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第19回 戦国最弱武将

 今回、紹介するのは、多分ゲーム「信長の野望」をやっている人なら知っているであろう、あの戦国大名です。


 織田信長の「オダ」の方がはるかに有名ですが、知られざるもう一人の「オダ」とも言える、小田氏治(うじはる)(1534~1602)です。


 彼が何故「最弱」と呼ばれたかを探ってみます。


 小田氏治の父は、政治まさはると言います。小田氏は関東八屋形(やかた)と呼ばれる名家の一つで、先祖には、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した、八田はった知家(ともいえ)がいます。


 関東八屋形は、他に宇都宮氏、小山おやま氏、佐竹さたけ氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城ゆうき氏です。


 小田氏の本拠地は、現在の茨城県つくば市にある、小田城という平城でした。


 天文17年(1548)、父の政治が亡くなり、氏治が跡を継ぎますが、ここからが試練の始まりです。


 当時、同じ常陸ひたち国(現在の茨城県)内では、佐竹氏が勢力を伸ばしていました。氏治は佐竹氏と協力して、勢力を伸ばしていた相模さがみ国(現在の神奈川県)の北条ほうじょう氏と通じた結城氏と戦ったわけですが、結局、この北条氏、結城氏に敗れて城を奪われます。


 永禄3年(1560)、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信が北条討伐のため、関東に出兵してきます。そこで氏治は謙信に従います。

 しかし、上杉と北条が膠着状態になると、今度は北条に鞍替えします。

 怒った謙信によって、氏治はまたも城を奪われ、逃亡。


 翌年には、城を奪還しますが、永禄9年(1566)に再び謙信の攻撃を受けて、敗北。ついには謙信に降伏します。

 以後、氏治は生き残るため、再び北条氏に寝返るなどしています。


 天正元年(1573)以降、氏治は佐竹氏と交戦しますが、翌年には籠っていた土浦城が落城。さらに翌年、北条氏が佐竹氏との戦いに勝利すると、氏治はその動きに乗じて、土浦城を奪還。

 以降も、氏治は佐竹氏との攻防を繰り返します。


 天正18年(1590)、氏治は佐竹氏との戦いに勝利しますが、小田城を奪い返すことは出来ず。一方で頼みの綱だった北条氏が豊臣秀吉に降伏したため、「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」ことを理由に所領を全て没収され、大名としての小田氏はここに滅亡。


 秀吉はこれを許し、氏治は結城秀康(ひでやす)(徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子、後に結城晴朝(はるとも)の養子)の客分として300石を与えられます。これには、氏治の娘が秀康の側室だったことが関係しています。


 晩年は、結城秀康の転封に従い、嫡男守治(もりはる)と共に越前浅羽(あさは)に移ります。同時期に庶長子である友治ともはるも結城家に仕えています。慶長6年(1601年)閏11月13日に死去しました。


 というのが、大まかな生涯ですが。


 これが「不死鳥」とも呼ばれる結果に。


 負けても負けても、諦めず戦い続けただけでも、すごいですが、彼は領民にも慕われていたようで、小田城を奪われても、領民は「小田様以外に年貢を納める気はない」と拒否したと言われています。


 さらに、小田氏治のために、命を投げ出した忠臣が彼にはいました。


 それが菅谷すげのや一族です。その話を紹介しましょう。

 菅谷一族は勝貞かつさだ政貞まささだ範政のりまさの三代に渡って、小田氏に仕えています。


 永禄7年(1564)、山王堂で先鋒を任された菅谷政貞の嫡男、政頼まさよりは、矢玉も尽き苦戦していたところ、左右の者達に一旦退くよう勧められますが。 「命を捨てて忠節を尽くすのはこの時ぞ」 と叫び敵中に斬り込み、32歳の若さで討死しました。


 菅谷家の大事な跡取り息子でもある、政頼は菅谷家嫡男としての責務よりも、小田家への忠節のために命を懸けたのです。政頼を失った菅谷一族ですが、それでも氏治への忠義の念が薄れることはありませんでした。


 天正2年(1574)、佐竹氏に大敗を喫した氏治は小田原へ逃げ、菅谷政貞・範政親子は佐竹氏に降伏しました。氏治は小田原で北条氏へ援護を求め、それに応えた北条氏が土浦城を攻めに向かいます。土浦城を守っていたのは佐竹側に降っていた菅谷範政でした。そして何と範政は戦わずして小田方の北条軍にあっさり城を明け渡したのです。佐竹氏を裏切って。


 菅谷親子にとって、氏治への忠義のために佐竹氏を裏切るなんて当然のことだったのかもしれません。しぶしぶ佐竹の配下に降っていたところへ攻め込んできたのが小田方を援護する北条軍なのですから、戦える筈がありません。きっと「お館様(氏治)が戻られる」と大喜びで開城したのではないでしょうか。


 さらに天正11年(1583)、氏治が宿敵、佐竹氏に降伏すると、 菅谷親子も氏治と共に佐竹氏に服従します。氏治が再び佐竹に攻撃を始めると、またそれに従います。


 天正18年(1590)、氏治が小田家全ての所領を豊臣に没収されてもなお、菅谷政貞は亡くなるまでの2年間を氏治と共に過ごしたと言われています。この時、氏治は持ち城も失くしており、氏治に仕えることに何の得も無さそうにも関わらず。


 息子の菅谷範政は小田家没落後、浅野長政により小田家への忠義を評価され、徳川家康の家臣へと推挙されました。家康からの待遇も厚く、城持ちの旗本となりました。与えられた城は、かつて氏治と守った手子生てごまる城。菅谷家三代に渡る氏治への忠義はついに報われたのです。


 まさに「勇将の下に弱卒無し」。弱小大名が簡単に潰されたり、名家と呼ばれる大名たちが新興大名に蹴散らされ、没落した例が戦国時代には数えきれないくらいありますが、小田氏のこの戦い方と、戦国時代の処世術は立派なものだと思います。


 「戦国最弱武将」なんて呼ばれていますが、もしかすると小田氏治は、「三国志」の劉備のように、人徳のあるカリスマ性を持った武将だったのかもしれません。

 ただのボンボンにここまで命を賭けてくれる配下はなかなかいません。


 ちなみに私、小田城に実際に行ったことがあります。今や何の変哲もない平城ですが、遺構はそこそこ残っていました。

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