ入り損ねます。


 しかし、「身はか弱い女であるとしても君国の危急を傍観することは忍びない」として、母・こう子らと親族や友人と共に婦女隊(娘子じょうし軍)を結成。古屋佐久左衛門(さくざえもん)衝鋒しょうほう隊に混ざって戦いに加わります。


 同年8月25日。婦女隊も敵弾が飛び交う中で切り進むがものの、女性が戦場にいると知った敵兵は「生けれ、生け捕れ」との声を上げます。


 竹子はそうはさせまいと奮戦したものの、銃弾を頭に受けて戦死したそうです。首級を敵に与えることを潔しとしなかったので、こう子と優子は敵を薙ぎ払って駆け寄り、涙を振るって竹子を介錯し、彼女の首を回収したそうです。


 享年18歳とも20歳とも言われています。


 戦国時代の女性もそうですが、武家の女性というのは、ある意味、現代では考えられないくらい強かったのです。


 ということで、有名どころで3人紹介しました。


 ちなみに、中沢琴も中野竹子も、ドラマで黒木メイサが演じてます。

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